
ボブ・ウッドワード&カール・バーンスタイン『[新版]大統領の陰謀』(ハヤカワノンフィクション文庫)は、取材過程を詳細に書き、今も版を重ねる。
権力の不正に迫る彼らは、悪を一喝するヒーローとは異なり、情報が集まる当の権力の圏内に無作法な侵入をする。本書には「ここまで手の内を書くのか」の思いを禁じ得ない。だがここまで公開するからジャーナリズムが信頼される。
今、いくつもの米メディアが倫理規定を公表する。ニューヨーク・タイムズの規定は取材源との私的しつらえでの人間関係づくりを肯定しつつ、その危険にも釘を刺し、規定全文もネット公開している。
取材過程の秘密が神秘性めいて尊重された時代は終わっている。オープンに語ってこそ市民の支持を得る、という40年前の米報道界の実践を本書は示している。
日本の取材現場の息づかいと息苦しさを感じさせるのは、神奈川新聞取材班『やまゆり園事件』(幻冬舎)だ。重度障害者19人を殺した植松聖の実像に、37回の接見で迫る。犠牲になった人たちの姿と家族の思い、障害者の権利を求める闘い、障害ある家族と今を生きる人々の肉声、植松の命もまた奪おうとしている死刑制度、いささか目まぐるしいほどに多くの焦点を提供する。
「ジャーナリズムは歴史の第一稿」(ワシントン・ポスト元社主フィリップ・グレアム)のはずなのに、名前が語られない「19人」。取材で名前を把握しながら書けない、書かないでいる矛盾に、痛苦の表情で向きあう報道人の姿もまた、静かに浮かびあがる。
