◆今から90年前、1931年9月18日の夜10時24分、中国東北部・奉天(現在の瀋陽)近郊の柳条湖で、満鉄の線路が爆破された。
当初、中国兵による不法な襲撃とされたが、実は日本の関東軍が仕組んだ自作自演の謀略だった。大本教の出口王仁三郎は、満州事変の勃発した「一九三一」年を、「戦(一九三=いくさ)の始まり(一)」と、読み取ったという。
◆この満州事変を機に、関東軍は中国侵略を拡大し、かいらい国家「満州国」の建国、日中全面戦争、そしてアジア・太平洋戦争へと続く15年戦争になだれこんでいく。
◆いま机のわきに、船戸与一『満州国演義』(全9巻・新潮社、2007年刊行以降2015年完結)と朝日新聞「新聞と戦争」取材班『新聞と戦争』(2008年刊、朝日新聞出版)が積んである。コロナ禍での“巣ごもり”を利用し、時間をかけて再読している。
船戸与一のシリーズは、満州軍閥の張作霖爆殺に始まり、第二次世界大戦終結までを、「満州国の興亡」を軸に描く長大な歴史ドラマだ。
◆満州事変を描くのが、第2巻『事変の夜』。架空の敷島四兄弟を登場させて、学術的な歴史書では捉えられない事件のダイナミズムが、関東軍特務や同盟通信記者の動きも加えて、浮き彫りにされている。
軍部の謀略・陰謀・策略・欲望・権謀術数の凄さに圧倒される。と同時に新聞が軍部に迎合していく実態も描かれている。
◆満州事変勃発の翌日、新聞は軍部の謀略と虚偽の発表をそのまま報道し、満蒙からの詳報に全力を挙げた。これまで軍縮を主唱していた朝日新聞も、満州事変を機に社論を転換し、戦争動員の世論形成に加担していく。
『新聞と戦争』は、朝日新聞が自らの「暗部」を、元記者や関係者への聞き取りなど、総力取材で自己点検、2008年にJCJ大賞を受賞した。なかでも「第8章 社論の転換」「第9章 満州開拓」が、詳細に記述している。
◆「満州」の日本軍に慰問袋2万個を送るキャンペーン、「勇ましい皇軍の活躍」を宣伝する記者派遣、「肉弾3勇士の歌」懸賞募集などなど、戦争協力へ他の同業社と競いながら邁進していく。
とりわけ新聞・通信社132社が、1932年12月19日、軍部に迎合し「満州国の独立を支持する共同宣言」まで出した責任は、きわめて重い。
◆思い出すのは「満州事変から30年」の前年、60年安保改定に反対する国民運動が最大限に高揚しているさなか、東京の主要新聞社7社が出した共同宣言である。
「暴力を排し議会主義を守れ」と題して、全学連などのデモを批判する内容だった。これにより岸内閣を指弾・追究するメディアの筆法が弱まる転機となったため、「新聞は安保で再び死んだ」と指摘された。
◆そして「満州事変から60年」、1991年には読売新聞の渡辺恒雄主筆が社長に就き、同紙上で憲法9条を骨抜きにする改憲キャンペーンがスタートする。
さらに「満州事変から80年」の2011年以降、7年半にわたる安倍政権下で、戦前回帰の軍国主義化が加速し、集団的自衛権の行使容認、報道規制を目指してのメディアへの介入、従軍慰安婦問題をめぐる「朝日新聞バッシング」と続く。
2020年10月、菅政権では安保法制に反対する日本学術会議会員6名の任命拒否へと行き着く。満州事変の火種は、今でも消えてはいないのだ。(2021/9/12)