2025年02月23日

【寄稿】沖縄戦後80年 ジャーナリストの「立ち位置」 国家への抵抗力を築けたか 戦争・日本・基地と人権から考える=諸見里 道浩

                  
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 戦後80年のメディアについて、沖縄の出来事から考えてみます。戦争(沖縄戦)・日本(祖国復帰)・基地と人権(少女暴行事件)の3つのことがらを柱に。
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米兵による少女暴行事件に抗議する県民大会を報じる2024年12月23日付の沖縄タイムスと琉球新報

基点はナショナリズムへの抵抗力
 「一人十殺」。沖縄に配備された32軍参謀長の談話が1945年1月の沖縄新報に載っている。2月の社説は「皇土」を守るため「一人十殺の必殺/これが県民の絶対的使命」とこたえている。翌月、沖縄戦がはじまる。
 沖縄新報の記者たちは戦後の48年、沖縄タイムスを創刊、翌年に住民の証言取材に取り組み『沖縄戦記・鉄の暴風』を発刊する。弾雨の中、生死の境をさまよう住民と兵士を克明にたどり、戦(いくさ)の実態を描いている。
 私は混乱期の取材力に驚きつつも戸惑いをおぼえた。
 米軍におびえ病で任を解かれた司令官、大空襲の前夜に宴を開き「不覚の朝」を迎えた軍幹部、自棄的な将兵、防空訓練を拒む者を国賊とする住民たち…沖縄戦前夜もくわしく、記者の確かな視線がうかがえる。これら戦時下の取材が紙面になることはほぼなかった。
 戦後、記者たちは戦争を否定し米軍政に異を唱える新聞をつくり、私たちはその延長にいる。いま確認すべきは、国家と一体となり住民を煽(あお)り事実を書かなかったジャーナリズムの時代があったことだ。
 戦後80年、「戦前」のきな臭さが漂う。米軍にくわえ自衛隊基地が増強され、メディアは安易に「有事」をつかう。私たちはナショナリズムや国家への抵抗力を築いてきたのか、という自問からはじめたい。

復帰という新たな差別と疎外
 51年のサンフランシスコ講和条約は日本の独立を祝すものだった。同日に締結された日米安保条約は沖縄の米軍基地を前提とし、天皇メッセージは「沖縄の長期リース」を米国へ伝えていた。一方で蚊帳の外の住民は日本復帰を願い、沖縄タイムスも米軍政下で復帰論をかかげた。
 施政権返還を決めた69年11月の佐藤・ニクソン日米首脳会談。社説は「万歳を叫ぶほどの感慨はむろんない」と率直だ。日本の戦後を安保強化、自衛隊増強ととらえ「(平和)憲法体制の否定の歴史であった」。その日本へ帰ることに「新たな差別と疎外が待ち構えている」と書かざるをえなかった。この苦渋の論調も私たちは引き継いでいる。

沖縄メディアが学んだこと
 「軍隊は女性の人権を脅かす」ことを沖縄メディアは新たに学んだ。
 戦後50年の95年、米兵三人による少女暴行事件は起きた。沖縄社会は「少女の尊厳を守れない」悔いと憤りに満ちた。抗議の中心は女性たちで、報道に対して「セカンドレイプ」にならぬよう強く求めた。普天間基地返還と辺野古新基地建設という新たな基地問題のはじまりでもあった 
 米兵による性犯罪は現在も日常的に続いている。
 2024年も暮れの12月22日、米兵による16歳少女の誘拐と性的暴行事件に抗議する県民大会は女性団体が主導した。大学生は「なぜ沖縄に生まれ、基地があるからといって青春を奪われなければならないのか」と訴えた。発生から約半年、外務省、県警は事件を伏せた。「性暴力は権力差のあるところで起きる」と記事は伝える。

30年で進んだ「民意徹底無視」
 12月28日、辺野古の海で軟弱地盤の改良工事がはじまった。恒例のごとく年の瀬に基地政策は進む。政府はこの30年で民意を徹底して無視するようになった。
沖縄タイムスは「復帰運動の機関紙」といわれ、現在も「偏向新聞」と名指しされることがある。筑紫哲也氏は著書『旅の途中』で米軍政下の先輩記者の言葉を紹介している。 
 権力を持つ統治者と基本的な権利を奪われた被統治者を平等に扱うことが公正なのか。「弱い側の立場に新聞が立つことが、不均衡を少しでも改めることに役立てば、それが公正というものではないか」
 冒頭にあげた「一人十殺」の社説を書いただろう記者の、戦後のジャーナリストとしての立ち位置だった。
                          
◆略歴 諸見里 道浩(もろみざと・みちひろ)
1951年那覇市生まれ。74年沖縄タイムス入社、元論説委員長、編集局長、専務。著書『新聞が見つめた沖縄』(沖縄タイムス社)など。沖縄対外問題研究会会員、JCJ沖縄顧問
     JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2025年1月25日号
posted by JCJ at 01:00 | TrackBack(0) | 寄稿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする