東京パラリンピックが閉幕した。新型コロナウイルスが猛威をふるうなか、開催賛成と反対の人たちが相半ばし、社会が分断、亀裂が深まることとなった。
主催者側の菅義偉首相や小池百合子・東京都知事らは、五輪についてもパラについても「開催の意義」を語り、国民に説明を尽くそうとしなかった。このためアスリートたちは釈然としない思いのなか、「参加の意義」を懸命に自問することになったのではないか。
競技に向かうアスリートの純粋な気持ちを政治利用しようとしたことが、ありありと透けたのも今回の大会だった。
支持低迷にあえぐ菅首相は、五輪・パラがはじまれば国民が夢中になって空気が変わると高を括っていた。
コロナ対応については、ワクチンの成果を「呪文」のように唱えたが、これまでに経験したことのない勢いでコロナが感染拡大し、医療崩壊に直面。多くの国民が入院を拒否され、適切な医療を受けられないまま、自宅で亡くなるというケースが相次いだ。
菅氏は自らの強い意思で開催したパラリンピックの期間中に政権を投げだした。せめてパラが終わってから、辞意を表明するという節度を持ち合わせていなかったのだろうか。
中高年が活躍
体力のある10代、20代の選手が参加する五輪と違い、多くの中高年が活躍したのがパラリンピックの大きな特徴だ。51歳の成田真由美は中学生のときの病気がもとで下半身まひになり、水泳をはじめたのは23歳だった。
6度目のパラとなる今大会は、3種目が予選落ちし、競泳女子50b背泳ぎで決勝にのぞみ、6位入賞を果たした。34歳で出場した2004年アテネ大会より2秒近く記録を縮めた。
1996年アトランタ大会から4大会連続出場、計20個のメダルを獲得。「水の女王」と呼ばれたが、過去の成果にとらわれることなく泳ぐことを楽しんだ。同時に両方の腕がない14歳の山田美幸は背泳ぎで銀メダルを獲り、中高年と若手が一つの競技で力をだしきった。
パラ日本最高齢で66歳の西島美保子は、女子マラソンに出場。生まれつきの弱視で40代半ばからマラソンをはじめた。16年リオ大会は暑さなどで途中棄権、今大会は42・195`を走り抜き、国立競技場に8位でもどってきた。
自転車女子個人の杉浦佳子は、日本最年長となる50歳で金メダルに輝いた。健常の自転車レース中に転倒、右半身にまひが残り、脳障害の後遺症で記憶も途切れがち。大会の1年延期で緊張の糸が切れて引退も考えたが、コーチらに助けられ、やり抜いた。
多様性と調和
大会の理念である「多様性と調和」の観点からみれば、東京パラ大会に性的少数者のLGBTを公言している選手が、過去最多の28人に。前回のリオ大会の2倍以上になった。しかし、報道はかぎられ、もう少し手厚く扱ってもよかったのではないか。
ザンビア唯一のパラ選手モニカ・ムンガ(22)は、生まれつき肌や瞳の色素が薄い遺伝子疾患「アルビノ」で、視覚障害がある。陸上女子400b予選に出場した。アフリカではアルビノの切断された身体を呪術に用いることで、幸福をもたらすという迷信があり、いまも高値で売買されているという。
国連の報告によると、2006〜19年、アフリカ28カ国で208人のアルビノが殺害され、襲撃されたのはその3倍近くにのぼる。知る人ぞ知る話だろうが、ムンガは予選落ちしたものの、力強く走ることで改めてその恐るべきアルビノへの偏見や差別の解消を訴えた。読売新聞(9月2日夕刊・1社)や朝日新聞(同3日朝刊・1面)が大きく扱い、目を引いた。
将来像の示す
東京パラは9月5日、13日間の熱戦の幕は閉じた。国連広報センターによると、世界人口の約15%、約10億の人々が何らかのかたちの障害があるとされる。
日本は超高齢化社会を迎え、多くの高齢者が生活するが、老いると視力や聴力が衰え、足腰が弱くなる。年齢を重ねることで、「健常者」であっても徐々に「障害者」になっていく。もはや障害者は特別な存在ではなく、超高齢化社会を先取りする人たちで、障害に合わせた工夫や生きがいなど、将来像を示してくれているように思えた。(→続きを読む)
東京パラリンピックの期間中、米軍のアフガニスタンからの完全撤退、コロナ禍によるかつてない医療逼迫、菅首相の辞意表明など特大のニュースが相次いだ。
紙面や放送時間が窮屈になったこともあり、懸念された国威発揚につながるメダル至上主義報道に終始することはなかった。日本選手の活躍にのみフォーカスをあてた東京五輪報道に比べて、海外選手の活躍を多く報じたのも目についた。たとえば、毎日新聞がスポーツ面に「YOKOSO―世界から―」というコーナーをつくり、連日のように外国選手を紹介したのは、その一例だ。
東京五輪後の各種世論調査で内閣支持率が30%前後に下落、政権浮揚につながらなかったことで、菅首相のパラリンピックへの関心が急速に薄れていったようだ。政治の思惑に翻弄される場面が少なくなり、パラ選手の魅力や技術的な解説が充実し、五輪報道のあり方にも示唆を与えた。
一方、コロナの感染急拡大で原則無観客になったにもかかわらず、小中高生らが学校単位で観戦する「学校連携観戦プログラム」は実施され、「矛盾している」「子どもたちに感染リスクがある」と批判された。
パラ選手をリアルにみることは、教育効果が高いという判断のようだが、観戦時間は1時間ほどしかない。教室で解説付のテレビをみたうえで、ディスカッションなどをした方が、効果があったのではないか。観戦を辞退する自治体も続出、ここでもちぐはぐな対応が教育現場を混乱させることになった。
ツケは血税で
国家主義とならび五輪の宿痾ともいえる商業主義。巨額の放映権料を支払う米NBCユニバーサル(テレビ)の介入で、高温多湿の真夏の開催を強いられ、五輪アスリート以上に障害があるパラアスリートにとっては過酷なものとなった。
一方、コロナ禍の猛威によってスポンサー企業の活動は大幅縮小を余儀なくされ、たとえばトヨタ自動車は関連のテレビCMを自粛。当初もくろんでいた経済効果は大幅にダウンした。さらに東京アクアティクスセンターや海の森水上競技場、有明アリーナなどの新設の恒久施設には多額の維持費がかかる。ツケは最終的に国民の血税から賄われることになろう。
1964年東京五輪は、高度経済成長の真っ只中で開催された。現在とは状況がまったく違う。すでにある施設を再利用しながら、成熟したコンパクトな五輪・パラを開くべきだった。今大会を国家主義や商業主義を見直す機会にしたのなら、それが東京五輪・パラのレガシーにつながるのではないか。
言葉なき政治
菅政権は1年間ほどで崩壊、本誌が発行されるころには自民党の新総裁が選出されているだろう。菅氏は五輪・パラの開催意義について黙して語らず、コロナ対策についても納得できる説明をしなかった。国民を「なめる」かのような「言葉不在」の菅政治の行き着いた先が、今日の姿である。
政治学者の御厨貴・東大名誉教授は、「伊東博文以来、99代目の日本の首相でしたが、これほど無残な退陣劇はちょっと思い出せません。」「この1年、日本は首相が空席だったようなものです」(朝日新聞9月4日朝刊)と厳しい評価を下した。菅氏は首相に数えられないということだ。
政権選択につながる衆院選が控える。単に菅氏の後釜を決める選挙ではなく、第2次安倍晋三政権以降の約9年間におよぶ「言葉なき政治」への審判を下す選挙となる。
徳山喜雄
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年9月25日号