2013年05月06日

憲法を書き替えるということ――その意義と重さについて=映画「リンカーン」と毎日新聞社説

 5月3日の憲法記念日。毎日新聞は社説「憲法と改憲手続き96条の改正に反対する」を掲げた。
 冒頭で上映中の映画「リンカーン」にふれている。映画は、「米国史上最も偉大な大統領といわれるリンカーンが南北戦争のさなか、奴隷解放をうたう憲法修正13条の下院可決に文字通り政治生命を懸けた物語だ」と紹介して、<彼の前に立ちはだかったのは、可決に必要な「3分の2」以上の多数という壁だった>と整理していた。
 この社説に触発されて、4日、観に出かけた。

(JCJふらっしゅ「Y記者のニュースの検証」=小鷲順造)

 場所は新宿と決めた。快晴だったこともあり、ピクニック気分で吉祥寺とか国立・立川、あるいは八王子まで足をのばすことも考えた(3日付の社説には、読み返したくなる社説が何本もあったから、少し浮かれ気味だったのかもしれない)が、この日の読書の予定を考えて、WiFiの入る喫茶店が確実に見つかる新宿にした。

 映画は良かった。新宿では2軒、上映している館を歩いてみつけた(こういう時は、歩くことも楽しみの重要な要素なので、ネット検索とかはしない)。一館はまばらに空席ありの表示、一館は十分空きがありますとの説明があった。状況はつかめたので、食事を軽くすませて喫茶店へ。読書に区切りがつかず、結局、2軒の店で通算4時間を過ごし、空いている方の館に走ったのは18時ぎりぎりだった。

 映画の内容にはここでは詳しく触れないが、見事に上質な教育映画の風味で、永く残したい作品であることは間違いない。上映中は、新聞の内容は完全に忘れて没頭して観たが、あとから振り返れば、確かに毎日新聞のいうように、<彼の前に立ちはだかったのは、可決に必要な「3分の2」以上の多数という壁だった>。

 社説は書いている。<反対する議員に会って「自らの心に問え」と迫るリンカーン。自由と平等、公正さへの揺るぎない信念と根気強い説得で、憲法修正13条の賛同者はついに3分の2を超える。憲法とは何か、憲法を変えるとはどういうことか。映画は150年前の米国を描きつつ、今の私たちにも多くのことを考えさせる>。

 これもその通りで、3分の2の制限こそが、「奴隷解放」の決定を歴史的な偉業とした可能性が高い。小手先の、お手軽、お気軽の決定でしかなければ、あの情況の中での奴隷解放は、あの情況の中での一時的なものに止まっていた可能性もあるし、逆に、戦争の終結が優先されるに止まり、人類史に画期をもたらす「冒険」は先送りされた可能性も高いように思えた。

 「奴隷解放」のプロセスは、まず1862年7月に、合衆国議会は南軍兵士が保持する奴隷を解放する第2押収法を決め、リンカーン大統領はこれに調印、同年9月にこれを宣言(奴隷解放宣言)した。内容はこの段階では、合衆国の権威に反抗し、またはその法律に反して反乱を起こしたり、それに参加・援助したと認められた者は、10年以下の懲役、または1万ドル以下の罰金を課せられる。さらに当該する者の所有する奴隷は全て解放される、という趣旨に止まる。

 合衆国連邦に反旗を翻す者たち(南部連合軍)の行為は許さない、その奴隷の所有も許さない、すべて解放するというこの宣言にこめられたさまざまな人々の思いは、1864年4月8日に上院で可決され、1865年1月31日に下院(119対56)で可決されて米合衆国憲法修正第13条へと結実してゆく。

 映画は、戦争終結に向けた急速な動きと、その動きの中で奴隷解放を確実なものにしようと動く政治家たちの物語を描いている。リンカーンもその他の政治家たちも、「理想化」されないよう注意深く等身大で描かれ、人によってはそのリアルな姿を描き出すために少々コミカルだったり、過度に保守的だったりする(青春グラフィティものなどで、過度な権威主義者や利己主義者たちの失敗が描き出されるように)。

 この憲法修正第13条とセットで機能する憲法修正第14条(市民としての身分および公民権=1866年6月提案、1868年7月批准)、憲法修正第15条(市民の投票権は肌の色や以前の身分で妨害されない=1869年2月提案、1870年2月批准)については、この映画はふれていない。リンカーンは、暗殺者の銃弾をうけたために、1865年4月15日(土)午前7時22分には、この世を去っていたからである。

