フジテレビをめぐる騒動が続いている。週刊誌記者やテレビカメラなどを排除した「クローズド」記者会見を行ったことで、有力なスポンサー企業が次々とCMを取りやめる事態になり、フジテレビの放送はAC(公共広告機構)差し替えばかりが流れるような異様な画面となった。
この間、フジテレビの社内で会社の将来を不安視して、労働組合に加入する人が急増している。フジテレビの労組はこの間、会社に対して意見書や要求書を提出して交渉し、オープンな記者会見の実現や、組合員や社員に対する説明会を開催させるなど、精力的に活動している。
フジテレビは、日経連の専務理事などを務めた鹿内信隆氏が社長だった1960年代当時、徹底した組合敵視政策を取っていた。労組結成が在京キイ局の中ではいちばん遅かったのは、経営による締め付けが強かったのがその理由だろう。組合結成後、鹿内氏は管理職を集めた会議の席で「不当労働行為に死刑はない」などと言って組合を弾圧。番組制作現場の組合員を非現業職場に飛ばすなどの攻撃に加え、一時は番組制作部門を丸ごと外注化した。その結果、フジテレビ労組は少数組合に抑え込まれた。
フジサンケイグループの最高権力者とされる日枝久氏は当時、労組結成に中心的に関わり、そのために閑職に追いやられてきたが、1980年代に鹿内信隆氏から実権を引き継いだ実子の春雄氏が、まだ若手だった日枝氏を編成局長に抜擢。そこから「楽しくなければテレビじゃない」をキャッチフレーズにしたフジテレビは十年以上にわたる「視聴率三冠王」の黄金時代を迎えた。業績好調を背景に、組合要求を上回る回答で組合の団結を阻害したこともあった。その後、労組出身の日枝氏が経営権を握った時代も、組合が勢力を拡大することはなかった。
それでも、フジテレビ労組は民放労連加盟組合として組織を守り続けた。組合未加入者に向けて昼休みに給与明細の読み方を解説するミニ学習会を開催するなどして、労働組合の存在を印象づけた。組合加入資格を局次長まで広げる組合規約改正も行って門戸を広げた。最近ではオンラインで手軽に組合加入できるシステムも導入した。
CM取りやめの事態で550人を超える規模に組織拡大したのは、この機会を捉えて全社員向けに勧誘メールを送った労組の努力の賜物だ。このような労組の要求に会社がどう応えるのか、引き続き注目したい。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2025年3月25日号