2021年04月16日

被災地を取材する大手メディアの「やべえ奴ら」=高田正基

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から10年。3月11日を中心に、新聞もテレビも連日、読者や視聴者が消化しきれないほど大量の報道を展開した。その中身についてここでは問わない。そんな情報の洪水の中を泳ぎながら、頭をよぎったのは被災地におけるメディアの取材者たちの振る舞いについてだ。

 2018年9月6日に最大震度7を観測した北海道胆振東部地震の、ある現地リポートが忘れられない。筆者は東北大学災害科学国際研究所助教の定池祐季さん。1993年の北海道南西沖地震の際、奥尻島で巨大津波を体験した定池さんはやがて防災の研究者となり、胆振東部地震発生直後から甚大な被害が出た厚真町に支援に入った。
 当時、札幌の民放局勤めだったわたしは、そのリポートが掲載された『震災学』vol.13 を読んで情けなさに襲われた。定池さんはリポートに「人の美しさと醜さ」と題して1章を割いた。助け合う被災者やボランティアたちの姿に人間の美しさを見る一方で、目にした醜さに「強い怒りと悲しみと脱力感を覚えた。(略)その多くは報道に対してだった」。定池さんが見聞きした取材者たちの姿とは―。

 避難所や役場の周辺で「遺族を探せ!」「(犠牲者の)写真を探せ!」と叫ぶ。避難所の近くで「厚真の人はガードが緩くてチョロい」と話す。役場の前にたむろして煙草をふかす。保護者のいないところで子どもに接触し、故人が写っている写真を求める。避難所が立ち入り禁止となったため、屋外の仮設トイレのそばで被災者が表れるのを待つ。「正確な数字を出さないと訴えられるぞ」と社協職員を脅す。
 書き写すだけで嫌になってくる(定池さんによれば、こうした「醜さ」は現地に入って来た研究者にも見られたそうだ)。このリポートを読んで、定池さんを招き社内勉強会を開いた。そのとき「地元の記者もひどかったですか」と問うたわたしに、定池さんは「目に余ったのは東京から取材に来た大手メディアの人たちです。地元メディアの皆さんはきちんとしていました」と答えてくれた。わたしたちへの気遣いもあったかもしれないが、それを聞いて少しホッとした。
 
 そんな記憶がよみがえったのは、東日本大震災から10年を特集した『Journalism』2月号に掲載された2本の寄稿を読んだからだ。お読みになった人も多いだろう。
 岩手県の地域紙『東海新報』(本社・大船渡市)の代表取締役・鈴木英里さんは10年前、泣きながら取材に走り回った。そんな中、被災地に入ってきた大手メディアの「画(え)になる悲劇が撮れるなら、被災者を踏みにじっても構わない―そういわんばかりの取材者」に何度も出会ったという。
 東海新報に「被災度が高い人、亡くなった家族が多い人を紹介してくれ」と依頼してくる記者。地元の高校の卒業式では「遺影の撮影はNG」とされたのに、たくさんのフラッシュがたかれ、生徒たちの心を傷つけた。鈴木さんは「この人たちが求めるのは、災害というエンターテインメント≠ナしかないのだ」と激しく憤る。
  同県大槌町で一人『大槌新聞』(3月11日付で休刊)を出してきた菊池由貴子さんも似た経験をした。朝日新聞などが主催したフォーラムに登壇したとき、楽屋でゲストたちがニヤニヤしながら遺体の話をする。本番では復興予算が話題になり「仮設住宅に囲まれるようにしてパチンコ店ができた」などと語る。遺体の話をした時と同じような表情で。菊池さんは「人の死や悲しみを想像できない人たちが報道していることを知り『ダメだ、この人たちは』と思った」そうだ。

 10年前と3年前。メディアの取材者たちはなぜかくも醜悪な振る舞いを繰り返すのだろう。報道の使命を「自分たちは特別だ」と勘違いしているのか。あるいは本当にエンタメ感覚なのか。繊細な感性を持ち合わせていては、被災地報道はできないとでも思っているのか。そもそも「人の死や悲しみ」に対する想像力を持ち合わせていないのか。おそらく、そのいずれもあるだろう。
 救いは東海新報の鈴木さんがこう書いていることだ。
「大手メディアのやべえ奴ら≠ェ跋扈(ばっこ)していたのは、ほんの一時のことだった。(略)本当に気骨のある取材者だけが残ってくれた」

 わたしは民放局の前に長く新聞社に勤務したが、大災害や大事故が起きたとき、デスクとして「社会面は遺族(被災者)の声で展開するぞ」「犠牲者の写真はないのか」などと指示したことがある。その指示に従って、記者たちがどんな取材をするかまでは思いを巡らすこともなく。正直、自分自身だって現場記者時代には、厚真に取材に入った取材者たちと似た振る舞いをしたことはなかったか。
そんな話を先日、元同僚と話していたら彼はこう言った。「被災者の声を取るのに、仮設トイレのそばで待ち伏せくらいはするだろう」。そうかもしれない。しかし、取材者だって見られていることを忘れてはいけない。定池さんや鈴木さんや菊池さんの告発に、忸怩たる思いにかられるのは、わたしだけではないはずだ。

 集中豪雨のような報道のたびに、メディアはさまざまな批判を浴び、反省を重ね、取材モラルの徹底に努めてきた。それでも「醜い取材」はなくならない。毎年のように各地で発生する大災害。その現場に殺到する取材者たち。被害の実態を記録し、被災者の声に謙虚に耳を傾け、伝えるというメディアの使命を果たすべき彼らが「メディアのやべえ奴ら=vとそしられるのを、もう見たくはない。    
 高田正基(北海道支部)
posted by JCJ at 02:00 | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする