2018年09月29日

【訃報】 元JCJ代表委員・橋本 進さんを偲んで=奥田史郎

 橋本進さんが8月5日、91歳で亡くなられた。私が大宅文庫から中央公論社へ移ったのは1959年の秋だった。当時すでに橋本さんは、中央公論社の編集者のみならず、出版労協(出版労連の前身)やJCJでも活躍していて、いつも大きな風呂敷包みを抱えて出入りしていた。
 私の職場は資料室で、そこには新刊の諸雑誌や出版・印刷の業界紙誌があるので、橋本さんは何か面白い資料はないかと立ち寄り、それがきっかけで親しくなった。
 彼は飛び級で進学した秀才で、しかも早生まれだから皆より若く入社した。大人っぽく見せたくてソフト帽を被って出社していたと、古い社員から聞いた。
 労組で意見が紛糾すると、橋本さんが「要求の原点」を根拠に、ていねいに説得する姿を何度も見た。嶋中事件や雑誌「思想の科学」をめぐる<言論の自由>擁護闘争では、理論的中枢として活躍された。
 職場独自の要求作りでは、女性ばかりの交換台や受付の環境改善に尽力し、お人柄もあり女性社員の信頼も厚かった。学生時代に柔道をしたと聞いたが、社交ダンスも好きで社員旅行の時、ホールがあると橋本さんのお相手は退きも切らず現れて、彼は休む間もないほどであった。
 橋本さんの口調をまねれば「ことほど左様に」女性社員に人気があったからか、71年に月刊誌「時代」の編集を目的に、中央公論社を去る際は、出席者は女性ばかりの送別会まで開かれた。
 橋本さんには、実に多くの先輩を紹介していただいた。60年代、JCJの事務所は中公ビルの裏口から二筋東の小路に建つ田口ビルの4階、新聞労連事務所の一隅にあった。私がデスクワークで連絡しやすかったので、よく三上正良・JCJ事務局長から呼び出され、仕事を手伝うだけでなく、新聞・放送などに携わる人達を紹介いただいた。
 その後、私は雑誌編集を10年余り続け82年秋に中公を辞めた。80年代末に、橋本さんから声をかけられ、コマエスクールの同人に加えてもらった。初めは狛江にあった岩崎勝海(元岩波書店)さんの事務所に集まったので、橋本さんがスクールと名付けた。
 93年から同人誌を刊行し15号まで続いた。橋本さんは創刊から<吉野源三郎『君たちはどう生きるか』をどう読むか>と題して、私の名著研究≠11回連載した。それと同時期に橋本さんは戦時中の言論弾圧事件「横浜事件」の再審裁判支援の活動を、勝利判決を得るまで続けられた。
 皆から好かれる橋本さんも、周囲に心配をかけることが2つあった。若い頃のヘビースモーカーと、頼まれた講演が時間オーバーすることだった。それとなく終わりを進言しても「まだ話し足りない」の答えが返ってきた。今はどうぞ思う存分お話しください。

posted by JCJ at 10:00 | お知らせ&行動要請 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする