2021年04月24日

福島どう伝えたか 未曾有の事故から得た教訓 産業・文化・生活どう修復するか 欠けていた事故当時の報道=坂本充孝

                                   
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       立ち入りを制限するゲートの向こうの富岡町の住宅地(2016年撮影)
 
 東京電力福島第一原発の事故から十年が経過した。事故の日を前後して新聞、テレビ、雑誌などのメディアは復興の兆しが見える被災地の様子をこぞって伝えた。一方でこの日本にはいまだ原発推進政策が健在で、老朽原発の再稼働への流れが進む現実がある。あの未曾有の事故から日本のジャーナリズムは何を学び、何を学ばなかったのか。改めて考えてみたい。
 十年前の三月十二日、福島第一原発1号基の建屋が水蒸気爆発を起こして吹き飛ぶ映像を私は東京・日比谷にある東京新聞本社の特別報道部のテレビで見た。
 本当の意味で日本の原発報道が始まったのは、あの日だった。
 中曽根康弘元首相らの肝いりで原子力基本法が成立したのは一九五五年。それから五十年以上もの間、電力各社はあらゆる手段を使って原発政策を肯定する世論の醸成を計ってきた。報道各社には常軌を逸する金額の広告費が配られ、記者の中には接待攻勢を受けて骨抜きになった者もいた。反原発の記事を書けば、待ち受けたのは気味の悪い沈黙、無視だった。
 津波対策を怠った福島の事故は、そうした異常な空気、原子力には触らない、批判しないという空気の果てに起きたことを忘れてはいけない。
 お陰で実際に原発という怪物が制御不能に陥るという事態に直面したとき、どの報道機関も放射線防護の知識は何一つといっていいほど持ち合わせていなかった。
 そのために犯した最大の失敗は「福島県に入ってはならない」というルールを各社が取材記者に科したことだ。記者の健康を守るという理由だったろうが、福島県内には二百万人を越える人々が食料や物資の不足に苦しみ、情報から隔てられておびえていた。報道機関の使命に照らせば、何らかの手段を講じて取材にあたる道を探すべきだったが、それすらできなかったのは、準備不足と無知が原因だったというほかはない。

特別支局を開設

 それでもゲリラ的に県境を越える記者はいた。七月になると、東京新聞の社内では「福島取材OK」のお触れが流れた。
 解禁の後押しをしたのは、脱原発に向けて動きだした世論の流れだ。連日、数万人もの人々が国会議事堂前に押し寄せ、「原発はいらない」と訴えた。そうした民衆の声を無視できなくなった。
 実際に福島で取材をするようになると、新たな難問を突きつけられた。放射能汚染の実態をどのように伝えるべきかだ。
 地震、水害などの被災地と違い、被害の実相が把握できなかった。福島市、郡山市などの都市部でも線量計は高い数値を示した。「子どもが鼻血を出す」と訴える母親もいた。しかし医学的な定見はほぼなく、百人百説が飛び交っていた。「県内の子どもは全員避難させるべき」と主張する学者もあり、伝えようでは県民の心を傷つけることにもなりかねなかった。ブロック紙で福島県内に取材拠点を持っていなかった東京新聞(中日新聞)は事故から一年半がが経過した二〇一二年十二月に福島特別支局を開設した。地元住民と同じ視点を得ることが開設の目的だったと思う。
 私は二代目の支局長として二〇一五年から三年間を現地で過ごしたが、地元に生活の場を置き、普通の人々の話を聞いたのは大きな収穫だった。
 誰もが口にするのが、海と山に囲まれた故郷のありがたさだった。
 「人が住めない土地になる」「福島の農水産物はいらない」と投げ付けられた言葉が、人々の心にどれほど残酷に突き刺さったかを知らされた。
 この土地を放棄する選択肢など当初からあっていいわけはなかった。放射線量をどのように下げるかはもちろん、破壊された産業や文化、生活などの傷跡を、どのように癒やし修復するかについて、日本中の知恵や人材を集め、資金を集めて、もっと真剣に人ごとではなく考えるべきだった。
 そうした視点が少なくとも事故直後の報道には欠けていたように思える。いまさらではあるが、やはり記者は現場にいることが大切だ。

地に足をつけて

 十年が経過して福島県海岸部の被災地に足を運ぶと、あまりの変化に目を奪われる。事故から五、六年の間は、人影がない町角、崩れ落ちた民家と、色彩を失ったような風景がどこまでも続いていた。今は真新しい復興住宅やモダンな公共ホールが整然と建ち並ぶ。
 一方で柵の向こうには除染も終わっていない帰還困難区域が広がる。
 自治体ごとに町おこし会社が生まれ、志を持って移住してきた若者が快活に働く姿もある。だが、昼日中でも町を歩く人の姿が数えるほどしか見られない現実は隠しようもない。人口減は復興助成金が途切れたときに各自治体に財政破綻をもたらすのではないか。
 そうした現実も踏まえ、地に足を付けて被災地の今を伝え続けていかなければならない。
 一方で、事故直後に盛り上がった「脱原発」の市民運動のうねりをもう一度、生み出さねばと思う。それは福島第一原発の事故を未然に防げなかった私たちが背負い続ける使命である。
 坂本充孝(東京新聞編集委員)
 JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年3月25日号
posted by JCJ at 02:00 | 福島第一原発事故 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする