2020年03月11日

3・11から9年 「山さ逃げよう」消えた証言 ジャーナリスト講座「大川小の悲劇」 なぜ川へ真相なお不明=須貝道雄

■加藤順子さん(20年2月13日).jpg
 東日本大震災から9年。あの時、宮城県石巻市立の大川小学校では校庭から逃げ遅れた児童74人(行方不明4人を含む)が津波の犠牲になった。2月13日に開いたジャーナリスト講座では「大川小の悲劇はなぜ起きたか」をテーマに、ライターでフォトグラファーの加藤順子(よりこ)=写真さんから話を聞いた。

川に向かい歩く
地震が起きたのは11年3月11日午後2時46分だった。大川小に津波が到達したのは同3時37分。この51分の間、校庭に避難した児童らはずっと並んだままだった。
移動を始めたのは津波が来る2分ほど前、目的地は「三角地帯」と呼ぶ新北上大橋のたもとにある堤防の一角だった。子どもたちは海水が遡上するだろう北上川に向かって歩いたのだ。
家族が作成した資料によれば、校庭から移動して先頭の子が約150b進んだところで、高さ8・6bに達した津波にのまれた。「当時の学校は防災に対する認識がいかに浅かったかがわかる」と加藤さんは語気を強めた。
 大川小のすぐ裏には山があり、ふだんからシイタケ栽培や写生の授業で児童らはよく入っていた。険しい道ではなく傾斜角度は9度。「普通の階段の半分くらいの傾斜だ」。なぜ走って40秒で行ける裏山に上らなかったのか。それが遺族の疑問だった。

聴取メモは廃棄
津波で亡くなったある6年生の男児は校庭で「山さ逃げよう」と訴えていたという。石巻市教委が生き残った児童(4人)からのヒアリング内容として、家族に口頭で説明した。
ところがその後、「山さ逃げよう」という発言は報告書に出てこない。どの記録にも残っていない。ヒアリング時のメモ、原資料は廃棄されたという。証言した児童たちは今、20歳近くになる。市教委の資料には自分たちの話が反映されていないという不満が当初からあり、市教委に不信感を抱いていると加藤さんは説明した。
大川小の事故については石巻市の調査のほか、文科省が乗り出して2012年に事故検証委員会が設置され、14年に報告書が出た。結局、なぜ山に逃げなかったかの真相は解明されなかった。教師でただ一人生き残った先生の証言がいまだ十分に聞きとれていない状況のままだ。
加藤さんは「報告書の内容は遺族が2年かけて調べた情報を超えていない」「委員会設置に尽力した前川喜平氏は官僚的な対応で、家族からの怒号が飛び交う中で、みなから納得を得たと思うと言って、報告を終わらせた姿は忘れられない」と手厳しく批判した。

揺れながら決意
高校時代に教科書に載っていた朝日新聞・深代惇郎(1929~75年)の天声人語を読み、ジャーナリズムに憧れたという加藤さん。大学在学中に阪神淡路大震災(95年)があった。東京の友人らは次々とボランティアに出かけた。水泳部で飛び込みをしていた加藤さんは練習のため、ボランティアをすることができず、残念だったと振り返る。
その後、気象予報士となり、TBSのお天気番組などに10年近くかかわったが、現場取材をしたくてライターを志望。11年3月11日は東京・大手町のビルで就職情報誌の記事を書いていた。急にゆらゆら揺れ出した机にしがしがみつきながら「これは大きな災害だ。絶対に取材に行くぞ」と考えた。大川小問題に直面し「ずっとウオッチすることが課された使命だと思った」という。
須貝道雄
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2020年2月25日号
posted by JCJ at 09:09 | 政治・国際情勢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする