2021年11月06日

【月刊マスコミ評・出版】生活史の現実が肩透かしを食らわせる=荒屋敷 宏

 社会学者で作家の岸政彦氏が編集した『東京の生活史』(筑摩書房)という2段組みで1200ページ超の聞き書きの本が売れている。一般公募した150人の聞き手が150人の語り手の生活史を聞き出したところがユニークだ。
 例えば、「大使館の払い下げの物ってさ、厚木基地の中に倉庫があって、そんなかに入れてあるんだよ。で、銃持ってる連中だから。中は治外法権だから」と、くだけた口調の長い題で、興味深い話が収録されている。
 東京で一生懸命暮らしている人の人生を聞きたいという素朴な好奇心から、聞き手を募集したら500人近く集まったという。普通の人々への聞き書きはジャーナリズムの手法として古くからある。歴史学では口承史・口述史、オーラルヒストリーのジャンルとして成立している。この本のどこが新しいのか。
 岸氏は、『文學界』11月号(文藝春秋)で「デイリーポータルZ」編集長の林雄司氏と対談した「聞いたそのままが面白い―いまなぜ生活史か」で舞台裏を語っている。「聞きたいことをあんまりこっちが決めていると、その範囲でしか話が出て来ないですよね」「『今まで誰にも言ってなかったんだけど、実は』みたいな話は別に聞かなくてもいいから、と言いました」(岸氏)という。
 ジャーナリストは、聞きたいことを相手から聞き出し、誰にも言ってなかったことを知ろうとする。とすれば、『東京の生活史』の手法はその逆を行く。中学生の時からスタッズ・ターケルの『仕事!』や『よい戦争』を愛読していた岸氏にとって、今回のプロジェクトは「人の語りを文字化するときの新しいやり方を発明している」と思ったそうだ。
 『文藝春秋』11月号は、財務省の矢野康治事務次官に「このままでは国家財政は破綻する」を書かせた。矢野次官には16年前、『決断!待ったなしの日本財政危機―平成の子どもたちの未来のために』との著書がある。緊縮財政論は矢野氏の長年の持論で新味はない。むしろ、総選挙直前に与野党のバラマキ批判をして、増税をけしかけて、物議をかもしてやれという同誌編集部の作為が見え隠れする。
 先の『文學界』の対談で林氏は「現実の方が肩透かしを食らわせてきますよね」と語っている。予想を超える事実の面白さこそジャーナリズムの真骨頂であろう。不作為に広く円を描くような取材に立ち返り、コロナ禍の日本の現実を素朴に見つめる編集に取り組む必要があるのではないか。 
荒屋敷 宏
 JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年10月25日号 
posted by JCJ at 01:00 | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする