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「できるんよ、やろうと思えば」、瀬戸内海のハンセン病療養所で暮らす宮アかづゑさんの言葉だ。かづゑさんに出会ってから8年間にわたって撮影したドキュメンタリー映画「かずゑ的」が3月2日からポレポレ東中野などで全国公開に。監督の熊谷博子さんに映画に込めた思いなどを寄稿してもらった。
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瀬戸内海にある国立ハンセン病療養所、長島愛生園で、とても素敵で個性的な回復者の女性を8年間撮り続け、映画を完成させた。この3月から全国で公開される。
主人公の宮アかづゑさんは、10歳で長島愛生園に入所した。そして85年間をそこで生き、今年96歳になった。
2015年の夏、信頼する知人から、どうしても会ってほしい人がいる、と言われた。
自伝『長い道』
84歳で出版
その宮アかづゑさんの著書『長い道』(みすず書房)を読み、頭の4行で心うたれた。
世の中からいかにひどい差別を受けたかという訴えが、まずあると思っていた。だが、幼い頃、祖父母や両親を深く愛しており、「私という人間が与えた悲しみはとても深く、この四人の人生の晩年を大きな嘆きに陥れてしまった。それが悲しくて申し訳なくて、過ぎ去ったこと、などととても言えない。」から始まる。
生まれた村の貧しいが豊かな生活、島へ来てからの日々の暮らしが、瑞々しい筆致でつづられていた。後になり、かづゑさんは78歳でパソコンを覚え、84歳でこの本を出したのだと知った。
こうして私は、生まれて初めてハンセン病療養所を訪れ、生まれて初めて、ハンセン病の元患者さんに会うことになった。
部屋でお昼を一緒に食べて、話した。夫の孝行さんもいた。その場で、この夫妻の記録を撮って残しておかなくては、と心に決めた。
紹介者に伝えると、かづゑさんも「あの人ならいいわ」と。
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私が“ハンセン病素人”で、まっさらな状態だったのがよかったのかもしれない。
その1年後から、撮影を始めた。
思い込みでの
来訪者に憤り
かづゑさんはそれまで本を出してはいても、ハンセン病をテーマにした取材・撮影には一切応じてこなかった。“かわいそうなハンセン病患者”という思い込みで来る人々に憤りを感じていた。
らい予防法違憲国家賠償請求訴訟(1998〜2001)時の体験も大きかった。本に書いている。
島に大勢のマスコミが来て、家にきた記者に「なぜ出産したいと思わなかったのか」と詰問された。初めて会った人にどうしてこんなことを言われなくてはならないのかと怒りがこみ上げた。話していても、らい患者を自分の考える枠に入れて、それにあてはまらない答えは気にいらないようだった、と。
人間性消えず
心は健全です
最初に、なぜ今回、私たちの撮影を受け入れてくれたのか、を聞いた。
「本当のらい患者の感情、飾っていない患者生活を残したいんです。
らい患者はただの人間で、ただの生涯を歩んできた。らいだけで人間性は消えない。
心は病んでません。心は健全なんです。」
かづゑさんは、ハンセン病とは言わず、“らい”を使う。
らいは、神様が人間に最初からつけた病気だろうと思っているから、光栄だ。世界の文献にも出てくる最も古い病気であり、私は栄光ある道を歩いている、と言い切る。
その日、さらに驚くことがあった。明日は入浴だからお風呂を撮ってね、と。
「いい格好していては、本物は出ません。真実を分かるには、いいところより裏をとる方が訴える力が強いです。らいを撮るっていうことは全てを撮らなければ、私の身体って分かりませんでしょ」。
この初日のやり取りに、映画のエッセンスがすべて詰まっていた。
2日目、入浴シーンの撮影。かづゑさんの手の指はすべて失われ、右足はひざから下を切断し、また左足の先も失われていた。
正直に自分をさらけ出してくれるかづゑさんに対し、私たちも覚悟を決めた。それは私たちが試されることでもあった。
ここから8年の間、カメラとマイクを持って、かづゑさんと孝行さんの人生に伴走する日々が始まった。
映画の中には、夫婦の穏やかな日常も、おかあちゃんと声を出して墓に抱き着くかづゑさんの姿も、ネタバレになるから言えないが、奇跡のようなシーンが連なっている。笑いもあれば涙もある。
差別の中に
また差別が
「差別の中の差別」も語られた。
入園してすぐ、すでに重症であったかづゑさんは、軽症の子どもの患者からいじめを受ける。そして成長すると、かづゑさんのように、幼い頃から園内で育った人たちは、大人になり、社会を知ってからから入ってきた人から馬鹿にされ、侮蔑の言葉さえ投げつけられた。悲しいが、人間が持つている、差別の本質を表すような話だ。
救いは本と
お母ちゃん
救ってくれたのは、本とおかあちゃんだった。本を読み漁り、読書に没頭している間だけは、現実の世界を忘れ、別の世界で生きることができた。
死をも考えたが、来月おかあちゃんが来ると思ったら、それはできなかった。母は貧しい中で、年に2、3回、面会に来てくれた。他の子どもの親は、ほとんど面会に来なかったという。
かづゑさんの口ぐせ、「できるんよやろうと思えば」。撮りながら、どれだけ勇気と元気をもらったことか。そして一緒にいると、彼女の身体が不自由である事実を、すっかり忘れていることがよくあった。
ハンセン病のことは、差別と隔離の問題として描かれることが多かった。その中での人々の生活がほとんど伝えられなかったのは、回復者の方たちが、それを出すことで、さらなる偏見と差別が増すことを恐れたからだと思う。
かづゑさんの人生は、過酷とも言えるものだった。だが「ちゃん生きたと思う。どうでしょうか」と私たちに問いかける。その生き方は『かづゑ的』としか言いようのないものであった。
この映画は、ハンセン病が背景にあるが、それだけではなく、人が生き抜くために何が大事なのか、普遍的なことを描いたつもりだ。
そして私たちが、カメラでかづゑさんを抱きしめた記録でもある。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2024年2月25日号
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