2022年02月08日

【寄稿】独立独歩の気概 今こそ「経済安保」で進む大軍拡 問われるジャーナリズム 堕落に抗い一から出直せ=斎藤貴男

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 2022年はどのような年になるのか。新聞・テレビなどの報道のあり方と、岸田政権が進める政策について、ジャーナリストの斎藤貴男さんに率直な思いを寄稿してもらった。
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 昨年暮れの12月27日、読売新聞大阪本社が大阪府と「包括連携協定」を結んだ。教育・人材育成、情報発信、安全・安心などの8分野で連携・協同を進め、地域活性化と府民サービスの向上を図りたい、と発表されている。
 思わず天を仰いだ。権力のチェック機能たるべきジャーナリズムの魂が、こうも簡単に売り飛ばされるとは。

広告催事狙いか
他紙も続く予感

 狙いは2025年大阪万博関連の広告・イベント収入の極大化、さらには先の衆院選で第二自民党の地位を確立し、関西では体制そのものになった日本維新の会との一体化か。もともと政権との蜜月関係を売り≠ノしてきた読売だけの話で済むならまだしも、他のマスメディア企業が後に続きかねない予感が悲しい。
 実際、当日の記者会見で、大阪府の吉村洋文知事も示唆していた。批判の真似事さえしないライバル紙、テレビ報道番組の音なしの構えが不気味に過ぎる。
 いや、カマトトぶりっ子はもう止そう。同様のことは昨年の「TOKYO 2020」でもあった。読売、朝日、毎日、日経、産経の全国紙5紙と北海道新聞が公式スポンサーとなって報道機関ならぬ五輪商売、および新型コロナ禍での大会に反対する世論を無視した強行開催すなわち民主主義破壊の当事者となった。IOCに莫大な放送権料を支払ったNHKと民放各局は言わずもがな。現在に至るもまともな検証報道ひとつ為されていない惨状も周知の通りだ。
 大阪府と読売の包括提携とやらは、この流れの延長線上にある。消費税批判を封印した新聞が、一方では軽減税率の適用を受けている特別扱いも想起されたい。ジャーナリズムの堕落は、来るところまで来ている。

監視社会の構築
軍事同盟への道

 2022年の日本社会は、「新しい資本主義」というキーワードで紐解くことができるのではないか。岸田文雄首相が自民党総裁選で語った「新自由主義の転換」が、いつの間にか言い改められた感がある。ともあれ彼の政権の目玉とされ、「分配」の重視を掲げる理念はリアリティに欠ける嫌いが目立ち、「アベノミクスとどう違うのか」と揶揄されがちだ。
 だが、そればかりでもないと、私は考えている。謳い文句とは裏腹に、あらゆる経済・社会政策を「経済安保」に収斂させていくことこそが、「新しい資本主義」の真意であるに違いない、と。
  経済安保の定義は多様かつ複雑だが、ある専門家の表現を借りれば、「経済を使った戦争」のことだ。はたして米中対立の激化につれて昂進しつつあるのも、とどのつまりは対中国包囲網の強化であり、新たな冷戦構造の創出に他ならない。
 内閣府に設置された有識者会議の委員の人選といい、早々に打ち出された提言といい、「新しい資本主義」は、国連で採択された「SDGs(持続可能な開発目標)」を多分に意識しているふうでもある。が、そのSDGsにしたところで、日本政府の「アクションプラン」に落とし込まれた途端、「働きがいも経済成長も」の項目が「society 5・0」を目指すデジタル成長戦略へ、「平和と公正」が「自由で開かれたインド太平洋の推進」へと変質してしまう。監視社会の構築や、日米軍事同盟と同じスローガンの、どこがSDGsであるものか。
 経済安保は「戦争」の一形態なので、必然的に大規模な軍拡を伴う。現在はGDP比で0・96%の防衛費を2%に引き上げると自民党が公約したのも先の衆院選。昨年末には、台湾有事の緊迫度が高まれば米軍が中台紛争への介入を視野に入れ、南西諸島を攻撃拠点にするという戦争準備計画まで明るみに出た。
 集団的自衛権の行使を認める安全保障法制(公称は平和安全法制)がある以上、自衛隊の参戦も不可避だ。住民が戦闘に巻き込まれるのは必定。11月の自衛隊統合演習に米海兵隊が参加し、沖縄を戦場に模していた所以である。
 憲法9条はすでに形骸化しつつある。それでも戦争を放棄し、国の交戦権を認めぬと定めた最高法規の意義は計り知れないが、その命脈もいつまで保たれることか。目下の状況と体制の下で改正≠ウれたが最後、「平和」の意味と私たちの生活は、根底から覆される可能性なしとしない。

系列放送の売却
収入増へ検討を

 以上はあくまで私見だ。とはいえ、台湾有事の兆しがあれば南西諸島が米軍の攻撃拠点にされるという、共同通信による年末のスクープが、ほとんど後追いもされていない現状は異様である。
 ジャーナリズムとは何のためにあるのか。人々を権力に都合よく操り、動員する道具でしかないのか。このままでは確実に信用を失い、本来の存在意義(レーゾン・デートル=ルビ)を奪われていく。
 私はかねて、主に新聞ジャーナリズムについて、再生に向けた6つの試案を提唱してきた。@権力へのオネダリ(軽減税率適用)取り下げA「沖縄面」と「福島面」の新設B発表モノ専門の通信社設立による本体の調査報道シフトC名誉棄損保険の開発D特定秘密保護法違反第1号の記者に賞金1億円と、懲役期間中の家族の生活保障、および出所後の大手新聞社社長ポストの確約、という形の「価値観宣言」がそれである(拙著『国民のしつけ方』など参照)。
 最近はさらにE系列放送局の売却も検討されてよいと考え始めた。必要十分な取材費を確保すると同時に、もはや権力の走狗以外の何者でもなくなった情報系番組を切り離す一石二鳥。
 決して極論ではないつもりだが、経営レベルの共感は得にくかろう。といって今や猖獗(しょうけつ)を極めるネットメディアに活路を見出そうにも、こちらは既存メディアにも増して経済的利益至上主義との親和性が高いときている。
 わずかに残された道は、ジャーナリストを自称する者一人ひとりの矜持(きょうじ)だ。組織人かフリーランスかの立場はどうでもいい。要は独立独歩の気概であり、支配の道具にだけは成り下がるまいとする鋼鉄の意志である。
 精神論と嗤わば笑え。時代に翻弄され、飼い馴らされた挙げ句、ジャーナリズムには最低限の矜持さえ失われつつある。
 これでは話にならない。背水の陣で、一から出直す必要がある時なのだ。
自戒を込めて――。
 斎藤貴男(ジャーナリト)
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2022年1月25日号



posted by JCJ at 01:00 | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする