2025年03月30日

【月刊マスコミ評・新聞】予算全体像の評価が分からない社説=白垣 詔男

 政府の25年度予算案が3月4日、自民、公明、維新3党の賛成で衆議院を通過した。新聞各紙は5日(朝日、読売、産経)、6日(毎日、西日本)の両日、朝刊社説で「予算案通過」を論評した。しかし、「国会外での政党間の駆け引きが目に付き」(朝日)、その点に対する経過説明が主な内容で、どこの社説も、予算全体像の評価をしないで素通りしている。

 予算案は、政府が国会に提出した日に各紙とも詳しい内容を載せているので、予算案が衆院を通過した日に、その中身を知らせなかったのか。もちろん、予算案の詳細について言及することは必要ないものの、全体像から指摘できる問題点や、改正すべきと判断できる点があれば、社説で訴える必要があるのではないか。
 加えて、維新が要求して与党が譲歩した「高校無償化」については「公立離れや教育格差の拡大を招きかねないとの懸念がつきまとう」(毎日)、「公立離れの弊害、私立の授業料値上げを誘発する懸念が指摘されていた。高所得世帯が支援対象になることへの異論もある」(西日本)と書くが、いずれも新聞社として「高校無償化」に対する賛否は明らかにしていない。

 また、合意に至らなかったものの国民民主が主張して与党の回答が「満額」とはならず、国民民主が予算案反対に回った「103万円の壁・所得制限撤廃」についての賛否も書いていない。
 社説は、新聞社を代表して、各種事象に対して、どう考えどう対処したらいいのか、その事案の賛否を明らかにする欄ではないのか。そこをあいまいにしては、「社説欄は解説欄」と言われても仕方がない。

 最近の「社説」は、この種の「解説」で終わるものが大半だ。あるニュースを取り上げて、それを論評するのではなく、経過を詳しく紹介するのはいいが、それをどう「切る」か。読者が社説を読む第一の目的は、そこにある。しかし、「経過と解説」で終わってしまう日が続くと読者の社説離れが起きる。従って「社説は読まれない」ことになってしまう。
 新聞は「公平・公正」を掲げているからといって社説では、事案ごとに「どう判断するのか」を踏まえ、しかも「全体の評価」が分かる内容にしてほしい。
        JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2025年3月25日号        
posted by JCJ at 01:00 | TrackBack(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする