琉球新報によると、地位協定の見直しの決議を提案したのは、九州8県の町村議長会でつくる九州ブロック会議。日米地位協定の見直しを求める特別決議は、「全国の米軍専用施設の約74%を占める沖縄県においては米軍基地から派生する事件・事故や航空機騒音、環境問題、米軍人・軍属等による犯罪が戦後70年を経た今日においても後を絶たず、地域住民の生活に多大な影響を及ぼしている」と指摘している。
(JCJふらっしゅ「報道クリップ」=小鷲順造)
決議はまた、日米地位協定は1960年の締結以来一度も改正されていないことから、「運用改善や環境補足協定の締結がなされてはいるものの、米軍基地から派生するさまざまな事件・事故等から国民の生命・財産と人権を守るためにはまだ不十分」と指摘して、抜本的な見直しを求める内容となっている。
大事なことだと思う。心からこの特別決議をした「第59回町村議会議長全国大会」に敬意を表したい。
日米地位協定などには、日本と日本政治の歪な状態がそのまま現れている。自公政権が強行成立させた「戦争法」はその際たるものといえる。日本社会はいまこそ、そうしたゆがんだ「民主主義」を脱して、国民が成立させた憲法によって政治の逸脱を縛る立憲主義に則り、平和主義・民主主義・人権尊重の社会を土台からあらためて築き上げるときである。
立憲主義を解さず、自らの利権と独裁のみを志向するような幼稚で時代から取り残された自民党とそれに追従してやまない公明党の政権は、閣議決定だけの解釈改憲を基盤に戦争への道を切り開き、武器輸出の解禁や共同開発の道を突き進もうとしている。それも政権の経済政策の一環だというから驚く。気がついたらすでに遅かったというような事態を、二度と日本社会はまねき寄せてはならない。
そして、そうした反市民社会、反民主主義、反平和主義の政治は、国民の税金を使って利権政治と独裁志向政治を平然とやりながら、政治として無能というほかない弱肉強食の社会へと突き進んでいく。貧困や格差・差別を拡大していく。
10月28日には、日比谷野外音楽堂で「生活保護アクション25条大集会」が開催された。約4000人が集まった。この集会の実行委員会共同代表の尾藤廣喜・生活保護問題対策全国会議代表幹事(弁護士)は、「生活の基盤を支える保護制度の充実は何より必要だ」と話し、近年政府が行った生活保護法の改正や保護基準の引き下げを批判した(→福祉新聞)。現在25カ所で800人を超える人が国を相手に訴えている裁判を紹介した上で「命の砦である25条を生きたものとするため、皆でつながり、行動しよう」と呼び掛け、労働環境の向上や年金、医療など社会保障の充実を求めた。集会には、民主党、維新の党、共産党、社民党、生活の党の国会議員も参加したという。
立憲主義を無視した前時代的な政治を、断じて許してはならない。立憲主義をふみにじる政治を放置すれば、あっという間に国は、そのまま「ここはいったいどこの国?」と疑うほかないような前時代的な状態へと成り下がってしまう。
この国が立憲主義で成立している国であること証明するのは、市民社会にほかならない。選挙を通じて前時代的な幼稚で遅れた政治に歯止めをかけるのは、立憲主義社会に生きる市民の権利であり義務である。
本来、国会及び自民党や公明党も含むすべての政党・政治家は一致団結して、立憲主義を逸脱し、日本国憲法を逸脱した内閣の活動の凍結を決め、管理内閣を組織して、いまのような<国会も開かない>異常な状態に歯止めをかけて、行政を仕切りなおさねばならない。その義務を負っている。しかしながら、選挙の結果、衆参両院で多数を占めてきた自公与党からは、そうした動きは見えてこない。
であるならば、野党が党派を超えて連携して、行政と国会の正常化にあたるほかない。その動きが、いろいろ右往左往しながらも、足場を固めつつあるようにも思える。
悲観と絶望が背景を覆うなかでも、さまざまな希望、未来への光もさしている。それが現実社会の醍醐味だと思いを定めて、進むべき道をしっかりと進みたいものである。
(こわし・じゅんぞう/日本ジャーナリスト会議会員)