2021年09月23日

【慰安婦問題】名乗り出て30年 記者たちが証言 開戦50年企画の取材記事 23年後に突然バッシング=須貝道雄

30年前の金学順さんを報じた新聞記事A.jpg


 旧日本軍によって従軍慰安婦にされた韓国人女性、金学順(キム・ハクスン)さんが、自分は元慰安婦だったと記者会見で明らかにしてから30年。8月7日、東京のプレスセンターホールで、植村訴訟最終報告会を兼ね「金学順さんが名乗り出た時――記者たちの証言」のシンポが開かれた。金さんのカミングアウトがいかに世を変えたか、その言葉の重みを再確認する場となった。
 金さんがソウルで初めて記者会見に臨んだのは1991年8月14日。韓国のメディア向けだった。この会見が国際的な反響を呼んだ。
 日本人記者も会見の前後に様々に取材した。証言テープを聞いて金さんの存在をいち早く報じたのが当時、朝日新聞大阪社会部記者だった植村隆さん(現「週刊金曜日」発行人)だ。その事情を当時の朝日新聞ソウル支局長、小田川興さんは語った。
韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の共同代表、尹貞玉(ユン・ジョンオク)さんから元従軍慰安婦の女性が「ついに名乗り出た」と連絡を受けた。「だれに取材させるか思案した。日韓の政治が動いている時で支局は多忙だった。その時、大阪にいる植村記者から電話が入った。話をすると、彼は『明日行きます』と。そこから物語が始まった」
植村さんは91年8月10日に金さんの証言テープを聞き、翌11日付の朝日新聞大阪版・社会面トップに「思い出すと今も涙」の見出しで記事を書いた。それが23年後に「ねつ造」だと不当なバッシングを受けることになる。

 植村記事の直後に、北海道新聞ソウル支局長だった喜多義憲さんが金さんへの単独インタビューに成功し、8月15日付社会面に「日本政府は責任を」の記事と金さんの写真を載せた。
 シンポで喜多さんは「(太平洋戦争の)開戦50年企画で慰安婦問題をやろうと7月ごろから取材していた。メディアと会うと決心する女性がもし現れたら、まず私に連絡してと(挺対協の)尹さんにダメもとでお願いしていた。そうしたら8月13日に尹さんから話が来て、本当かと驚いた。14日午後2時から金さんへのインタビューが実現した」
 金さん(1924年生まれ)の父親は抗日運動にかかわり、日本軍に銃殺されたという。その反骨精神は娘にも引き継がれ、従軍慰安婦の問題を世に訴える「役割を担ったのではないか」と喜多さんは受け止めている。
 植村バッシング問題のドキュメンタリー「標的」を制作した元RKB毎日放送の西嶋真司さんもソウル支局長時代の91年末、金さんを取材した。「13分のインタビュー映像がある。だがTBSが持っていて使えない。今はメディアが慰安婦問題をタブー視している」と現状を語った。
 毎日新聞記者の明珍美紀さんは韓国メディア向けに開かれた8月14日の金さんの会見に出席していた。「後ろの方にいた。異様な熱気だった。ふり絞るような声と涙。迫力に圧倒されたのを覚えている」。明珍さんはその後、金さんと会い、9月28日付毎日新聞に「消えぬ朝鮮人慰安婦の傷」の見出しで「記者の目」を書いた。
 シンポには元NHKディレクターの池田恵理子さんも出席し、慰安婦問題を歴史から消そうとする動きが1997年から始まった模様を明らかにした。
須貝道雄
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年8月25日号
posted by JCJ at 01:00 | 政治・国際情勢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする