こんなはずではなかった。記者生活を終えたら、もっとのんびりと、肩のこらないエッセー集でも読んで日を送るつもりだった。
ところが南京虐殺事件に手を出したために、それどころではなくなった。3年半かかって『南京事件と新聞報道』(朝日新聞出版)にまとめ、一息ついたところへこの欄への寄稿を依頼された。
手にとったのが阿部正子編『訴歌』(皓星社)。『ハンセン病文学全集』(全10巻、2010年完結)に収録された短歌、俳句、川柳から3300余の作品を選んで出版された。購入したまま本棚に眠っていた本の一つだ。
家族との別離、療養生活の喜怒哀楽、隔離と差別……。
【またくると中折帽子をふりし父を待ちつづけきぬこの三十年】松島朝子
【ひきつりし鏡の中の我がかほは憎しと思ふいとしとおもふ】柚木澄
【再会を云はず夏帽大きく振る】天野武雄
【帰りなば疎み嫌はるるは必定のその故郷をただに恋(こ)ほしむ】小山蛙村
【病む吾とみまもる母の乗りたれば客車の扉に錠下ろされつ】山本吉徳
すらすらとはとても読めない。一行読んでは本からしばし目を離し、衝撃を噛みしめては、また次の一行に目をおとす。
【幼な子の己が病苦も知らぬげに遊べるさまのなほあはれなり】浅野日出男
【追ひ来るを追ひ返し追ひ返し別れたる子が四十年ぶりに会ひに来ぬ】長谷川と志
苛酷な現実を映す苛烈なる抒情。人はなぜ生き、なぜ<詠う>のか。そうした根源的な問いに向き合うことを、この本は読む者に迫る。
【あなたはきっと橋を渡って来てくれる】辻村みつ子
これが巻頭の第一句だ。この本の副題ともなっている。さあ、最初からもう一度じっくり読み返すとしよう。「肩のこらないエッセー集」は、そのあとでいい。