2021年03月30日

進む権威主義国家化 罰則で失策を責任転嫁 政治と科学の境界領域 報道の焦点あてよ=徳山喜雄

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 新型コロナウイルス感染症に直面し、多くの国民はマスク着用を励行し、飲食を伴う会合や外出を控えている。善良といえる国民に罰則を科す必要があるのだろうか。
コロナ禍対応の特別措置法と感染症法の改正案が国会で成立、2月13日に施行された。自民党は入院拒否した人に対する懲役刑や罰金など刑事罰のある政府案の規定を削除し、行政罰の過料に変更。営業時間短縮の命令に従わなかった事業者への過料は減額した。一見評価できそうだが、たとえ前科のつかない行政罰であっても違反者に罰を与えることに変わりはない。
 緊急事態宣言の前から、さらに解除後も罰則を科せる「まん延防止等重点措置」も新設された。これは改正特措法の核心部分で罰則をちらつかせながら、飲食店などを監視する期間が途切れずにつづき、運用次第では営業活動を大幅に制限することになりかねない。これでは、観光支援策「Go To トラベル」をはじめ菅義偉政権の相次ぐコロナ対応の失策に対し、感染拡大の責任を市民の側に転嫁しているようだ。国民に罰を与えることで抑えつけようとする菅首相の強権的な体質が見え隠れする。
スウェーデンの国際調査機関によると2019年現在の世界の民主主義国家と権威主義的な国家数は、「87対92」で権威主義国家が上回る。民主主義国家が過半数を割ったのは、2001年以来という。権威主義国家はアジアや中東などに多いが、世界の政治潮流は権威主義化し、欧州においても専制が進むハンガリーがその一つに数えられる。菅首相の政治手法も、官房長官時代から権威主義的と思えてならない。

 差別や偏見を助長

特措法や感染症法を改正し罰則を設けることで、営業をつづける事業者や入院拒否者が犯罪者扱いされ、差別や偏見が助長されないだろうか。日本はそれでなくても同調圧力が強く、コロナ禍では「自粛警察」が横行した。罰則が定められたことで相互監視が正当化され、疑心暗鬼が渦巻く密告社会になることはなんとしても避けたい。
 現状に沿わない罰則の創設は、悪法になりかねない。らい予防法やエイズ予防法で入院を強制し、差別を生みだした。国が謝罪し、これらの法律を廃止したという歴史を思い起こしてほしい。コロナ禍において、権力によって入院や検査を強いることがまっとうな医療とは思えない。信頼関係を築いての医療行為をベースとするのが、日本社会の現状に合っていないだろうか。
 政府案の修正協議は自民党と立憲民主党の2党間で進められ、わずか3日間の協議であっさりと合意、国会審議もそこそこに数日後の2月3日にスピード成立した。立憲民主と日本維新の会が賛成。国民民主党は「支援が不十分ななかで罰則は反対」、共産党は「罰則は感染症対策に逆行する」、などとして異を唱えた。罰則導入は、承服できないとする両党の意見は見過ごせない。

 菅氏の政治手法

 この改正案が成立した日に、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長の「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」などという女性蔑視発言があった。さらに衛星放送事業者の役員を務める菅首相の長男による総務省幹部への接待問題が週刊誌報道によって浮上。参院選広島選挙区での大規模買収事件で有罪判決を受けた河井案里被告が参院議員を辞職した。
 同じ日に政権に打撃を与える出来事が3つも重なったのである。支持率が急落する菅首相に容赦なく「不運」が降り注いだ。法案の成立を急いだ立憲民主も「運と胆力」がない。改正案成立をもう1日先にしていれば、事態は一変していた。
 菅首相は日本学術会議の人事には越権行為ともいえる介入をし、女性蔑視発言をした森氏の進退については権限外として沈黙した。ちぐはぐなこの姿に、「つべこべ言わずに従え」という高圧的な菅氏の政治姿勢が透ける。(→続きを読む)
3月11日、東日本大震災から丸10年になる。千年に一度の大津波によって東京電力福島第1原発事故が起こり、「最悪、東日本壊滅」という事態にまで発展した。
 目に見えない「放射能禍の恐怖」と、現在の新型コロナ禍の「ウイルスの恐怖」は、よく似ていないか。科学的な知見が一致せず、政府は右往左往し、報道も大本営発表のごとく情報を垂れ流すだけ。未知の災害に遭遇したとき、政治や科学、メディアの基盤が試されることになる。政治も科学も報道も、この10年の教訓を活かすことができたのだろうか。
 コロナ禍においても不確実性がつきものの科学と、科学的な知見に解決やよりどころを求める政治や社会とのギャップがあらわになった。コロナウイルスについては当初からデータや知見が少なく、分からないことだらけだった。このような状況で科学に正解を求めることは困難で、対応策を決定する政治とそれを受け入れる社会との関係がぎくしゃくした。

 報道の存在意義

政治と科学が交わる境界領域で何が重視されるのか。米国の核物理学者アルビン・ワインバーグが1970年代に、こうした領域を「トランス・サイエンス」と呼び、ここに生じる問題について科学に問うことができるが、科学だけでは解決できないと論じている。
ジャーナリズムはこの境界領域のことを自覚し、焦点をあてることができたか。パンデミックの波をめぐって分かれる科学的な見解や、緊急事態宣言や観光支援策を発する時期についての菅政権の判断は、裏目にでた。
姿のみえない恐怖にさらされ、差別や偏見を生むことになる放射能禍もコロナ禍も根が同じであることが、はしなくも証明された。もとよりジャーナリズムに正解がだせることはない。ただ、科学や政治の後追いだけでなく、関係先への取材をもとに先回って考える材料を、国民に提供することはできたはずだ。
『トランス・サイエンスの時代 科学技術と社会をつなぐ』という著書があり、日本における科学技術社会論の第一人者の小林傳司・大阪大学名誉教授にインタビューした読売新聞(2020年8月2日朝刊)と朝日新聞(同年8月28日朝刊)の記事は、時宜を得ており参考になった。
「科学が問題に対して解答するには、相応の時間が必要ですが、感染状況が日ごとに変化する社会は待ってくれない。科学が必要とする時間が間に合わないことも、留意しないといけません」(読売)。「科学者の助言には常に不確実性が伴い、変更を迫られる可能性が高い。そんな科学観が社会や政治に伝わらないのは深刻な問題です。……科学をどう使いこなすか、というふうに考えるべきなのです」(朝日)。
小林氏の言葉に接し、境界領域を報じることに、ジャーナリズムの存在意義があるのではないかと思えた。

 ワクチンの信頼度

コロナ対策の切り札として期待されているワクチンが喫緊の課題の一つであろう。ここでも科学的な知見は一致しない。長期的な安全性は未知数で、ワクチン接種すべきなのかどうか、国民の判断は分かれる。
 英医学誌「ラセット」は昨年9月、ワクチンの信頼性の関する世界149カ国・地域への調査結果を掲載した。日本はワクチンの信頼度がもっとも低い国のひとつに数えられた。「ワクチンは有効」という問いに「強く同意する」人の割合は、米国65%(順位55位)に対し、日本は最下位から2番目の22%(148位)。「ワクチンは安全」という問いについては、米国61%(68位)に対し、日本は最下位の17%(149位)だった。
 世界的にみても、日本人ほどワクチンの後遺症を恐れている国民はいない。サリドマイドやスモン、薬害エイズといった薬害の記憶が影を落としているのだろうか。
 100%安全なワクチンは、どの病気に対しても存在しない。どこまでリスクを許容するかは、その社会の価値観や意思決定の仕組みによる。最終的には科学でも政治でもなく、社会(世論)が決定していくものだ。権威主義国家化に歯止めをかけるためにも、国民と健全な言論が境界領域の行司役になるべきだ。      
  徳山喜雄
 JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年2月25日号


posted by JCJ at 02:00 | 政治・国際情勢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする