2021年09月14日

【オンライン講演】福島を撮影10年 繰り返される棄民政策 山本宗輔さん語る=伊東良平

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 フォトジャーナリストの山本宗補さんが7月のJCJオンライン講演会で、原発事故後の福島の10年を自身が撮影した写真とともに語った。山本さんは「3・11」の翌日から福島に入り現在にいたるまで現地を撮影して放射線汚染の実態を伝え続けている。

  山本さんが最初に語ったのは2011年の事故発生当時の東京電力勝俣会長が爆発した原子炉の管理を自衛隊に任せようとしていたという無責任発言のことだ。この信じがたい出来事が東電の体質を物語っている。
初動取材は11年3月から立ち入り禁止の警戒区域に入り大手メディアに欠けている情報をネットで拡散した。原発から北西方向は線量計が振り切れるところもあった。
 事故から10年、避難指示区域の7町村では現在でも住民は一部しか戻らず、約7万人いた住民が現在は1万人弱にすぎない。大熊町では大半が今でも帰還困難区域だ。
 
町残しのため
 帰ろうという住民が1割にも達しないのに大川原地区だけが特定復興再生拠点として除染され、30億円をかけて町役場の新庁舎が建設された。山本さんは見かけの復興つまり「町残し」のためだと言う。常磐線は20年3月に全線開通したが、大野駅前の駐車場はイノシシが闊歩していた。この地区に住む木幡さん夫妻は2ヘクタールあった水田での農業と学習塾で生業を立てていたが、どちらも奪われた。敷地にある銀杏の木の下ではまだ861ベクレルもある銀杏の外皮を大好物のイノシシが食べている。

不幸の10年
  「原子力明るい未来のエネルギー」の看板のあった双葉町では標語の入選者が負の遺産も残すべきと看板の撤去に抗議した。現在はすべての看板が撤去されている。復興予算53億円で原子力災害伝承館という箱モノを建てたが、墓地の墓石は倒れたままだ。浪江町も若干住民が戻ったが1割にも満たない。多くが帰還困難区域の津島地区では日中からサルの群れが往来する。
一時帰宅に同行すると家はサルやカモシカなどの動物に荒らされたままで、家主は復興10年ではなく不幸10年と話す。
この津島地区は満蒙開拓団から帰ってきた人たちが戦後多く移住した場所である。約380戸が開拓入植した。ここに住んでいた「希望の牧場ふくしま」の吉澤正巳さんも両親が満蒙開拓団に参加の後にツテを頼って浪江町に移って牧場を始めたが、事故後は毎日牛の死体を片付ける作業に追われて絶望を感じたという。吉澤さんはいま原発反対集会に参加して訴えを続けている。富岡町も1割程度しか住民が戻っていない。

300年必要
 ここにある東京電力廃炉資料館ではモニターで「何世代もつないでいかないとデブリは取り出せない」と説明している。廃炉について、今まで言われてきた30〜40年は非現実的と日本原子力学会廃炉委員会が提言を出した。それによると部分撤去でも300年必要という。大手メディアではほとんど報じていない。大手メディアは被災者の声をもっと拾っていれば、コロナ禍の中で五輪が強行されることはなかったのではないかと山本さんは言う。政府が国民の命と健康に宣戦布告しているとしか思えないとも。

牛がミイラ化
 満蒙開拓も原発も国策ですべて多くの国民を翻弄し棄民してきた。今回は復興五輪の名のもとにまたも国民を欺いている。この講演会で山本さんが撮影した写真が多く示されたが、中で一番インパクトのあったのは餓死した牛のミイラのものであった。沢山の乳牛が牛舎で息絶えてミイラ化していた。国が福島を遺棄した象徴の証のひとつである。
 伊東良平
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年8月25日号(要約版)
posted by JCJ at 01:00 | オンライン講演 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする