政治が身近に語られ、身近に感じられる状況というのは、決して悪いことばかりとはいえないが、政治が軽いのは困る。
宮崎県知事のメディア人気にあやかろうと、総選挙を控えた自民党が国政に鞍替えをしないかと持ちかけ、同県知事は「(自民党)の総裁候補」にするというほどの決意があるなら考えるというような姿勢を示し、それが「ただのネタ」なのか「断るため」のうまい方便なのか、それとも「本気」なのかがとりざたされ、メディアがいっせいにとびついた。
そうこうするうちに、「キング・オブ・ポップ」と呼ばれた米人気歌手のマイケル・ジャクソン死去のニュースで、メディアは塗りつぶされた。
私は、当然、マイケル・ジャクソンが死んだことのほうに、関心をひきつけられた。(JCJふらっしゅ:「Y記者のニュースの検証」)
25日午後、ロサンゼルス市内の病院で死去。自宅で呼吸停止状態となり救急搬送されていた。50歳。まだ若い。死因の詳細は不明で、死の前夜から不調を訴え、医師が診ていたという報道もあった。
「キング・オブ・ポップ」は、世界の80年代を代表するアーティストだった。82年発売のアルバム「スリラー」は、全世界で1億枚以上を売り上げた。「ビリー・ジーン」「スリラー」などの曲は、いまもすぐに口をついて出るだけでなく、身体が反応する。「ビート・イット」では、ギタリストのエディ・ヴァンヘイレンがソロを弾いた。その驚異的なテクニックは、当時の世界中の「ギター小僧」たちをあっといわせた。通常のギターピッキングではなく、ギターのフレット(指盤)をピアノのように左右両手の指を使ってピッキング(というかハンマリング)するため、人間離れした驚異的な早弾きが実現する。そのスピード感は、その後のIT時代の到来を予感させるのに十分なものだったといえる。
そのライト・ハンド奏法は、カラクリが広く知れ渡ったいまでは、そうめずらしくもなく、驚かれることもなくなったが、当時は、世界というか、米国のミュージックシーン、エンタテイメント界の奥の深さ、磨き上げられた技の桁外れのものすごさを、世界にみせつけた。テクニックがネタバレしてもなお、それを駆使する高度なセンスが翳るわけでもない。
マイケル・ジャクソンが送り出した歌とダンスと映像の水準の高さ、それまでの壁を突き破ったような表現は、エディ・ヴァンヘイレンのライト・ハンド奏法がギター小僧たちを驚かせ、世界との差を感じさせるのに十分であった以上に魅力的で、総合的で、「キング・オブ・ポップ」と称されるようになるほどに、その人気はその後も長く続く。だが、「ビート・イット」という曲に収められたエディ・ヴァンヘイレンのギターソロは、マイケルに誘われてスタジオを訪れたエディが、その場で軽くパフォーマンスしてみせたもので、「ビート・イット」が爆発的に売れたのはエディのおかげだったのに、マイケル・ジャクソンはギャラを払っていないらしい――というような噂が流れはじめたころには、マイケル・ジャクソンの栄光と挫折、浮沈の繰り返しは早くも始まっていた。
80年代の世界のミュージックシーンは、80年代のさなかでは「不作ばかり」と嘆かれたりしていた。そこには70年代のロックシーン全般を貫く衝撃、それまでの常識や因習や閉鎖的な権威におもねる機構を跳ね飛ばすような、ロック創成期へのノスタルジーが多分に含まれていたのかもしれない。だが米国は、エディ・ヴァンヘイレンのライト・ハンド奏法がかもしだした人間離れした早弾きや、マイケル・ジャクソンのそれまでの常識を覆すような音楽と映像表現とに時代を象徴させるかのように、それまでの「常識を覆す」ようなマネーゲームへと突進していく。
エディ・ヴァンヘイレンのライト・ハンド奏法をこけおどしと呼ぶつもりもないし、マイケル・ジャクソンの生み出した音楽や映像を軽薄なエンタテイメントと呼んですませるつもりもない。しかし、米国が世界の頂点を極めようとしていくなかでつかった種々の手法には、当時から、どこか居直ったかのような奇妙なハイテンションを伴っていた。その危うさを感じ続けてきた人も多いはずだ。
世界に衝撃を与えるような、世界の常識を一夜にして変えるような、人々の人生や会社のありように対して劇的にインパクトを与え、鬱積した気分を一掃させてしまうような表現――。それはベトナム戦争後の米国の、挫折とさまざま意味で取り返しのつかない悔恨に縛りこまれた時代の気分に、何らかの衝撃を与え、それまでの常識を一夜にして変え、人生や会社のありように劇的にインパクトを与えてくれるような、まるで「薬物」かなにかが与える「ブッとんだ」状態へと人をいざなうものを求めてやまない時代の空気、衝撃によって人を躍らせ、衝撃をうけて躍らせてくれるモノを渇望してやまない時代の要求を背景としていたのかもしれないと思う。それは役者上がりの大統領・レーガン時代の壮大な演出だったのだろうか。改革や変革というより、その反応を期待して繰り出される「衝撃」の追求と演出―。
その後、「きれいな戦争」を標榜し始めた米国。イラク戦争に従軍する兵士たち。ハイテク戦車に乗って砲弾を放ち、銃撃する兵士たち。その耳はヘッドフォンで覆われ、耳腔は大音量のポップスで満たされ、侵攻・攻撃は無垢で、正義に満ち、かつ無責任であってよいゲームのような戦闘、のはずだった。ここでもゲームが出てくる。そして愛すべき音楽が、戦争の道具として(戦争の悲惨さを実感することから逃れるための道具として)平然と使用される。
人生はゲームだろうか。政治はゲームだろうか。経済はゲームだろうか。戦争をゲームで済ませることができるだろうか。地方自治体などのだれかが、人の命を軽視するような態度を平然と示しても、それもゲームのルールに従っているだけだからと、傍観して許されることなのだろうか。
資本の論理・戦争の論理と、弱肉強食の論理が幅を利かせるなかで、それが人生であり社会であるかのように、私たちは思い込まされてこなかっただろうか。
米国はあのベトナム戦争をまともに卒業する道ではなく、ゲームへと逃避する道を選択してしまったのではないか。だからブッシュの戦争路線は巨大なツケを残して破綻し、だからいま、そのツケが重く世界を覆うところに至ってしまったのではないか。
人をあやつるには、恐怖と驚異を与えること。それも中途半端でなく陳腐でもなく、十分に計算しつくされた恐怖と驚異。それが人心に打撃を与え、人心を空虚にさせ、人心を人殺しや人を蹴落とす罪の意識から「解放」させる。そうすれば何も怖いものはなくなり、敵に向かって突進するようになる。恐怖と驚異を与えた側は、ゆったりと豪華なるつくりのソファにくつろいで、人々と社会の様子を「観戦」していればよい。
その驕りの裏側では、怠惰と怒りと妄執と嫉妬と、そして不安と恐怖も共に、どろどろと渦巻いている。
米国は大統領選でブッシュ路線の側を見事に退場させた。民衆によって選出されたオバマ大統領は、早くもプラハで米国自身の責任にも触れた核廃絶の宣言をうたいあげてみせた。
驕慢と怠惰と怒りと妄執と嫉妬と不安と恐怖にさいなまれながら、そこから逃避して無責任なゲームに走ろうとする政治家やその取り巻きを、米国は払拭するプロセスを歩みはじめたようにも、私には感じられる。
日本はどうだろうか。
自民党が総体として、企業献金なしではやっていけないと思い込んでいるのは、その体質に驕慢と怠惰と怒りと妄執と嫉妬と不安と恐怖と無責任を、奥深く根付かせているからではないのだろうか。自分たちの僕として人心をあやつり、かしづかせ、そのみこしの上にのることが「家業」であり、政治家の「役割」であると勘違いしたまま、時を無為に過ごしてきた結果が、いまの日本政治にいたらせているのではないか。
米国の戦争政治に追従し、米軍との密約を隠蔽し、言論表現の自由を抑圧して国民を黙らせ、偏頗な教育を強要して民意をゆがめ、まともな世界市民として通用しない存在へとねじまげる。その路線に従う者にはアメを、従わない者にはムチを。日本が世界で強者の仲間入りをするには、貧富の差をもっと拡大し、強者を育てて弱者をふみつけることを正当化する時代をつくりださねばならない――それが自民党政治、自公政権の本質として横たわっている。物価が高いと外国企業を呼び込む障壁になるからと、労働者を根こそぎ不安定就労に移動させてすませようとしてきたのと同様、お手軽で無責任な、まさしく愚か者の、政治と呼ぶのもおこがましい政治の姿を続けているのである。
米国はすでに反省し、そこから卒業して、新たな歩みを始めているのに、いまだに日本の政治は変わらない。首相の首を挿げ替えるだけで、ずるずると総選挙を先送りしてきたのだから、その責任も、自公与党にはのしかかる。その分のマイナス点はすでに変数ではなく、固定的数値となって麻生自公暫定政権に対する圧倒的「不支持率」の高さを押し上げている。
