「コロナ禍が明けたら、金沢とか北陸にでも旅行行きたいね」と、事あるごとに、妻とそう話していた。
2024年1月1日午後4時10分に発生した能登半島地震は、最大震度7を観測し、数多くの家屋が倒壊、さらには土砂崩れや津波などにより、200人以上もの命が失われるなど、甚大な被害を受けた。
このような大地震が発生すると、福島第一原子力発電所の事故による大災害が思い起こされる。
その能登半島の先端に位置する珠洲市にあった原子力発電所の建設計画が、住民らの反対運動により凍結されたと知った。
1975年に持ち上がった計画は、翌年公表。当初は、住民のほとんどが反対したが、関電側が住民の懐柔に動き、一人また一人と賛成に回り、地域は分断された。
その後89年5月に関電は原発建設に向けた現地踏査に乗り出すが、反対住民は市役所で40日に渡る座り込み抗議を実施、調査を中断に追い込んだ。それ以降も反対運動を続け、ついに03年12月に計画は凍結。阻止活動は実に28年にも及んだ。
未来の珠洲市の為にと、「国策」に抗い様々な苦難を乗り越え、凍結へと導いたこの住民運動がなければ、今回の地震で能登半島は想像もできないほどの大災害になっていただろう。
東日本大震災後に、仲間たちと「国策を問う」という観点から沖縄の基地問題と原発の問題を議論しあうシンポジウムを開いたことを思い出した。
あれから10年以上たつ今も自公政権は、「国策」の名のもとに、辺野古新基地建設を強引に進めている。さらには、先島諸島への自衛隊基地・ミサイル基地化を進め、日米の軍事拠点を狙う。
辺野古新基地建設を巡っては大浦湾側に軟弱地盤が見つかり、18年に沖縄防衛局が設計変更を県に申請したが、県は不承認としそれを国土交通大臣が是正を指示、県は国の違法な関与な関与に対し裁判を起こした。だが、不承認の正当性についての判断は示されず、昨年9月に最高裁で県の敗訴が確定した。それをうけ昨年12月に、国が代執行で県に代わって設計変更を承認、大浦湾側での工事が可能となった。
軟弱地盤に関しては、海底に7万1千本もの砂の杭を打つ計画だが、今回の大浦湾での90mの深さの改良工事は国内において実績がない。
いつまでも平和な島であってほしいと、今もな多くの県民が基地建設に対し反対の民意を示し続けている。未来のために反対し続けたあの珠洲市民のように・・・
「輪島朝市」は、地震直後に発生した火災で全焼し、復興までにどれだけの歳月と費用がかかるか見通せない。妻と私が描いていた姿は、今そこには存在していない。
国会は、自民党議員の裏金問題で紛糾、辺野古では、これから12年もの歳月をかけ、9300億円もの税金が注ぎ込まれていく。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2024年2月25日号
2024年03月08日
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