無罪確定の報告集会で 静岡市葵区の静岡労災会館、撮影・小石 勝朗
袴田事件(1966年)でいったん死刑が確定した元プロボクサー、袴田巖さん(88)が再審で無罪になった。究極の刑罰である死刑が対極の無罪に覆るというあってはならない事態は、マスコミにも大きな課題を突き付けている。18年前からこの事件の取材をしてきたライターが問題提起する。
異常性格者や
二重人格とも
静岡地裁が無罪判決を言い渡した9月26日以降、新聞各社は相次いで袴田さんへのおわび記事を掲載した。事件発生当時の報道は、捜査機関の見立てを根拠に袴田さんを犯人視していた。
逮捕された日の連行時には袴田さんが「不敵なうす笑い」を浮かべていたと描写し、「ぐれた元ボクサー」と揶揄した。犯行を認めない間は「だんまり戦術」と批判的に伝え、「自白」時点で「ジキルとハイド」にたとえた記事もあった。
起訴の3日後に毎日新聞の地方版に掲載された静岡支局長の署名記事は、袴田さんを「とても常人のモノサシでははかりしれない異常性格者」と決めつけ、「悪魔のような$l間」「悪ヂエだけが発達した男」と罵詈雑言の限りを尽くしている。
静岡新聞や読売新聞も「異常性格者か」「典型的な二重人格」との大学教授の談話を載せた。
確定審の一審・静岡地裁の担当裁判官で、無罪を主張したが1対2で死刑に決まったと告白した熊本典道氏(2020年11月逝去)は、2人の裁判官が有罪を唱えた理由を「あれだけの犯人視した記事を読めば無罪とは言えなかったのだろう」と推察していた。報道(主に新聞)が少なからず重刑に加担した面は否めまい。
指摘受けても
顧みない各社
そもそも、袴田さんに対する行き過ぎた表現は、仮に有罪であったとしても重大な人権侵害だ。だが、指摘を受けても新聞各社は顧みてこなかった。
毎日新聞社はつい3年前に「異常性格者」の記事の検証や謝罪を求めた袴田さんの支援団体に対し、「掲載から55年が経過しているうえ、筆者がすでに他界していることもあり、執筆の意図や経緯の確認はできませんでした」と他人事のような回答をしている。
「袴田事件」という呼称もマスコミが名づけたものだ。静岡地裁で再審開始決定が出た後になって、各紙は記事中でこの呼び名を使うのをやめ「静岡県で一家4人が殺害された事件」などと言い換えた。だが、理由を紙面できちんと説明した新聞は、私の知る限りない。
「忘れられた
事件だった」
もう1つ、忘れてはいけないマスコミの責任がある。長い間この事件ときちんと向き合わず、ほとんど取り上げてこなかった「不作為」だ。
朝日・毎日・読売・日経の4紙を対象に「袴田巌」のキーワードで記事検索をして各年の掲載本数を調べると、静岡地裁で再審開始決定が出た14年は425本、東京高裁で再度の再審開始決定が出て公判が始まった23年は518本ある。
これに対し、第1次再審請求が審理されていた02年や05年はわずかに各7本。地方版の集会のお知らせ記事を含んでこの数字だ。データベースへの収録条件は一定でないとはいえ、この時期に各紙が関心を寄せていなかったことは明らかだ。
静岡放送の記者だった02年からこの事件を取材し、映画「拳と祈り ―袴田巖の生涯―」を最近公開した笠井千晶監督は、当時の状況を「忘れられた事件だった」と述懐している。同感である。
総局長「読者
の関心ない」
朝日新聞静岡総局の記者だった私は、この事件の取材を始めて間もない06年に、総局長に原稿をボツにされたことがある。袴田さんの支援団体の取り組みを地方版向けに短く書いたものだったが、総局長はデスクを飛び越して私を呼びつけ、こう言い放った。
「この事件に読者の関心はない。これは社内の主流の考えだ」
その時点でも冤罪を疑わせる要素はいくつもあった。読者に関心がないから取り上げないのではなく、関心を喚起するために記事にするのが、新聞の本来の役割であることは論を待つまい。
総局長の「暴言」は、ある意味で当時のマスコミのスタンスを象徴していたのかもしれないが、その後の朝日新聞の取材態勢や膨大な記事の量を見ていると、全くの的外れだったことは間違いない。私にとっては、この事件の取材を続ける原点になった。
自らの「姿勢」
謙虚に見直せ
10月下旬に中日新聞社の幹部が袴田さん宅を訪れて事件当時の報道を謝罪した際、姉の秀子さん(91)はこう答えたそうだ。
「私は(当時)新聞もテレビも見なかったので、何が書いてあったか存じません」
この言葉には、教訓をどう生かすか自分たちでしっかり考えなさい、という含意があるのではないだろうか。
おわび記事を出すまでに、なぜ58年もかかったのか。検察に捜査や公判手続きの検証を求めるだけでなく、マスコミ各社もこれまでの姿勢を謙虚に、子細に見直して、今後の事件報道に反映していかなければならない。
そして、真剣に責任を感じているのであれば、すぐに着手すべきテーマがある。日本弁護士連合会などが提唱している再審法制の整備を強力に後押しすることだ。
「証拠」開示
制度化が急務
袴田さんの雪冤(せつえん)に長い期間を要した原因として、検察が持つ証拠が開示されなかったことや、検察が再審開始決定に不服申し立てをしたことが挙げられている。検討項目にはほかにも再審請求審の公開や進行協議の正確な記録といった取材にかかわる内容が含まれており、制度化が急務になっている。
法改正に猛反対するであろう検察におもねることなく、大々的なキャンペーンを展開して世論を動かすくらいのアクションが必要だ。
◇
このたび『袴田事件 死刑から無罪へ〜58年の苦闘に決着をつけた再審』(現代人文社)を出版しました。無罪判決までの裁判の推移と、この間の事件に関連する動きを丹念に追い、雪冤に至った経緯を分かりやすく詳らかにしています。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2024年11月25日号