2020年02月23日

【今週の風考計】2.23─千利休と古田織部が辿った数奇な運命

4年に一度の閏日の前日28日は「利休忌」でもあり、また「織部の日」でもある。まず「利休忌」で偲ばれる千利休は、武野紹鴎らに茶の湯を学び、信長、秀吉に仕えながら茶道の基となる「わび茶」を完成させ、<茶聖>とも称された。
 秀吉に理不尽な切腹を命じられ、天正19(1591)年2月28日自刃、享年70。今でも切腹は歴史的事実として流布している。

だが、1年前に読んだ中村修也『千利休─切腹と晩年の真実』(朝日新書)では、利休は切腹していないとの新説を打ち出している。というのも利休没後とされる1592年の秀吉の書状に、肥前・名護屋城(現在の佐賀県唐津市)で利休の茶を飲んだと書いてあるのを根拠に、利休は九州にかくまわれたのではないかという。
 秀吉が「朝鮮征伐」のために築いた名護屋城跡から、茶室の遺構が発見されている。しかも見つかった茶室は素朴でつつましく、利休が好んだ茶室にそっくりだったと推測されている。
2年前だったか、この名護屋城跡を見学したとき、高台から見晴らす玄界灘の沖には、青い海のかなたに対馬から釜山まで見通すことができた。こうした展望のある居室に座す秀吉は、思わしくない朝鮮の戦況に心鎮めるため、利休の点てる「わび茶」を喫したとの想像は、否が応でも真実味を帯びて広がってくる。
思えば千利休に魅せられて、唐木順三『千利休』(筑摩叢書)、野上弥生子『秀吉と利休』(新潮文庫)、井上靖『本覚坊遺文』(講談社文庫)、さらには山本兼一『利休にたずねよ』(PHP文芸文庫)など渉猟してきたが、中村修也さんの新説には驚かされた。

さて「織部の日」だが、千利休亡き後、秀吉の茶頭となった古田織部が、慶長4(1599)年、自分で焼いた茶器を用いて京都・伏見で茶会を開いた日に当たる。今から33年前に岐阜県土岐市が「織部の日」と制定した。
 ともあれ安土桃山時代に活躍した「へうげもの(瓢軽者)」戦国武将が、後に茶の湯の“天下一の宗匠”となるのだから驚く。だが織部は<大阪冬の陣>頃から徳川方の軍議秘密を豊臣側に漏らしたとして捕らえられ、慶長20(1615)年に切腹、享年72。流布されている千利休の運命と、くしくも同じ道を辿った。
興味津々、最新刊の伊東潤『茶聖』(幻冬舎)は、千利休をどう描いているのだろうか。利休と秀吉、二畳の茶室でどんな会話や駆け引きが展開されたのだろうか、さっそく読んでみよう。(2020/2/23)
posted by JCJ at 10:00 | 【今週の風考計】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする