■<ねんてん先生の文学のある日々>を、いつも楽しみに読んでいる。俳人・坪内稔典が「赤旗」文化欄に、毎月第一金曜日、執筆している。
この4日付の75回では、正岡子規の「墨汁一滴」に触れて、子規と漱石との交遊を綴っている。
■興味を覚え、書棚から170ページの岩波文庫を引っ張り出して再読。あらためて脊椎カリエスに苦しみながら、毎日、「墨汁一滴」分の文章を、一年半も書き続けてきた精神の強靭さに心打たれる。
<この頃は左の肺の中でブツブツブツブツといふ音が絶えず聞える。これは「怫々々々」と不平を鳴らして居るのであらうか。あるいは「仏々々々」と念仏を唱へて居るのであらうか。あるいは「物々々々」と唯物説でも主張して居るのであらうか。>(四月七日)
東京市下谷区上根岸の寓居で書く、この一文は鬼気迫る。
■子規への想いを膨らましているところに、<田辺聖子「18歳の日の記録」没後2年、押し入れから出てきた一冊のノート>というニュースである。そういえば6月6日が命日、享年91。今年は3回忌に当たる。
■見つかった日記ノートは、田辺聖子が18歳になったばかりの昭和20年4月1日から書き初め、22年3月までの日々を綴った記録である。とりわけ昭和20年6月1日の「大阪大空襲」に遭った際の詳細な記録は、その後の「聖子の原点」を彷彿とさせる。
■10日発売の雑誌「文藝春秋」7月号に掲載された田辺聖子「十八歳の日の記録」から、恐縮だが引用させていただくと、
<お父さんも、私が帰ったときいて、ぬれしょぼれた格好で向うからやって来られた。「そうか、帰って来たのか、家、焼けたよ。ははっは。これも戦争じゃ戦争じゃ、仕様がないわい、しかしこれで皆、無事に揃うて、まず目出度いとせなあかん」とお父さんは、快活に言った。私はたとえ、それが不自然であっても、しおれた皆を元気づけようとする心がうれしかった。>(六月二日)
とあり、大阪市此花区にあった父が経営する田辺写真館が燃え落ち、家族は一睡もできない夜を過ごした状況が描かれている。
■また敗戦の「八月十五日」には、万年筆で丁寧に書かれた他のページとは違い、「墨汁一滴」墨文字が一気呵成に躍っているという。
<何事ぞ! 悲憤慷慨その極を知らず、痛恨の涙滂沱として流れ肺腑はえぐらるるばかりである。我等一億同胞胸に銘記すべき八月十四日。嗚呼、遂に帝国は無条件降伏を宣言したのである。>
■愛国心いっぱいの軍国女学生の思いが、ほとばしる。だが翌年の大晦日には、二十歳を前にして、こう綴る。
<来年も、勉強して小説を書こう。私はもう、この道しか、進むべき道はない。そう、信じている。来年もまた、幸福な精神生活が送れますように。>
■さて、ここまで書いてきた筆者の誕生日は6月12日。もう一度「墨汁一滴」を繰ってみる。今からちょうど120年前の同日、34歳の子規は病床から、次のように書いている。
<植木屋二人来て病室の前に高き棚を作る。日おさへの役は糸瓜殿夕顔殿に頼むつもり。碧梧桐来て謡曲二番謡ひ去る。曰く清経曰く蟻通。>(六月十二日)
猛暑に備えて、梅雨どきの庭の植栽に心を配る子規、そこへ見舞いに訪れた俳人・河東碧梧桐が謡う能「清経」「蟻通」の一節が響く。おお、この情景と余韻、サイコー!(2021/6/13)