新型コロナウイルスの拡大感染を受け、政府は7日、特別措置法に基づく緊急事態を東京、大阪など7都府県に宣言。さらに16日には対象地域を全国に拡大した。実施期間は5月6日まで。
安倍晋三首相は感染者の急増、医療崩壊への危機的な状況を理由にあげた。知事への権限賦与に伴い、憲法が保障する自由や権利、たとえば教育を受ける権利や営業の自由、移動の自由などの私権を制限することができ、国家による公衆衛生と個人の人権がぶつかりあう事態となった。
小池発言で混乱
宣言によって、強制的に外出が禁止され、公共交通機関もストップするという誤解が生じ、デマも飛び交った。この無用な混乱の大きなもととなったのが、3月下旬の小池百合子・東京都知事の発言だ。
記者会見で「ロックダウン(都市封鎖)など強力な措置を取らざるを得ない状況がでてくる」と強調し、聞き慣れない横文字の「ロックダウン」という言葉を連発。「緊急事態宣言」イコール「都市封鎖」という見方が広まり、スーパーに買い物客が殺到した。しかし、日本の法律では、欧米のような強制力を伴う都市封鎖はそもそもできない。
小池知事が高みから都民や国民を見下ろすように記者会見し、「ロックダウン」の恐怖をあおった姿勢は政治家としていかがなものか。政治ショーともとれる独断的な会見が混乱を招いた。
報道は小池氏の発言を垂れ流すだけでなく、異を唱えるべきであった。医療従事者やスーパー従業員ら国民の支援にあたる人たちをねぎらい、同じ目線で語りかけることが、いま求められている政治家の姿ではないか。
「正しさ」の衝突
確かに感染拡大を防ぐためにイベント中止や自宅待機を国民に求めるのは間違っていない。この間、多くの医療関係者らがエビデンスに基づいて訴えた。かたや経済学者らは自粛が長引けば経済が悪化し、場合によれば死者がでるとも指摘した。いずれも正しい見解であろう。異なる「正しさ」の衝突のなかで、いかに民主主義を守る「解」を導きだすのか。
世界的なベストセラーとなった『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「『全体主義的な監視』と『市民の権限強化』のどちらを選ぶのか」(日経3月31日朝刊)と迫り、「我々にとって最大の敵はウイルスではない。敵は心の中にある悪魔です」(朝日4月15日朝刊)ともいった。
いまのところ、日本は強権を発動するのではなく「穏やかな抑制」をめざしている。「補償したくないから」ということでなく、情報の透明性をはかりつつ、私権制限を最小限にとどめたいということなら、歓迎したい。
強権に頼らない
一方で、自民党が憲法改正にあげる「緊急事態条項」を促す動きも活発化している。コロナ禍に乗じる発想は、「火事場泥棒」との批判もある。国民民主党の玉木雄一郎代表は外出規制違反の罰則化など、欧米諸国並みの都市封鎖ができる法整備に言及した。私権制限について野党が先行するという逆転現象は警戒しなければならない。
直ちに強権に頼る必要はあるのか。大きな災害に繰り返し見舞われ、鍛えられた日本人の「常識」や「良識」を信頼する政治や報道で、この難局を皆で乗り越えたい。
徳山喜雄
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2020年4月25日号