「劣等被爆都市」。この夏、わたしはこんなフレーズを知った。社会学者の高橋眞司・元長崎大教授が2004年の著書『続・長崎にあって哲学する』で、長崎のことを表現したものだ。「被爆地長崎はいつも広島の陰に立ってきた」「世界の注目と脚光を浴びるのはいつも広島」と。だが、高橋氏が20年前に指摘したように、長崎は広島の陰になってきたのか。ときどき長崎も訪れながら広島で取材を続けてきたわたしはこの数年、もう一つの被爆地・長崎市の姿を見るにつけ、「平和都市」広島市の平和行政に対して疑問を抱いてきた。
広島と長崎の違いを感じ始めたのは、2017年夏だった。122カ国の賛成によって国連で核兵器禁止条約が採択された翌月の原爆の日、広島の平和宣言は、外務省界隈の常套句「橋渡し」に引っ張られた宣言しかできなかった。だが、長崎は違った。「核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません」と日本政府の姿勢を鋭く批判した上で、唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指せと、明確に求めたのだ。その後安倍晋三首相(当時)と被爆者団体の面会の際には、こんな言葉が被爆者から飛び出した。「あなたはどこの国の総理ですか」
「怒りの広島、祈りの長崎」と言われてきたが、果たしてそうなのか――。思えばこの頃から、わたしは首を捻り続けている。国がどうであれ、被爆地には被爆地の考え・主張があるという信念は、少なくともこの数年、むしろ長崎市からしか見出せない。そしてその思いは今年、確信に変わった。それはパレスチナへの攻撃を続けるイスラエルを、平和式典に招待するか否かで、広島・長崎の態度が鮮明に分かれたからだ。
広島市は、例年通り招待した一方で、長崎市は招待を見送った。理由は政治的なものではなく式典の平穏のためだとしたが、公式的な説明はさておき、この判断の前段階として、外務省との協議を経て、広島・長崎ともに2022年以降ロシアを不招待としてきたことが布石となっていることは想像に難くない。
広島市の説明はこうだ。ロシアを呼ぶと、式典で自分たちの主張をほかの国に押しつける可能性があるが、イスラエルを招待してもその心配はない――。この説明とともに、広島市は前代未聞の強硬手段を打ち出した。式典を安心安全に挙行するため、式典会場のみならず平和記念公園全体に式典の前後4時間規制をかけ、さらにはゼッケンやプラカードなどの持ち込みを禁止したのだ。
ちなみに、日本政府が国家承認していないパレスチナについては、長崎市が駐日代表を2014年以降招き続けている一方で、広島は招いていない。米英仏らG7諸国は、イスラエルを招かないなら我々も行かない、と長崎市に圧力をかけたが、長崎市長はそれでも方針を変えなかった。結果、各国は長崎の式典をボイコットした。異例の展開によって、誰もが考えざるを得なくなった。被爆地は、なんのために、原爆の日に平和式典を開くのだろうか、と。
2016年、オバマ米大統領(当時)は広島を訪問したが、長崎は立ち寄らなかった。2023年、広島でG7サミットが開催されたが、首脳らはやはり長崎に足を伸ばさなかった。「優越被爆都市」広島は、それらの政治イベントによって何かを得たか。原爆投下国のオバマ氏が原爆投下を「死の灰が降ってきた」と他人事のように語ることを許し、G7各国が核抑止論を堂々と主張することを許しただけではないか。被爆地の叫びを封じてでも、核兵器を手放すつもりがない、大量虐殺を辞めるつもりもない政治家たちを招き入れたことで、平和式典の意味を歪めてしまった。それが、核兵器保有国に追随するばかりの日本政府と一体化し、国家主義にとらわれてしまっている広島の哀れな姿だ。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2024年8月25日号
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