20歳代で出版社立ち上げに参加したのを皮切りに、大学に移って間もなくユネスコ東京出版センター設立に参加し、日本出版学会の創立に加わったのが40歳代、50〜60歳代には情報公開法制定と定着のための市民運動に尽力、ビデオ倫理協会の改組作業は80歳代で、生涯を通じて多くの団体・組織の設立に関与した。
報道による人権侵害が声高に叫ばれるようになった80年代後半は、公権力による表現規制立法の動きが相次いだ時期でもあった。ジャーナリズムの危機が高まったこの時代、出版倫理協議会、映倫委員長として10年以上その職にあって、職業倫理のスタンダード作りを手がける。
その間には、東京都青少年健全育成審議会委員として「有害」図書規制と闘うほか、90年代末からは放送業界の自主規制機関設立に深く関与、BPO(放送倫理・番組向上機構)初代理事長となった。名実ともに出版・放送・映画の各業界倫理団体の長として、その手腕を発揮した。
それでいて「権威」になることを嫌い、在野のジャーナリズム批評活動や市民運動に身を置き続けたことも忘れてはならない。放送批評懇談会の会員として機関誌「放送批評」(現GALAC)編集長を担当し、日本ペンクラブや自由人権協会の会員として言論の自由擁護の活動も実践した。
これだけの長期にわたりメディア界全体を通し、しかも現場と理論の双方を理解したうえで活躍し続けた人物は、おそらく今後、現れることはないだろう。
闘病生活の直前まで尽きることがなかったエネルギーの源泉の一つは、「初物好き」にあったともいえよう。80年代に早くもワープロを購入、執筆においていち早くペンを捨てたことにも現れるし、晩年にはメールを駆使し、発売直後のiPadも購入してウエブの世界にも興味深々だった。
日本ジャーナリスト会議の活動においても、34歳の若さで「法学セミナー」を創刊したすぐ後に、JCJを代表してIOJ(国際ジャーナリスト機構)世界大会に参加。次の課題を貪欲に探求していたと思われる。
同じ場所に安住することなく、常に新しいものを求め走り切った生涯で、それはまた日本におけるジャーナリズム活動発展の歴史の一ページでもあったといえるだろう。
(会員・専修大学教員)
*JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2013年8月25日号8面から
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