9月9日長崎地裁前=撮影・橋場 紀子
長崎で原爆に遭いながら、国に「被爆者認定」を拒まれてきた被爆体験者に、また、指定援護区域の壁が立ちはだかった。長崎地裁は9日、被爆体験者が県と市に被爆者健康手帳交付を求めた訴訟の判決で15人を救済、残る29人の訴えは退けた。キーワードは「黒い雨」。広島の黒い雨訴訟を経て22年に運用開始された新基準に沿った判決で、今度は被爆体験者に分断を持ち込んだ。一方、8月に被爆体験者に「合理的解決参画」を約束した岸田首相は21日、「認定被爆者と同等の医療費助成」を発表したが、被爆体験者を生んだ国の被爆地域指定や被爆者認定制度の見直しは頑なに拒んだ。原爆に遭って79年、被害を受けた人たちの闘いはなおも続く。
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岸田文雄首相は9月21日、長崎の被爆体験者「救済策」として、医療費助成を被爆者と同等とすることを発表した。8月9日の平和祈念式典後、被爆体験者と初めて面会し、「早急に合理的に解決する」とした“約束”を退任ぎりぎりになって取り繕った形だ。
だが、「被爆体験者は被爆者だ」と17年にわたり裁判闘争を続けてきた当事者にとっては依然、格差が残る「不思議な」(岩永千代子原告団長)政治救済策が示されたというのが、大方の受け止めのようだ。
被爆者の認定
なぜ拒むのか
被爆体験者とは、原爆投下当時、爆心地から半径12キロ圏内にいながら、国が定める「被爆地域」外で原爆に遭った人たちをさす。
実際に原爆に遭いながら、こうした国の「被爆者認定」から漏れた人たちには、原爆の体験による心的外傷後ストレス障害(PTSD)を前提に7種類のがんなど、特定の疾病にのみ限って医療費を助成する単年度の支援事業が続いている。
この問題は、長崎の被爆地域が、当時の行政区域に沿って南北に細長く定められたことに起因する。東西に7キロ以遠だと被爆者と認められないという市民感覚からかけ離れた不合理な状況がいまだに続いているのだ。
被爆の体験者
認定求め訴訟
被爆体験者らは立ち上がり、長崎県や長崎市を相手取って被爆者健康手帳の交付を求めた。それが2007年の「被爆体験者訴訟」の始まりだ。
一旦、最高裁で敗訴が確定したものの、原告のうち44人が2018年に再び提訴。被爆地域外にも雨や灰など「放射性降下物」があり、原告らは「原爆放射能の影響を受ける事情の下にあった」(被爆者援護法1条3)などと主張した。
2021年には広島高裁が、被爆地域外で「黒い雨」に遭った原告84人全員を被爆者と認めたことで、放射性降下物による健康被害が一気にクローズアップされた。
9月21日長崎市内=撮影・橋場 紀子
期待裏切った
長崎地裁判決
9月9日の長崎地裁判決でも、原告のうち「黒い雨」が降ったとされる爆心地から東側にあたる旧矢上(やがみ)村・旧古賀(こが)村・旧戸石(といし)村にいた15人を被爆者と認めた。一方で、降灰は放射性物質か定かではないなどとして、残り29人の訴えは退けられていて、原告団は控訴の意思を固めていた。
医療費の助成
認定を拒む国
岸田首相が示した救済策は、医療費助成は被爆者と同等とするとしながら被爆者認定を頑なに拒む国の姿勢を正当化しようとするものだ。
確かに、高齢の被爆体験者には早急に援護の手を差し伸べられる政治救済ではある。だが、「私たちは被爆者だ」という命を懸けた訴えには肩透かしでしかない。原爆被害の範囲や内部被ばくの可能性には手を打てていない。
国の制度自体
間違っている
「金が欲しかったのではない。お情けもいらない。被爆体験者の制度自体、国が間違っていたと反省し、当事者が何を求めているか話し合いのテーブルにつけ」(岩永原告団長)、と救済策表明を受けた記者会見でも原告らの憤りは止まない。
県と市も国に「控訴断念は地元の思い」と訴えながらも、国の意向には逆らえず控訴した。被爆から79年が経ってもなお、原爆被害をめぐる闘いが続くことになる。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2024年9月25日号