 映画「リンカーン」が描いたのは、暗黒から脱出しようと前へと突き進む人間社会の姿である。そこには品位と崇高なる精神がある。この映画は、「憲法を変える」という行為には、そうしたものが伴っていてしかるべきだということに気づかせてくれる。そして、あわせて、そうした「仕事」を担う人々(日常生活ではわれわれとそう変わらない人々)の大きさも、感じ取らせてくれる。

 さらに、紛争解決の手段として戦争を用いないことを世界に宣言した日本国において、その憲法を、戦争のできる普通の国へ、軍需産業を育成・勃興できる普通の国へと変えようとしてやまない人々が、いかに後ろ向きで、内向きで、小物でしかないか、その「改憲」の姿勢に微塵の品位も崇高なる精神も宿していないかを、痛切に感じさせてくれる。そのうえ、そうした輩は、「外国と比べて改憲条件が厳しすぎる」というのだ。

 毎日新聞の社説は指摘する。
 ――外国と比べて改憲条件が厳しすぎる、というのも間違いだ。――
 <米国は今も両院の3分の2以上による発議が必要だし、59回も改憲している例として自民党が引き合いに出すドイツも、両院の3分の2以上が議決要件となっている。改憲のハードルの高さと改憲の回数に因果関係はない。問われるべきは改憲手続きではなく、改憲論議の質と成熟度だ。改憲してきた国にはそれがあった。日本にはなかった>、と。

 まさしく、そのとおりであろう。社説はさらに、以下を指摘している。
(1)改憲案は最後に国民投票に付すことから、首相や自民党は、発議要件を緩和するのは国民の意思で決めてもらうためだと言う。こうした主張は、代議制民主主義の自己否定につながる危うさをはらむ。
(2)普遍的な原理規範である憲法を変えるには、まず、国民の代表者の集まりである国会が徹底的に審議を尽くし、国民を納得させるような広範なコンセンサスを形成することが大前提だ。それを踏まえた発議と国民投票という二重のしばりが、憲法を最高法規たらしめている。
(3)国民代表による熟議と国民投票が補完しあうことで、改憲は初めて説得力を持ち、社会に浸透する。過半数で決め、あとは国民に委ねる、という態度は、立憲主義国家の政治家として無責任ではないか。

 巨大な軍産複合体を体内にかかえる米国は、ブッシュ前政権が生み出した膨大な戦費のツケに苦しんでいる。戦争依存体質からの脱却に苦しんでいる。米国のパートナーとしての日本がいま果たすべき役割は、戦争抑止の道筋をともに模索し、世界と共に歩むことである。その道は、悲惨な最悪の事故を引きおこした日本の原発を世界に拡散して、生活や環境を脅かし、核の拡散の脅威を無視して人類社会の不安を高めることとは対極にあるはずだ。

 日本の自衛隊と米軍との「融合」を促進することでもなければ、オスプレイのような欠陥軍用機を在日米軍基地に受け入れたり、その台数の拡張を受け入れたり、あるいは購入したり、兵器の共同開発への道を切り開いたりすることでもない。

 そうした後ろ向きで、内向きで、品位のない小物たちが声高にあおり、血道をあげようとする流れに、日本社会は足をとられて寄り道をしている暇などないのである。ましていま、日本社会は、マイナスからのスタートを余儀なくされている。なおさらのことである。

 格差と貧困が蔓延する日本社会、そのうえに東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故が襲いかかっている。そうした危機状況に対して、安倍政権の経済政策は、消費増税と福祉予算の切り捨てと共通番号制度(マイナンバー、国民総背番号制)などを基盤に、自民支持層の復元・復活をめざして、復興予算を軸にカネをばらまき政権の求心力を演出・創出することで、日本社会の弱肉強食社会への傾斜を強め、そして武器輸出三原則の「緩和」=武器の国際共同開発への参加や、過酷事故の拡散や「核」の拡散につながりかねない原発の輸出などを、成長戦略のうちの「外需」拡大の要素として位置づけるなど、いわばルール無視、品位無視の経済拡張によって政党としての生き残りをはかろうとしているようにみえる。

 安倍政権の「改憲」への前のめりは、単に自民党が「党是」で改憲をうたっているという表面的なことだけでなく、日本国と日本国憲法の価値を解しない政治屋たちが、それをかなぐり捨ててまでも自分たちの生き残りを図ろうとし、政権にしがみついて、この機会に政権基盤を確固たるものにしてしまおうとする、姑息で危うい試みのようにも感じられてならない。

 政権・政治に人間性と品位とを求め、権力の暴走を縛り込む憲法を、国権を最優先させて国民を縛り込む憲法へとつくりかえようとする勢力にとって、平和主義、民主主義、人権尊重社会、なかでも戦争の放棄をうたった憲法第9条は「邪魔」でしかたがないのだろう。それに付随するかたちでこの国をかたちづくってきた非核三原則や武器輸出三原則などについても、同様なのであろう。

 世界は、平和・共生をめざす途上にある。それを絵空事として笑い、おかしな改憲や自衛隊の国防軍への「格上げ」に熱中しようとしている人々にこそ、この映画「リンカーン」をおすすめしたい。絵空事を現実にしてゆく理想と熱情と品位こそが、政治家に託された最高の使命であることを知るべきである。

 あらゆる領域におけるグローバル化の進展は、摩擦や軋轢を生み出す契機としても働くが、人類社会が地球規模で平和・共生社会へとむかう契機としても働く。しかしながら彼らは部分にとらわれたまま、全体をみようとしない。彼らは目先にとらわれたまま、未来をみようとしない。その姿は、国際的な共生の流れに抗し、その間隙を縫って、価値の創出や共有よりも増幅を至上命題として効率のみを追い求め跋扈する資本の論理とも、一部ダブってみえたりもする。

 そのような政治家や政治集団を、国民の代表として国会へ送り、国政を付託しているのが現状である。昨年の総選挙は多党化により、自民党が比較第一党となったために、現行選挙制度の恩恵に浴したということでしかないにしても(いや、そうした復帰の仕方でしかないからこそ)、自民党は維新など改憲に同調する勢力とも通じて、自民党タカ派の悲願である「改憲」へと一歩を進め、その余勢を駆って生き残りを磐石にしようと焦っているのではなかろうか。

 しかしながら、現代の政治家が権力への妄執をその原動力とすることは、もはや時代遅れの感も濃厚どころか、もはや使用期限切れは明白である。少々どころではない。まして、そうした政治勢力が、憲法改定のためのハードルを「三分の二」から「二分の一」へと大幅に引き下げをはかるという、あまりにおそまつ、政治家としての自覚も自らを律する矜持もかなぐり捨てた姿は、惨めそのものと呼ぶほかない。

 姑息なルール改変の提案をし、それを7月に予定される参議院選挙の争点にしたいと言い出しているのだから、まったくあきれることこのうえないのである。

 彼らは税金で生活を成り立たせている。その彼らが生活保護受給者を目のかたきにするのは、自分たちが政治家としてまともな成果を生み出せず、逆に国を崩壊させる道をたどってきたことを直視したくないことの表れなのではないか、とさえ思う。だからこそ、日本国憲法に忠誠を誓ったはずの政治家が、「何のためなのか」も明確にしないまま手続きの改定も含めた「改憲」を、ことさらに口にしてやまないのではないのか。軍服を着て戦車に乗り込むパフォーマンスに嬉々として応じたりしているのではないのか。保身と自己満足だけが、彼らの支えなのではないのか。

 そうした政治の「異常」について、私たちに敏感すぎるということはない。気づきあい、それを持ち寄り、認識を常に共有しなければならないだろう。その輪を、あらゆる機会とツールを駆使して常に維持し、広げていかねばならなくなっている。マスメディアには、それもふまえた時代対応が求められているが、課された役割はいつになく重たくなっていることを自覚すべきである。

 「保守」を名乗りながら、「日出国」の気概も器も、微塵も感じられない輩ばかりではないか。われわれ庶民こそ、日本国憲法の最大の保守勢力である。マネーゲームと戦争ゲームにのみ擦り寄る者たち、さしたる根拠も気概も理想もビジョンもなしに、いたずらに改憲を唱え、その憲法改正のルールさえも守れない勢力を、日本の保守とは呼ばない。この国の保守こそ、世界に冠たる日本国憲法を足場に、世界の平和と共生の実現のために、雄雄しく世界を前進させる勢力であらねばならない。

 発議用件の緩和を、あたかもいま不可欠な「改革」でもあるかのようにあおり、志もなくただ後ろ向きなだけの自民党式改憲の方向が、「何のためなのか」も明確にできない「改憲」志向政治に乗ることは、日本社会にとってそのまま損失であり、膨大な無駄につながる。海外のメディアからは、安倍政権の後ろ向きの政治について、痛烈な批判が出ている。自民党からはすでにリベラル色が消え、いまや右翼カルト色だけが強まろうとしている、たまたま政権を手にした以上、つまらぬ冒険はやめて経済の建て直しに注力すべきであるという論調が強まっているのも、至極説得力のある状況といえるだろう。

 もう一度、毎日新聞の社説に戻ろう。
 社説は、<私たちは、戦後日本の平和と発展を支えてきた憲法を評価する>と書いた。続けて、<その精神を生かしつつ、時代に合わせて変えるべきものがあれば、改憲手続きの緩和から入るのではなく、中身を論ずべきだと考える>、と指摘している。そして、<国会は堂々と、正面から「3分の2」の壁に立ち向かうべきである>と促して、締めている。

 最後の<堂々と、正面から「3分の2」の壁に立ち向かうべき>は、それまでの文脈と前後の関係からも、「96条の改定」という本義を見失い、いかなる議論であれ正統性をそのまま欠くような誤った道へ踏み込むな、と厳しく戒める内容と受け止めるべきだろう。

 いったい「何のため」の「改憲」なのか。ターゲットは「9条」なのだとしても、それはいったい「何のため」なのか。そこへむかうための「96条」改定なのだとしても、それはいったい「何のため」「誰のため」なのか。いったい誰の役に立つというのか。私は、映画「リンカーン」を観た帰りの電車のなかで、考えながらひとつため息を吐いた。

 リンカーンを神格化したり、理想化しても意味はないが、日本のいまの政治は、あまりに小さく、あまりに軽く、あまりに後ろ向きで、余りに惨めではないか。そう感じる一方で、しかし……と考えた。

 You can fool all the people some of the time, and some of the people all the time, but you cannot fool all the people all the time.
 (すべての人を、ある時間だますことはできる。一部の人を、ずっとだまし続けることもできる。だが、すべての人を、ずっとだまし続けることはできない。)

 リンカーンの言葉である(映画には出てこない)。
 私はこの言葉を、自民や維新など、いま自民党の「改憲」をいいこと、不可欠なことのようにあおっている諸氏に贈りたい。

 いまの日本の政治。後ろ向きで無意味な動きを、われわれ国民が望んだり要請しているわけではない。政権を一度追われ、からくも復帰した一団が焦って言い出していることに過ぎない。

 彼らは今回、その「改憲」へのとっかかりを逸すれば、もはや致命傷となろう。自分たちの言ったりやったりしていることの意味はよくわからないにしても、おそらくそのことはよく知っているだろう。

 一方で、私たちはこの膨大なムダにつきあわされることになるが、その愚かな「改憲」策動を押し返すことに時間とエネルギーをどれだけさくことになっても、無駄にはならない。なぜなら、愚かな改憲策動から日本国憲法を守ったことは、それでようやくゼロで、得るものはないというわけではないからだ。

 逆に、そのこと自体が大きな前進となるのは明白である。そのときは無駄と思える「火の粉」でも、「またか」と、それを無視したり軽視するわけにはいかない。そこに、それまで時代の前進を阻んできた要素が確実に存在しているからだ。そのときこそが、日本国憲法の価値を私たちが身読できる機会であるととらえ、今度こそ確実に、日本国憲法を活かし、新たな時代を切り開くための一ステップと位置づけて、大事に、しっかりと「改憲」策動を葬り去り、日本社会総体として、そうした時代を卒業しておきたいところである。

(こわし・じゅんぞう/日本ジャーナリスト会議会員)

映画「リンカーン」オフィシャルサイト
http://www.foxmovies.jp/lincoln-movie/
社説:憲法と改憲手続き 96条の改正に反対する(毎日新聞3日)
http://mainichi.jp/opinion/news/20130503k0000m070110000c.html

 

posted by JCJ at 09:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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