
多大な犠牲者を生んだ旧日本軍によるインパール作戦(1944年)。その戦跡を訪ねる旅をトラベルデザイナー、おそどまさこさんが企画し、8人の参加で1月末に実現した。何を見たのか、おそどさんからの報告だ。
国は公式発表していないらしいが、「インパール作戦」の戦死者は3万人、傷病者の数は4万人といわれている。
「白骨街道」たどる
私たちは、日本からインド東北部のコヒマに入り、インパールへ南下した。かつての日本軍の敗退路=白骨街道に隣接した舗装道路を一気に車で走り、国境を越えてミャンマーのタムに入った。
ミャンマーとインド東北部を分ける国境は、北から南へ縦に続く。西のインド側には2千b級の山が連なるアラカン山系、東のミャンマー側には川幅6百b、雨期には濁流で千bにも広がるチンドウイン河がある。
日本軍は英軍が陣取るインパールの30キロ手前で力が尽きたようだ。武器弾薬、食料などの兵站が当初から不十分だった。
インパールで印象に残ったことがある。連合軍の墓地では、たった一つの骨でも残っていれば、一人の戦死者とみなされ、一つの墓が創られていた。丁重な扱いに、日本との差を感じた。
冷や汗のドライブ
日本側のインパール作戦の総司令官、牟田口廉也は将兵の命を軽く考えていた。「味方の将兵5000人を殺せば陣地(インパール)が取れる」。作戦本部で牟田口が話していたという。彼に仕えた若い少尉が記録を克明に残していた。戦争から生き残った元少尉は数年前に、車いす姿でNHKスペシャルの取材に応じ、「兵隊に対する考えはそんなもんです」と怒りをあらわにした。
ツアーの圧巻は終盤のチンドウイン河畔の村トンヘ(ミャンマー)から4WDの日本車に分乗して、日本軍が渡河した地点ホマリンへ行く道だ。今までに世界中、100回以上旅してきたが、度肝を抜かれた。スキーの直滑降のような、土と岩の急な山道の上り下りが50回ぐらい続いた。
インパール作戦のスタート時に、日本軍がチンドウイン河を渡り終え、インド側の2千b級アラカン山系の複雑な山道を、戦車や大砲など部品を分けて進んだというのは、切り立った山のこういう直滑降の道のことを指すのではなかったか。
そこを3万頭以上の牛馬も連れて、自分のリュックも、大砲も運ぶ。牟田口廉也が将兵たちに強いた様々な苦難を想像するには十分な2時間。命がけ、肝を冷やすドライブだった。
残る空気感を共有
次の日は軍票(写真)を生まれて初めて見た。チンドウイン河をホマリンから船に乗って南下した。途中の村で散策していたら、村の若者がいた。彼が見せたもの。日本の政府が発行した戦地で通じるお金「軍票」だった。祖父が神棚にしまっていたという。
戦時中に日本軍が使い、食料や牛馬を調達したと思われる軍票を、こんな田舎の村で、戦後75年たっても村人が大切に持っていた。現金化してやらず、踏み倒し続けていいものだろうか。
旅の果たす役割は大きい。人々を歴史の現場に連れて行けるし、残されている空気感や痕跡を共有できる。「インパール作戦」の戦地を巡るツアーは21年2月にも計画してる。問い合わせは左記へ
osodomasako@gmail.com
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2020年4月25日号