沖縄復帰五〇年の今年行われた知事選で、県民が示したのは「米軍普天間飛行場の辺野古移設反対」の意思表示だった。
屋良朝苗氏が復帰後最初の公選知事に就任して以来、沖縄県知事は保守と革新が入れ替わるように務める形になっている。
一九七三年私が新入社員として『世界』編集部に配属され、最初の特集が「沖縄――復帰一年の憲法状況」だった。締め切り間際、大田昌秀琉球大学教授(当時)の原稿を航空貨物便で受け取るため羽田空港まで行ったことをよく覚えている。この時以来、私と沖縄の関わりは現在まで続いているが、何と言っても強く印象に残るのは、沖縄「集団自決」裁判である。
『沖縄ノート』の著者である大江健三郎氏と出版元の岩波書店を相手取って、二〇〇五年八月に突然始まったこの裁判は、「軍は住民に自決を命じていない」と主張する座間味島の元戦隊長らを原告とする名誉棄損の民事訴訟だった。しかしその実際は、国の歴史認識、教科書の歴史記述を問う争いであった。ちょうど稲嶺知事、仲井真知事の時代である。
裁判が進行中の二〇〇七年三月「軍命はなかった」とする原告側の主張のみを根拠として、高校教科書の「集団自決」の記述から、日本軍の命令、強制、誘導等の表現を削除させる文部科学省の検定意見が出され、出版各社がこれに応じるという事態が起きた。この裁判の傍聴者の一人は「原告関係者が『これで目的は達した』と話すのが耳に入った」(『東京新聞』二〇〇七年三月三一日付)と語っている。ここにおいて、この裁判が単なる名誉棄損裁判ではなく、これまでの沖縄戦観や歴史認識を覆そうとすることが真の狙いであることが明確になった。
裁判は、二〇〇八年三月の大阪地裁判決、同年一〇月の大阪高裁判決と、いずれも大江氏と岩波書店の完全な勝訴となり、それは二〇一一年四月の最高裁で確定をみた。五年半に及ぶ裁判であった。
この裁判では、さまざまな人が証言を行ったが(『記録 沖縄「集団自決」裁判』岩波書店 二〇一二年参照)、今年七月に九三歳で亡くなった金城重明さんの「集団死は軍からの明らかな命令によるものだ。鬼畜米英の前で生き残ることが恐怖の対象となって死を選んだのが実情だ。……その後日本軍が生き残っていたことを知り、衝撃をうけた。沖縄戦のキーワードは軍官民共生共死だったが、住民は死んで、日本軍は組織的に完全な状態で生き残っており、日本軍に対する不信感、恐怖心が生じた」という自らの体験を語りながらの証言は、人々の心を揺さぶり、判決にも影響を与えたといわれる。
また一九九〇年に県知事に当選し二期務めた先述の大田昌秀さんは、一九四五年三月に学徒隊の鉄血勤皇隊に動員された体験から、最期まで「軍隊は人を守らない」「米軍基地だけは絶対に受け入れられない」と訴え続けていた。
山口昭男
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2022年11月25日号