2020年09月25日

【裁判】 ビキニ被曝の高知漁船員 「労災」求め闘い続く 世界の核被災者との連携みすえ=石塚直人

       W8面 ビキニ[53602].jpg 労災訴訟を起こした原告と弁護団=3月30日、高知地裁
 1954年、太平洋ビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で被曝した高知県の元マグロ漁船員や家族らが全国健康保険協会(東京)と国を相手取り、労災認定に当たる船員保険の適用を不認定とした処分の取り消しと損失補償を求めた「ビキニ労災訴訟」の第1回口頭弁論が7月31日、高知地裁で開かれた。
 この日は原告2人が意見陳述、被告側は裁判の分離や東京地裁への移送を求めた。3年半にわたる国家賠償請求訴訟に続く闘いは、世界の核被災者との連帯を見据えている。
政治決着で闇に
 第五福竜丸の被災が問題化した後、港で放射能マグロを廃棄した漁船は、この年12月までに延べ992隻(うち高知県は270隻)。月別の内訳では実験が終わった夏以降に急増し、海域は日本近海からオーストラリア北東に及ぶ。
 「海がパーッと光って、灰が降ってきた」などの目撃者も含め、誰もが汚染されたスコールを浴び、獲れた魚を食べていた。海水中の「死の灰」が食物連鎖で魚に蓄積され、内部被曝の危険性が高まる中、漁船員らは自身の検査結果も知らされず何度も出漁した。
 日本政府は米国の意向を受けて同年12月末、全ての調査を打ち切り、翌55年1月、見舞金7億2千万円と引き換えに「今後、米国の責任を問わない」で政治決着した。今に続く対米従属外交の〈原点〉と言える。
 一方で、官民挙げて原子力の「平和利用」キャンペーンが行われ、同年11月から全国10か所で開かれた博覧会には約300万人が訪れた。第五福竜丸以外の被曝はもみ消され、漁船員らは風評被害を恐れて沈黙した。
35年前 高校生ら発掘
 広島、長崎に続く第3の悲劇に光を当てたのが高知県西部で活動する「幡多高校生ゼミナール」の生徒とゼミ顧問だった山下正寿さん(75)ら。長崎とビキニでの二重被ばくを苦に自殺した宿毛市の青年の話を端緒に、1985年から元漁船員らの聞き取りを続け、本や映画でも紹介された。
 「8人のうち5人ががんや脳腫瘍で死んだ」「10年ほど前から肝臓障害や手足のしびれがひどい」。後年になって発症する晩発性障害が目立った。山下さんらは翌86年、元漁船員の健康調査を始めるとともに、マーシャル諸島の被曝者を訪ねて調査。以来、全国各地に対象を広げたが、被災の全容解明は「資料がない」とする国に阻まれてきた。
メディアが局面打開
 局面を打開したのがメディアだ。2004年から山下さんに密着取材した南海放送(愛媛)が「NNNドキュメント」で相次ぎ放映。12年の映画「放射線を浴びたX年後」も多くの賞に輝いた。NHK広島放送局も14年、NHKスペシャル「水爆実験 60年目の真実」で元船員の歯や血液の新たな分析結果を報道、被災当時の詳細な秘密文書を米国で発掘した。米元高官は「核開発競争に邪魔なものはすべて隠した」と証言した。
 高知の元漁船員らが国賠訴訟に踏み切ったのは16年。一審・高知地裁、二審・高松高裁は請求を棄却したものの、被曝自体は認めた。日弁連も7月21日、国に補償などを求める意見書を公表、続いて広島地裁が「黒い雨」訴訟で原告全面勝訴の判決を出した。
 国連で核兵器禁止条約が採択された17年以降、山下さんらは世界の核被災を紹介するDVD(日・英・露語など)を作成、漁船員の英訳つき証言写真集を各国の大使館に送った。仏国営放送制作の映画「我が友・原子力〜放射能の世紀」(渡辺謙一監督)も今年10月、高知・黒潮町から全国上映される。
 問い合わせは、太平洋核被災支援センター(宿毛市)へ。
 石塚直人(元読売新聞記者)  

ビキニ水爆実験
 1954年3月1日から5月まで計5回。3月16日に静岡・焼津に戻った第五福竜丸の悲劇が大きく報じられ、原水爆禁止運動の引き金となった。マーシャル諸島海域全体での米国の核実験は、46年から58年まで計66回。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2020年8月25日号
posted by JCJ at 01:00 | 裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする