
敗戦75年の節目、全国戦没者追悼式の安倍首相式辞から「歴史の教訓」に学ぶ姿勢が消えた。歴代首相のアジア諸国への謝罪、加害責任言及も、第2次安倍政権で途絶えた。「2度と戦争のためにペンをカメラをとらない」がJCJの出発点だ。いま、ジャーナリズムに問われるものは何か。元朝日新聞東京編集局長でジャーナリストの外岡秀俊さん(写真)に寄稿をお願いした。
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あの戦争が終わって、75年目の暑い夏が過ぎようとしている。敗戦の年に生まれた人が後期高齢者となる。それほど長い「戦後」を私たちは生きてきた。
私たちはいつも「敗戦」を起点に歳月を数えてきた。戦争を生きた人々の遠ざかる影を追い、記憶に留めようとしてきた。だがいずれ、その後ろ姿が消える日が来る。私たちはどのように、惨禍と悔悟、痛恨をのちの世代に伝えたらよいのだろう。
メディアの本性
「敗戦」を折り返しとして、昭和を前期と後期に分けてみよう。明治維新から敗戦まで77年間は、戦争に次ぐ戦争の時代だった。そして敗戦後の昭和後期から平成、令和まで、ともかくも日本国憲法のもとで、この国は武力で諸国に介入しない節義を守った。あと2年で「戦後」は、近代日本の「戦争の時代」と等しくなる。排外派から「自虐」と呼ばれ、米国には「グズ」と呼ばれようが、私たちがかろうじて志操を守ったのは、この国で生きる人々が、あの戦争で逝った、巻き込んだ数百万の失われた命の痛苦を噛みしめてきたからだ。
だが、あの戦争を支え、鼓舞・煽動すらしたメディアの本性は、その後どこまで変わったのか。「大本営発表」は軍部の自作自演ではない。メディアがそれを伝えたからこそ、人々は信じ込んだ。その過ちの重さと愚かさを、私たちはどこまで剔抉したのだろう。
伝えるべき情報
昨年末に始まったコロナ禍は、世界を巻き込み、私たちは今なお、「自粛」と「社会的距離」を強いられている。「自粛」が内面化されれば容易に「萎縮」になり、「社会的距離」は、「連帯」や「共生」を挫くことになりかねない。メディアが政権の発表を垂れ流すだけなら、この目には見えない、強制を伴わない「心の戒厳令」は、仮にコロナ禍が終息しても「新常態」になる恐れがある。
ジャーナリズムが伝えるべき情報は、大きく分けて四つあると思う。
@刻々と変わる情勢において、「いま直面している問題は何か」を、そのつど定義する情報A「いま、何をなすべきか」という選択肢を市民や自治体に示し、行動や判断の参考にしてもらう情報B政府の施策の成り立ちと効果の有無を批判的に検証する情報C専門家同士に議論の場を提供し、現時点での論点を整理し、問題の在りかを解明するための情報。
この四つは、それぞれ言論機関の@アジェンダ設定機能A行動・判断指針の提示機能B検証・調査報道機能C言論フォーラム形成機能、という役割を示している。
コロナ禍報道は今のところ、起きた事象の後追いをするのが手いっぱいで、こうした言論機関本来の機能は十分に果たしていないのではないか。そう感じない訳にはいかない。
センサーの役割
具体的に指摘しよう。今の政権与党は、事態が行き詰まると、その難局に全力で対処するよりも、その困難を奇貨として、本来望んでいた政策へと誘導する傾向がある。
たとえばコロナ禍に乗じて「緊急事態条項」を導入する改憲機運を盛り上げようとしたり、「イージス・アショア」の配備失敗を機に、あろうことか「敵基地攻撃力」の保有を検討し始めたりすることに、それは顕著だ。
そればかりではない。
昨年の消費増税に当たってポイント還元を導入し、あるいはマイナンバーカードの普及を図ったりするなど、官邸を「輔弼」する人々にも、その傾向は強い。いったん緩急あれば、何が何でも省庁の施策を貫くというこの傾向は、コロナ禍においても、医療態勢支援の前に「アベノマスク」に巨費を投じたり、感染拡大の兆しがあるにもかかわらず「Go To トラベル」を前倒し実施したりといった、ちぐはぐな対応を招いた。「国民の命と安全を守る」ことが最優先とするなら、考えられない発想だ。
こうした姿勢を、「ショック・ドクトリン」とまでは言うまい。しかし、庶民が直面する厳しい現実を察知するセンサーが働かず、「慣性」のように、省庁の従来施策を追い求めて摩擦を起こすという点で、それは政治の機能不全だといえる。そして言うまでもなく、その「センサー」の役割を果たすべきなのは、ジャーナリズムであり、メディアなのだ。
「不信」の要因は
私は、コロナ禍でメディアが果たすべき役割は、役所の伝声管になるのではなく、庶民の嘆きや苦しみを察知して政権に現状を知らせ、そうした声に寄り添うことで、人々の共感を呼ぶよう努力することだと思う。
近年、SNSの急速な台頭で、新聞やテレビといった既成メディの影響力は低下し、「メディア不信」も広がりつつある。コロナ禍による広告の減少は、産業としての基盤をも揺るがしかねない。
打開策はあるのだろうか。
私は、「メディア不信」の背景には二つの要因があると思う。
一つは、メディアの側が、読者や視聴者に対する説明責任を十全に尽くしていないことだ。たとえば、コロナ禍で、現場では十分な取材ができていないことを、受け手は敏感に察知する。メディアが、取材手法やその限界など「手の内」をさらせば、受け手はきっと理解してくれる。もう一つは、各社の報道姿勢が、ある種の型の価値観に縛られ、既成メディアが、すでに「フィルター・バブル」状態になっていることだ。各社の報道姿勢を越えて、ジャーナリストが連携し、何が問題で、何を大事にすべきか、その共通項を探ることが、急務だと思う。
「大本営」検証を
新聞労連は今年3月8日の国際女性デーに向けて、会社の枠を超えて有志がメーリング・リストなどで議論を深め、その前後に、各社が独自の記事や特集を組んで緩やかに連携する試みに挑んだ。
その試みをヒントに、「メディア不信」に抗するために、具体的な提案をしたい。
私は、毎夏の終戦記念日前後に、メディアで働く人が「大本営発表」について検証し、自らの今の報道姿勢が、同じ轍にはまっていないかどうかを、読者や視聴者に説明することを提案したい。
各社が右に倣う必要はない。メディアは、個々のジャーナリストの集合体に過ぎない。志のある人が、自ら所属する組織に働きかけ、自分のできる範囲で最善を尽くす。それがひとつの潮流となれば、きっと「メディア不信」を押し返す力になると思う。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2020年8月25日号