公職選挙法改正案が国会に提出された。背景には昨春行われた東京15区衆院補選以降における選挙の混乱がある。だが議論の成り行きを見ていると、その内容がどうも本質からずれているような気がしてならない。
補選やその後の都知事選、兵庫県知事選で何が起きたのかは、ここでは繰り返さない。しかし、法令に書いてなければ何をやってもオーライという風潮がまん延したことは、だれもが感じているところではないか。そこから公選法の見直しを、という声が出てくるのは当然でもあろう。
だが今のところ、国会で出てきているのは風俗店広告などの営業目的のポスターを掲示してはならない、女性がほぼ全裸になっているような品位を損なうポスターを掲示してはならないなどで、もっと大事だと思われるSNSによる誹謗中傷や「2馬力選挙」に関しては、今後の検討課題となっているようだ。いかにも中途半端だし、対症療法にとどまっているように見える。
そもそも筆者が選挙法っておかしいんじゃないのと最初に感じたのは、振り返ってみれば、大学を卒業して間もなくのころだった。東京銀座辺りのデモ行進で「平和を」とコールしていたら、通行人から「何を言っているんだ。日本はいま平和じゃないか」というような声が聞こえてきた。本当はもっと具体的なことを訴えたかったのだが、選挙期間中はダメだということのようだった。不自由なものだと思った。抽象的にしか口に出せないから、気持ちをはっきり伝えられず、はがゆい思いをしたことをいまでも覚えている。
公選法で本当によくわからないのは、戸別訪問の禁止だ。それをして支持を訴えると有権者の投票の自由を奪うことになるらしい。しかし自宅などに来た人に投票を依頼したり、知人などに電話掛けしたりすることはオーケイなのだ。両者の間になにか決定的な質の違いでもあるというのだろうか。
要するに、これは運動する側の“足”の有無にかかわることなのだろうと理解している。昔から草の根運動が得意なのは公明党や共産党ということに決まっている。戸別訪問も可ということになれば、地域をこまめに回る気もなくそんな部隊もない自民党などには圧倒的に不利になるだろう。だから、というわけだ。
選挙プランナーの大濱崎卓真氏は「戦後政治のほとんどの期間、自民党が与党です。そのため、選挙のルールも、自民党の思惑と密接に関係していると私は見ています」(「『コンテンツ化』した選挙を考える 普通選挙法100年の現在と未来」朝日新聞デジタル2・4、14:00)と述べている。公選法改正のこれまでの動きには野党の協力もあったという学者の指摘もあるが、基本的には与党・自民党の思惑や都合が反映されてきたのだろうと考えている。
選挙運動期間が公選法制定時の30日から9回の改正を経て12日(衆議員)と三分の一強まで短縮されてきたのは、金と労力を節約するため選挙運動をさっさと切り上げたい与党側の意識の露骨な表れとしか思えない。そんなに短い期間で、有権者は複雑な国政の何を理解できるというのだろうか。立候補者はといえば、いきおい名前を連呼するしかなくなる。
昨年の総選挙で弊害が目立ったのは、投票権の問題だったろう。地震で被害を受けた能登半島やその他の地方では、投票所が減らされたり投票時間の終わりが繰り上げられたりした。能登では投票に行くこと自体が難しい被災者もいたといわれる。にもかかわらず選挙は強行され、関係者の人手不足を理由に有権者の投票権が事実上制限される事態に追い込まれたのだ。筆者は、これはたいへんなことになりそうだと感じていたが、終わってみればほとんど問題にもされなかった。
いまの公選法をめぐる議論を眺めていると、表面的な部分をなぞっているだけのような気がする。問題は、ネットにかかわるものだけではない。立候補者がさまざまな政治課題を訴え有権者にじっくり判断してもらう、投票権を確保する、言い換えれば有権者に真の意味で政治に参加してもらうといった本質的な側面があまりにも軽んじられているのではないか。選挙本来の役割や機能を深めていくための議論がなおざりにされたままなのだ。いや、むしろその正反対に進んできたようにさえ見える。