現在衆議院議員として国会に席を有する議員たちの任期満了は、9月10日。残りわずかである。
今の国会の会期末は、7月28日。これも残りわずかである。
そこで25日、麻生総理大臣が日本記者クラブでの記者会見で、衆議院の解散・総選挙の時期について、「そう遠くない日だと思う」と述べてみせる。選挙日については、7月12日の都議選の前の解散も視野に検討していることを明らかにする。都議選と同時期は困るとする公明党のいいなりではない、とこっそりサインを出してみせ、与党としてのパートナー・公明党の気持ちを逆なでしつつ掌中におさえこもうとする。
だが、高不支持・低支持率になやむ政権に不安を抱き、浮き足立つ自民党内は、この総選挙の時期についての発言にいっせいにおろおろ騒ぎ出す。麻生の勝ちである。だが、それでことはおさまならない。自民党内部の勝敗や主導権が問題なのではなく、先延ばしに延ばして一定の当選者を出せる環境を整えようとしてきた総選挙の「その日」が近づいてくる。それを止めることはだれにもできないのである。自民党の誰かが「大政奉還」を叫んだというが、まったくもってお笑いぐさである。
議員は選挙によって選出もされるし、落選もするのだから、議員の雇い主は国民なのである。総選挙の「その日」はどんなにあがこうと、「大政奉還」を叫ぼうとやってくるのだ。それまでの駆け引きに過ぎない。それまでに、どれだけ「敵」を痛めつける材料を見出し、メディアを使って再浮上の道具に使うか。どれだけ選挙民とメディアに恐怖と驚異をあおって、言うことを聞かせて配下におき、掌中のものとするか。その時間をおしむか、おしまないかの違いに過ぎない。自らを為政者・支配層と思い込み、勘違いして、議員や閣僚の座についている人々のなんと多いことか。それが日本の政治の水準を、すっかり引き下げている。ばかばかしくなるほどに、である。
その典型が、政治資金の問題であろう。これは日本の政治の流れからいくと、贈収賄と兄弟のようになってはびこってきた。「政治には金がかかる」と、自民党の言い分を鵜呑みにしているキャラの人が、訳知り顔でテレビのスタジオに腰掛けてしゃべっていたりする。メディアが「宮崎県知事」や「マイケル・ジャクソン」で埋め尽くされ、本当にみんなで共有して考えるべき大事なことはそっちのけにしてしまうメディアの体たらくは、早急になんとかしなければならない。
もはや「日露戦争に勝った」にもかかわらず、生活が豊かにならないからと、その鬱積した不満をさらなる聖戦で解消しようというようなプロパガンダにまんまと乗せられるほど、民意は甘くないはずだが、「政治には金がかかる」と信じ込んでやまない人々は、まだ古臭い政治家たちが駆使する使い古された恐怖と驚異をふりまく手法や、あるいはそれを「笑顔」でいってみせるという70年代以降の「新しい」手法にだまされる人か、あるいは自分自身のうちに、自民党の政治家たちと同様の驕慢と怠惰と怒りと妄執と嫉妬と不安と恐怖を抱え込んだまま、克服しようとしていないか、そのどれかではないかと、私などは疑ってしまう。政党助成金をめぐる議論とその制度のことを、いったいどう考えたらすっとばしてしまうことができるのか。
タレントやコメンテーターを称する人たちが、政治家に転身しようとする風潮、それをごく自然のことのように受け入れたりあおったりする風潮をどう考えるか。政治家になるタレントのなかには、もともと政治家志望という欲求がうずまいていてタレントになろうとしたのか、あるいはタレントも政治家も「人気商売」とおそろしく短絡した発想によるものなのか。はたまた一票を投じるほうにも、「顔を知っている人だから安心」という深刻な誤解に陥りながらそれに気づかないか、そうした深刻な誤解を生み出しながらそれに平然と乗っかるメディアの短絡がそれに寄与しているのか。
一方では「地方分権」を唱え、「国」と折衝をしてみせることだけが、いまの最大事、最優先課題であるかのように動く、知事たちもいる。そのうちどこの何を見ているのか、問われるときがやってくるに違いない。
そうした社会や集団について、少し掘ってみれば「共依存」いや違法献金や贈収賄の関係に依存してやまない姿を、本音では「共犯関係」で成立していると居直る人もなかにはいるのかもしれない。だが、その「共依存」/「共犯関係」の輪から外れた第三者が圧倒的多数を占めている。その輪から外れ、自公政治のアメとムチの政治の、ムチのほうのターゲットにされた人々やその側に立つ人、それを理解する人々が圧倒的多数を占めている。
自公政治に与する人々は、なぜ自公政治の「共犯関係」の輪から外れることができないか。改憲を推し進めようとするほどに、日本国憲法を逸脱した政治を強引に行って、日本の経済社会を足元から崩壊させてきた人々は、自らの足場だけを固めることを最優先することで「共犯関係」の輪を築き、かつての仲間であろうともその他を切り捨ててやまない。その構図の根本のところに、企業献金や贈収賄の問題が隠されて生き残っている。
民主主義を標榜しながら、政治家の「家業」を基礎に、支配層=強者(と思い込むほかに能のない悲惨な人々)の「共犯関係」の輪が、古ぼけて焦点のぼけた権威主義の重層構造を形成している。それに連なることが「立身出世」と「富国強兵」の道で、自分たちの富へとつながるとの根本的な勘違いをひきずったまま、ここまできてしまった日本社会だが、もはやそれは幻影でしかない。
小泉時代に自民党の懐から逃散して精神的自由を取り戻した人々は、果たしてその間、何を見たか。
自公政治の「共犯関係」の重層構造の輪のなかにいることで、安心立命を得られると信じ込んでいる人々を、手元から離さない(選挙で負けたときは一蓮托生)ために、企業献金や贈収賄によって「ご恩と奉公」の関係を維持し、それがゆえにアメとムチの駆使が有効であると考え、そして何かあれば「自衛隊」を出動させる力を誇示して、支配力の源泉は軍事力にあることを人々に思い出させようとする。
そういう政治が、いかに時代遅れであるか。そういう誤った「教育」だか「育ち」だか「信念」だかを引き継いだまま、それを微塵もうたがわずにやってこれた時代は、ついに終焉の時をむかえている。その幻想は幻想にほかならず、その妄執は妄執でしかないことを、市民とジャーナリストの力で、政治家を家業としている人たちや、その人々についていけば何かいいことがあると信じてやまない、小泉チルドレンなどに典型的な輩たちに、はっきりと投票行動で示していく時である。
時代遅れで、後ろ向きのキャンペーンを張る以外に、何一つ前に進めることなどできず、次々と不正や怠慢による深刻な問題を引き起こしながら、それをうまくごまかそうとしたり、目先を他にそらそうとしたり、それらに蓋をしようとしたりする無駄・無策の動きをしているあいだに、社会は疲弊し、強者も弱者もなく足元から崩壊し続けている。これを自公政権の亡国の政治、亡国にいたらせてきた道と呼ばずに、何と呼べるだろうか。
政治をむさぼりの対象とする「共犯関係」の重層構造から、いかに脱し、いかに卒業して、新たな時代を展望するか。その道筋を明らかにして歩みを進めていくことが、日本の政治を、世界の周回遅れから脱皮させていくための、ひとつの決め手となってくるように思う。
(JCJふらっしゅ「Y記者のニュースの検証」=小鷲順造)
マイケル・ジャクソンさん死去 「スリラー」世界で1億枚(日本経済新聞)
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090626AT1G2601226062009.html
「死因特定に6〜8週間」検視当局 ジャクソンさん急死で
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090626STXKF098526062009.html
80年代の名盤67枚が紙ジャケ復活
http://waga.nikkei.co.jp/enjoy/music.aspx?i=MMWAe3000019062009&page=1
首相 1、2か月先も遠くない(NHK)
http://www.nhk.or.jp/news/k10013895891000.html
解散・総選挙 閣僚から意見
http://www.nhk.or.jp/news/k10013880451000.html
政治献金疑惑―説明してから選挙に臨め(朝日新聞)
http://www.asahi.com/paper/editorial.html


