2021年09月30日

「大義なき五輪」をメディアはどう報じたか 五輪と戦争の報道は酷似=徳山喜雄

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 新型コロナウイルスの猛威のなか、無観客で強行された東京五輪は閉幕した。菅義偉首相は五輪開催とコロナの感染拡大防止の二兎を追い、権力維持と政権浮揚をねらったが五輪期間中に医療崩壊が現実的なものになり、政府はコロナ患者の入院制限を発表。現代版「棄民政策」と批判された。
 高温多湿の屋外競技は過酷をきわめ、あえぎながらマラソンや競歩をする選手の姿に、「虐待」に近いものさえ感じた。一方、選手村でのクラスター(集団感染)の発生も伝えられた。
 コロナ下で五輪を開催する意義について、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長や菅首相、開催都市の小池百合子・東京都知事らは、丁寧に説明し国民の理解を得ようとはしなかった。「復興五輪」「コンパクト五輪」など当初いわれたスローガンはなりをひそめた。こうした「大義なき五輪」をメディアはどのように報じたのか。

メダル争奪戦
「国粋報道」に


 朝日新聞は五輪開催に先だって、編集局長名で1面に記事を掲載(7月21日朝刊)。「私たちは開催期間中、コロナ下での開催に必要な準備がなされ、実践されるのか……五輪が感染状況や市民生活にどのような影響を及ぼし、後世に何を残すのかについても、目をこらします。……その光と影も、報道していきます」と宣言した。
 だが、朝日新聞にかぎったことではないが、どのメディアも従来通りのメダル争奪戦を軸とした「国粋報道」に終始することになった。日本選手のメダル獲得を連日のように1面トップで伝える読売と産経新聞の報道は一貫していた。
 朝日、毎日新聞はトップでなく2番手にメダル報道を据えるケースが見られたが、これらは小手先の操作でスポーツ面から社会面へと日本選手の感動、成功物語があふれた。新聞、放送ともに海外選手の活躍をみることがほぼできず、視野の狭い「日本ローカル版」のような報道になった。
 一方、性的少数者(LGBT)の選手や難民選手、SNS中傷を受けた選手など、新しいテーマを各紙とも積極的に取り上げた。
 しかし、その陰でコロナの感染爆発はつづき、7月29日には国内感染が過去最多の1万人を超え、その後も増えつづけた。五輪を開催しながら、国民にお盆休みの帰省自粛をもとめるといった矛盾した対応が政治不信を招いた。ワクチン接種の「成果」を念仏のように唱える菅首相の楽観発言が拍車をかけ、感染拡大に繫がったのではないか。
 日本選手が活躍すれば政権に「大きな力になる」と、自民党の官房長官経験者が発言。野党が「政治利用ではないか」と反発した。メダル争奪戦の陰にひそむ政治の思惑に対し、的確な報道ができたのだろうか。

IOC幹部の
横暴報じたか


 メダル争奪報道は国威発揚という国家主義につながる。私はかねてから五輪報道と戦争報道は酷似していると思ってきた。メダルの数を報道するメディアの姿と、どこを占領し橋頭堡を築いたなど戦況を刻々と報じる姿が生き写しである。
 戦況を伝えるのも必要かもしれないが、それ以上に求められる戦争報道は戦禍に巻き込まれた一般住民の姿を報じ、早く戦争を終結させることではないか。国の威信を背負って戦うアスリートの姿を熱狂的に報じるのではなく、今回の場合、五輪開催下でコロナ感染した国民が入院もできないという原因や対策を丁寧に取材し、伝えるのが報道の役割でなかったか。
 一方、選手のコンディションを考えれば、五輪開催は春や秋がいいのに決まっている。灼熱下に五輪を開く「愚」は、IOCの収入の約7割を占めるといわれる放映権料に端を発する。米国のNBCユニバーサル(テレビ)がその大半を負担する見返りに、米国の人気スポーツとのバッティングを避けるために五輪開催の時期や競技の開始時間にまで介入してくる。
 放映権料を得るために「開催ありき」の姿勢を貫いた「ぼったくり男爵」ともいわれるバッハ会長をはじめIOC幹部の横暴を、報道は十分に追及できたのか。近代五輪がかかえる本質的ともいえる問題、「国家主義」と「商業主義」がコロナ禍によって、これまで以上にその姿を露呈することとなった。
 多額の税金が投じられ、運営関係者や医療関係者は疲弊した。東京五輪の開催により、日本国民は何を得て、何を失ったのか、検証する必要がある。(→続きを読む)
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posted by JCJ at 01:00 | 東京五輪・パラリンピック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする