2012年09月29日

原子力規制委の「赤旗記者会見締め出し」と、「核」と「原子力ビジネス」の存続

 原子力規制委と規制庁が、19日に発足した。発足時には「透明性の確保」を運営方針として掲げ、委員会で決めた「報道の体制について」には、「報道機関を既存官庁よりも広く捉え、報道を事業として行う団体や個人を対象にする」と明記していた。だが規制委員会は、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」の記者を排除する暴挙に出た。朝日新聞、産経新聞が報じているほか、東京新聞が28日付で「原子力規制委 揺らぐ公開性」の記事を出して、批判している。
(JCJふらっしゅ「Y記者のニュースの検証」=小鷲順造)


 9月25日、原子力規制委員会の実務を担当する原子力規制庁の広報担当者は、「特定の主義主張を持つ機関の機関紙はご遠慮いただく」などと、「しんぶん赤旗」を排除する方針を明らかに、さらにフリーランスの記者についても「どういった雑誌に、どういった記事を書いているかを見て、特定の主義主張を持って書かれている方はご遠慮いただいています」(しんぶん赤旗)と、取材陣をコントロールする姿勢を打ち出した。

 26日の田中俊一・規制委員会委員長の会見には、赤旗記者は出席できないという事態となった。

 しんぶん赤旗は、これまでの原子力安全・保安院の会見や、その他の省庁の会見にも出席してきている。九州電力の「やらせメール」スクープ、そして東京新聞と双璧となって原発事故関連報道・脱原発報道をリードしてきた日刊紙である。政党の機関紙として発行されているが、新聞としての実績は十分で、読者は共産党員や支持者にとどまらない。日本ジャーナリスト会議(JCJ)にも加盟している。ツイッターやフェイスブックでの記事の紹介・拡散も活発に行われている。

 赤旗排除の状態で行われた規制委員会(事務方規制庁)の会見では、その「排除」の理由や正当性ついて、フリーランスや雑誌から質問がなされ、当初の「特定の主義主張」は取り下げ、「実際に主義主張で判断することは一切ない」(東京新聞)と訂正した。だがその一方で、こんどは「政党機関紙は一般の報道機関ではない」(同)と会見締め出しの根拠をスライドさせるに至った。

 赤旗が「統合本部や原子力安全・保安院、原子力安全委員会の会見にも出席してきたというと、今度は会見のスペースが足りない」という始末で、赤旗の会見締め出しの理由は、ほとんど「日替わり」状態になっているという。規制庁は28日の定例記者会見でも、しんぶん赤旗の会見からの排除について、「現段階では見直す予定はない」などと質問に回答しているようだ。

 原子力規制委と規制庁は、政府や民主党が「30年代までに原発ゼロ」を掲げたことで、その目標の着実・確実な実現を担う機関となるのかどうか期待されたが、政府の「原発ゼロ」のビジョンが揺らぐ中、首相の野田氏は、国連総会の演説でも「2030年代に原発に依存しない社会を目指し」としただけで、「原発ゼロ」は明言しなかった。

 20日付で中国新聞が「原子力推進官僚ずらり 規制庁が始動」の記事を出して、〈原子力規制委員会の発足に合わせ、事務局として安全規制や危機管理の実務を担う原子力規制庁が20日から本格的に業務を始めた。しかし、幹部には経済産業省など原子力を推進する官庁の出身者らが名を連ね、早くも「規制行政の信頼回復には程遠い人事」との指摘が出ている〉と報じて、幹部についての職務経歴を紹介し、検証している。

 同記事は、規制委や規制庁の設立経緯に詳しい海渡雄一弁護士の、「電力会社のとりこになった規制行政から脱却できる人事とは到底思えない。これで『原発は安全だ』『再稼働を』と言われても立地地域の住民は安心できないだろう」とのコメントを紹介して記事を結んでいる。「ムラ」は存続したままなのである。

 こうした記事から、しんぶん赤旗を会見から排除する「背景」が浮かび上がってくる気もするが、振り返ってみれば、故日隅一雄氏(NPJ編集長)とともに東電会見に出席し続け、「検証 福島原発事故・記者会見」(岩波書店)を出した木野龍逸氏が、 東電の株主総会の模様をインターネットで中継したとして東電の会見から3か月間排除されていた件がある。田中稔氏(社会新報編集次長)が週刊金曜日に書いた原発利権に関する記事について、実質6700万円の損害賠償を請求する名誉毀損訴訟を田中氏個人に対して起こされた出来事もある。その他にも、福島第一原発への閣僚視察の同行取材の際などに、あれこれ理由をつけてはジャーナリストや媒体を選別しようとする試みが、依然行われている。そうした圧力は、既存マスメディアに対する牽制にもつながっていることは、あらためて指摘するまでもないことだろう。

 ムラの方々は、自分たちの意に沿わないジャーナリストたちを排除しようとやっきになったり、それを通じて世論を操作しようともくろんだり、ときにはそうした力の行使をすることで胸をなでおろしたりもするだろう。その程度の力をまだ有していることを再確認できた喜び、そして、姿は雲に隠れて通常見えないが勢力の頂点に確実に君臨するお歴々やそのイメージを仰いで、「やってやりました、どうぞ私めにご褒美を」などと忠誠を誓う自らの姿に陶酔したりなどしているのではないかと、私などは想像する。

 原子力規制委と規制庁が、会見からしんぶん赤旗を排除しようとするやり方は、その根拠を二転三転させてもなお、それを貫こうとしている点で、滑稽でさえある。いったいいつの時代のどこの国の役所の話なのであろうか。まるで、どこか大国の植民地の傀儡政権が、その傀儡の座を死守しようとして、自国のメディアやジャーナリストをコントロール下において、自らの都合がいいように支配しようとする行為のようにも思えてならない。かつて冷戦時代に、自国の意に沿わなかったり、都合の悪い情報を本国に配信する新聞社や通信社の支局や記者に対して国外退去を命じることで、海外メディアで配信される情報をコントロールしようとした国々が存在したことを、まだまだ忘れ去るわけにはいかないことを、今回の事例は教えているのかもしれない。

 そうした国々の硬直したメディア統制は、結局、自らを自国の民衆からも海外諸国からも孤立させていく。
 原子力規制委と規制庁は、そうした「報道」と「国家」をめぐる歴史から何も学んでいないのだろう。だからこそ、一年半前、予見され警鐘も鳴らされていた東京電力福島第一原発の事故を未然に防ぐ手立てを怠ったわけであろうし、事故後も「パニックを防ぐため」などと誤った識見から情報統制をして、被害をいたずらに拡大させるに至った。原子力規制委と規制庁の今回の特定の新聞に対する異常な措置は、ムラを形成する人間たちが、依然として、その誤った体質の延長線上にそのまま留まっていること、居座ったままであることをさし示しているのではないだろうか。もちろんこうした件については、常にメディアの側の反応・対応も問われている。記者クラブの対応も含めて、今後メディアがこうした問題にどう取り組むかは、マスメディアの将来にかかわる大事なチェックポイントとなってこよう。

 いったいいつの時代のどこの国の役所・機構の話なのか。
 日本社会には依然として、この程度の識見しかもたず、ムラの論理にあぐらをかき、それで通ると思い込んでいる古臭い権威主義者たちがのさばったままでいるのかと考えるだけで、反吐が出そうである。時代錯誤もはなはだしい。このような水準のことを話題にしなければならないことに、こちらが赤面しそうになる。

 たとえば前述の「大国」を、国際的な「核・原子力複合体」に置き換えてみよう。その場合、日本のそれは、その下請けだったりブランチ、あるいは蛸足の一本に過ぎないのかもしれない。
 その一員でしかない者たちが、特定の新聞に難癖をつけて記者会見から締め出そうと意気込んでいるとき、その同じ時期に、米国のオバマ大統領が国連で、言論表現の自由に関連して、米国憲法では「言論の自由」が保障されている、「言論の制限は少数派の抑圧につながる」と演説していることを知らないのだろうか。微塵も関心を寄せるようなことはないのだろうか。

 もし彼らにとっての「天上人」が、米国という大国の大統領であるとするならば、当のご本人が彼らとはまったく逆の高説を説いているときに、それと敵対するかのような措置(それも幼稚極まりない)をとったりはしないであろう。だとすると、彼らが恐れ仰ぎ見ている「ボス」は、オバマ米大統領ではなく、別の立場、もっと原子力政策について具体的な職務につく方々ということになってこよう。利権や保身でがんじがらめに結びついた役人やビジネスパーソンたちが、いやな相手をだまらせるために、会見からの排除や、高額の賠償を請求する口封じの訴訟などに打って出るという手法にしがみつくということ自体、また、日本の市民社会はそれを受け入れるだろうという思い込み自体が、すでに前時代的といわざるをえない。

 原子力規制委とその事務方をつとめる規制庁にとって、「特定の主義主張」の排除がまずければ、「政党の機関紙」だからと変え、ついには「会場」のせいにしたりして、理由は二転三転、つまりは理由などどうでもいいのである。あくまで「締め出し」「排除」に目的がある。それはアメとムチを用いて他のメディア、ジャーナリストの囲い込みと支配とに、狙いを定めたものと考えるのが妥当な線なのだろう。「政治性の排除」を目的とした行為というならば、まっさきに検討対象とされ、警戒されねばならないのは、福島第一原発の脆弱性・危険性の指摘を無視して、一年半前の事故を未曽有の大事故へと導く要因をつくった自公政権及び官僚・電力会社、そして原発は安全かつ日本社会に不可欠と旗を振ってきた新聞などメディアの一部を含む、原発推進・原発乱立推進勢力の面々についてである。

 福島第一原発で引き起こした世界でも類を見ない過酷事故について、「想定外」として大震災のせいにして責任逃れをはかりながら、舌の根も乾かないうちに、根拠も薄弱のまま「原発は不可欠」として再稼働を迫る政治家や、利害関係からそれら勢力の片棒を担ぐ一部新聞などの論説の誤謬・無責任こそ、言論・報道の自由を脅かすものである。

 地震列島日本に原発はなじまない。危険極まりない。それが国民大多数の意見であることは、政府も認めたとおりである。現実に引き起こした事故と広範囲にばらまかれた放射性物質、その影響についての各種議論、そして、それに対する国民の意見とをないがしろにする政治・政党やそれに与するメディアの恣意的な論評・報道などこそ、いまあるべき日本の情報環境を適切に保つうえで、脅威となりうる。

 それでも、原子力規制委とその事務方をつとめる規制庁には、そうしたメディアを会見から排除する権限は付与されていないことを知るべきである。それとも、そうしたメディアを会見から排除しろという声が国民各層から広く起こることを恐れて、先手を打って真逆の立場に立つジャーナリストや新聞などの排斥に動いたのだろうか。たしかにそうしたメディアの論評などについては、社会的責任が厳しく問われるところであるし、今後もさらに国民各層からの批判や検証は強まることはあっても、弱まることはなさそうである。

 逆に、原発行政のあやうい実態と原発事故の危険性について早くから指摘し、かつエネルギー政策についても建設的な提言などを伝え共有しようとしているジャーナリストや新聞などを、会見から排除しようとするなど、断じて許されない反国民的、反市民社会的行為であることを、原子力規制委と規制庁は知っておかねばならない。

 民主党が政権についた以降、会見等をオープンにする動きがあったが、そのオープン化が政治の主導で促進されるなかで、主催・主導があいまいになり、この事例のようにまるで原子力規制委とその事務方をつとめる規制庁が、メディアやジャーナリストを選別する権限があるかのように思い込む事態が発生しているのだとすれば、これはメディアをはじめ日本社会の情報環境の創出・享受にかかわるすべての国民にかかわる重大問題である。その意味では、会見のオープン化を自ら主導できないできた日本のメディア界総体として猛省すべき点を多々含んだ事例といえるだろう。あわせて、これも当然のことだが、首相の野田氏は、規制委・規制庁メンバーの指名責任を厳しく問われねばならない。

 なんとも惨めこの上ない有様である。属国根性丸出しのその惨めな姿は、規制委と規制庁だけでなく、政権そのもの、あるいは自民党の総裁選及びその報道にも見て取れたものと共通する「何か」を含んでいるようでもある。

 その「何か」とは、何か。自国の民衆の命も健康も、自国の自然環境も農業・漁業など食品産業も食文化も軽視してやまない、自らの足元のことしか考えにない卑屈な権力者や公僕たちが恐れを抱き敬い忠誠を誓う相手、それはすなわち、封建時代の武士のように「ご恩と奉公」の関係を成り立たせている経済システムと深くつながっているように思う。その枠組みに適応し、一定の忠誠を誓わない者に対してはペナルティを課して村八分にすることで、枠組みの統制を維持しようとする愚かしさ。そうまでして守ろうとする「対象」こそが、その「何か」であろう。その「何か」は特定の国や機構や企業かもしれないし、それぞれに巣食う「人」なのかもしれない。あるいは、その「共同体」の一員としての枠から逃れられない方々のなかに形成された、感情や意識の体系が、その「何か」なのかもしれない。

 日本の野田政権が、新政策の閣議決定を見送るという「ブレ」をみせ、そのまま「2030年代に原発ゼロ」の看板は下ろすことなく、首相の野田氏の国連総会での「2030年代に原発に依存しない社会を目指し」に象徴される「あいまい」路線へと墜落していく姿と、その背景については、東京新聞が22日付で、朝日新聞が24日付で追っている。

 22日付で東京新聞は、<原発ゼロ「変更余地残せ」 閣議決定回避 米が要求>の記事を出して、政府は、「エネ環政策」について「柔軟性を持って不断の検証と見直しを行いながら遂行する」という短い一文だけを閣議決定し、「原発稼働ゼロ」を明記した戦略そのものの閣議決定を見送った背景に迫っている。

 記事は、野田内閣が「2030年代に原発稼働ゼロ」を目指す戦略の閣議決定の是非を判断する直前に、米政府側が閣議決定を見送るよう要求していたことが21日、政府内部への取材で分かった、と伝えている。

 記事はつづけて、〈米高官は日本側による事前説明の場で「法律にしたり、閣議決定して政策をしばり、見直せなくなることを懸念する」と述べ、将来の内閣を含めて日本が原発稼働ゼロの戦略を変える余地を残すよう求めていた〉と書いている。

 政府が、「革新的エネルギー・環境(エネ環)戦略」の決定大詰めを迎える9月初め以降、在米日本大使館や、訪米した大串博志内閣府政務官、長島昭久首相補佐官らが、その戦略の内容説明を米側に繰り返したことを伝え、それをうけた米日の14日の会談では、米国家安全保障会議(NSC)のフロマン補佐官が、日本政府の閣議決定を「懸念する」と表明した、としている。大串内閣府政務官はそれに対し、「エネ戦略は閣議決定したい」と説明したという。

 日本政府としては、一定の抵抗をしたという趣旨(アリバイ? 言い逃れ?)だろう。
 だが、米側は「2030年代」という期限を設けた目標を問題視したという。
 新米国安全保障センター(CNAS、米民主党政権に強い影響力があるシンクタンク)のクローニン上級顧問は、13日、「具体的な行程もなく、目標時期を示す政策は危うい」と指摘したが、これに対して、長島首相補佐官は「目標の時期なしで原発を再稼働した場合、国民は政府が原発推進に突き進むと受け止めてしまう」との趣旨を説明し、ゼロ目標を入れた内閣の立場を伝えたという。

 その「目標の時期なしで原発を再稼働した場合、国民は政府が原発推進に突き進むと受け止めてしまう」が、その後どうなったかは、すでに明らかである。もともと努力目標に過ぎなかった「原発ゼロ、2030年代」について閣議決定はせず、早くも建設途上の原発の工事再開などが浮上し始めた。長島首相補佐官の言葉からもわかるとおり、野田政権は当初から「原発ゼロ」の時期を掲げるのは「再稼働」を国民に容認させるためであった。だが、その「時期」の明言さえ米国の国益との整合をはかるために「骨抜き」にせざるをえなくなった、というのが本当のところなのである。ゆえに、枝野経産相の「建設途上」案件に対するゴーサインが「目立つ」ことになり、野田政権は「原発再稼働容認派」だということをはっきり露呈するに至った、ということになろう。

 自分たちの幼稚で浅い「策」におぼれ、自己満足的行動に走っては、みごとに足をすくわれる。ここでもみごとに民主党の残党が、そもそも当初から抱えこんできた「弱点」をさらけ出したかたちである。

 野田政権は「2030年代」と「原発ゼロ」目標達成の時期をいれることで、再稼働を容認させる土壌をつくろうとしたに過ぎず、あくまでその時期も目標であって、途中で政権が変わればそこはどうにでもできる余地を含ませたものだった。そこに早々に、米国の「要求」を忖度し、それへの対応を含みこませたつもりだったが、米国は日本が正式に「原発ゼロ」を打ち出すこと自体に難色、警戒感を抱いたというわけである。

 この交渉で米側は、核技術の衰退による安全保障上の懸念なども表明した、と記事は書いている。
 この記事に付された「解説」記事によると、
1)米側は、日本の主権を尊重すると説明しつつ、
2)米側の要求の根拠として「日本の核技術の衰退は、米国の原子力産業にも悪影響を与える」
3)「再処理施設を稼働し続けたまま原発ゼロになるなら、プルトニウムが日本国内に蓄積され、軍事転用が可能な状況を生んでしまう」などと指摘。
4)再三、米側の「国益」に反すると強調したという。

 この記事は、〈当初は、「原発稼働ゼロ」を求める国内世論を米側に説明していた野田内閣。しかし、米側は「政策をしばることなく、選挙で選ばれた人がいつでも政策を変えられる可能性を残すように」と揺さぶりを続けた。放射能汚染の影響により現在でも十六万人の避難民が故郷に戻れず、風評被害は農業や漁業を衰退させた。多くの国民の切実な思いを置き去りに、閣議での決定という極めて重い判断を見送った理由について、政府は説明責任を果たす義務がある〉と指摘して、終わっている。

 「日本の主権を尊重する」としながら、日本の「原発ゼロ」への決断については、さまざまな論点、課題を指摘し、さらには米国の「国益」を持ち出して、日本の政治に判断の留保を迫る姿が、如実に伝わってくる記事といえる。ただ、大串内閣府政務官は21日、東京新聞の取材に対して、「個別のやりとりの内容は申し上げられないが、米側からはさまざまな論点、課題の指摘があった。米側からの指摘で日本政府が判断を変えたということはない」と話しているから、米側が強引に「2030年代に原発稼働ゼロ」をめざすことを取りやめさせた、ということではないのだろう。

 また24日には、朝日新聞が<原発同盟、維持迫った米 原発ゼロ閣議決定に「ノー」>の記事を出して、「米国はなぜ、日本の原発ゼロに反対するのか」に迫った。

 朝日新聞の記事は、8日、野田首相と会談したクリントン米国務長官が「米国も関心を持っている」と釘を刺したことについて、〈世論に押された政権と民主党が、原発ゼロに傾きつつあったころだ〉とする。

 つづいて政府が12日、長島首相補佐官らを米国に急遽派遣し、ホワイトハウス、国務省、エネルギー省などで説明に回ったこと、だが各所で「具体的な道筋が不明確だ」との不満が相次いだことや、核不拡散への日本の協力の先行き、使用済み燃料からプルトニウムを取り出す再処理事業をどうするのか、人材育成への影響などについても懸念が示されたことなどについて書いている。

 また、新米国安全保障センターのクローニン上級顧問が閣議決定に明確に反対したことのほか、別の有力シンクタンクのトップが「野田首相を高く評価してきたが、今回は失望した」と突き放したと書いている。さらに、9月中旬に訪米した北沢俊美元防衛相にも同様の懸念が伝えられたことのほか、17日に森本防衛相と会談した際、パネッタ米国防長官も説明を求めたという。

 同記事は、8月に、アーミテージ元米国務副長官ら、超党派のアジア専門家らが、世界の原発建設で、今後中国が台頭し、ロシアや韓国、フランスとともに主要な役割を果たしていくとの見通しを示し「日本も後れをとるわけにはいかない」と指摘していたことも忘れずに指摘している。

 この朝日新聞の記事は、小見出し「核不拡散・対テロに不都合」を立てて、日本の原発からの撤退が、中国やロシアが、アジアや中東への原発輸出を加速させると見られることや、中国などが日本に比べて核技術の拡散防止に真剣に取り組まない可能性があることを、米国が懸念しているとの指摘もしている。

 米国が日本との原子力協定で、核兵器を持たない国としては世界で唯一、核燃料の再処理やウラン濃縮を行うことを認めていること、それは燃料の再処理を求める韓国に対して、朝鮮半島非核化の立場から難色を示しているのとは対照的、とも書いている。記事の後半は、米国の「核」と「原子力ビジネス」の側の言い分をそのまま記したような内容(こうした記事から仄見える記者・編集者の位置取りについては、しっかりとチェックしておく必要がある)だが、だからこそ、そのまま米国の「核」と「原子力ビジネス」の深い結びつきともに、そこに関与してきた日本の「原子力ビジネス」と「核」との関係を想起させる内容だ。

 〈日本が原子力から撤退すれば、米国は核不拡散や核保安の戦略見直しを迫られる可能性もある〉とも指摘し、日本は米国の原発ビジネスのパートナーでもあることにも言及している。

 こうした米国の都合や内幕や思惑や戦術・戦略の類が、どのようにゆがんだり、つながったり、影響したりすれば、原子力規制委と規制庁による特定の新聞の会見からの排除につながるのか、私にはわからない。いや、直接はつながっていないのだろう。だが間接的にはどうか。やたらと米国の事情や言い分を忖度したり、慮ったりすることが、戦後の日本社会の旧・支配層及びそれに連なる人々は得意であることは、これまでに何度もこの場でふれてきた。

 一年半前にあれだけ酷い原発事故を引き起こしておきながらも、日本の原子力ムラ、原発ムラ、それに与し連なる人々は、何もなかったことにしたいのだろう。日本社会が受け、またこれから本当に長きにわたって受け続けるであろう被害よりも、「核」と「原子力ビジネス」の存続と繁栄にしか関心のない人々が、現実に、依然として多数存在するのかもしれない。

 もちろん、組織人としてはそれに従うほかない人でも、個人としては異なる考えをもつ人も多数存在するだろう。そういう人たちが組織内で今後どのような扱いを受けるようになるか、また、そうした人々のなかからどのような人々が排出・輩出されることになるのかも、しっかりとみていく必要がある。それも、言うまでもないことだろう。

 日本社会はいま再び、米国との関係について、国際社会との関係について、また、企業と市民社会、個人との関係について、決定的な局面と向き合っている。国とは、社会とは、いったい誰のため、何のために存在するのか。「核」と「原子力ビジネス」の存続のためには、日本国憲法21条だろうと何だろうと、平然とふみにじってやまない1%勢力と、その一方で、言論表現の自由を制限され、国民の知る権利を蹂躙される99%の圧倒的多数。その激突のときが訪れている。

 「核」と「原子力」の利害関係者が、自らの存続のみを最優先するために、スケープゴートとしてジャーナリストや新聞社を血祭りに上げる。これはジャーナリストやメディア、市民の分断を狙いとしていることは、火を見るよりも明らかなことである。

 長期にわたって、膨大な広告宣伝費やその他をばらまいてメディアを操ってきた彼らである。今回のような出来事は、どれだけ彼らがメディアを見下し、そこで働く人間たちを見下してきたかの証左のようなものでもある。

 その彼らが、「再稼働判断の権限」を政府から与えられ、原子力規制委や原子力規制庁の存在意義をどこかで履き違えて、発足したとたん原子力推進委や原子力情報規制庁へと成り下がろうとしている。これでもはや、どのような美辞麗句を吐こうとも、狙いはメディアの分断であり、民意の分断にあることが早々に明らかになったのだから、私たち市民99%は遠慮なく連帯し団結して、徹底して「原発ゼロ」の実現をめざしていくことになろう。

 規制委や規制庁が、どんなに「原発」について厳しい管理の姿勢を打ち出そうとも、その目的とするところは「核」と「原子力ビジネス」の存続でしかありえず、原発事故の被災者や被災地域のことなど、取るに足りないものと考えているのだろう。「もう原発事故は起こしません、それでいいんでしょ」ぐらいの感覚で、この地震列島日本で原発ビジネスを続けられてはたまらない。「想定外」は二度と許されないのである。

 彼らはビジネス上問われる責任以上のものは負うつもりはなく、そこに国家や国家間のしがらみや都合が介在すれば、平然と市民の権利など無視しかねない。今回の特定新聞に対する記者会見からの締め出しの措置は、そのまま市民の知る権利に対する攻撃であり、挑戦に他ならないのである。

(こわし・じゅんぞう/日本ジャーナリスト会議会員)


原子力規制委、「赤旗」記者の会見出席認めず(朝日新聞25日)
http://www.asahi.com/national/update/0926/TKY201209260625.html?tr=pc
「特定の主義主張 ご遠慮いただく」 原子力規制委が取材規制(しんぶん赤旗26日)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-09-26/2012092614_03_1.html
原子力推進官僚ずらり 規制庁が始動(中国新聞20日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201209200112.html
原発ゼロ「変更余地残せ」 閣議決定回避 米が要求(東京新聞22日)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2012092202000098.html
原発同盟、維持迫った米 原発ゼロ閣議決定に「ノー」(朝日新聞24日)
http://digital.asahi.com/articles/TKY201209240608.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201209240608
◇原子力規制委員会が記者会見から赤旗やフリーランス記者を排除→原子力規制委員会への抗議はこちら
原子力規制委員会への御質問・御意見
https://www.nsr.go.jp/ssl/contact/index.php

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広島から福島へ、1945-2011
Excerpt: Dr. Anthony J. Hall: 広島から福島まで、1945-2011:核の傲慢と悲劇の物語 レスブリッジ大、クローバリゼーション・スタディーズ教授Anthony J. Hall (2011年..
Weblog: マスコミに載らない海外記事
Tracked: 2012-09-30 12:41