2025年04月26日

【好書耕読】 地獄から6万人を救った男=鈴木伸幸(東京新聞編集委員)

 ちょうど80年前、太平洋戦争終結の1945年8月15日、日本の降伏で無法地帯となった朝鮮半島に思いをはせてみる。米軍が入った北緯38度線の南は早期に落ち着き、在留邦人は帰還の途につけた。問題は北だ。
 日ソ中立条約を破棄してソ連軍が侵攻し、南北間を封鎖。残された約25万人の在留邦人を待ち受けたのは、国際法無視のソ連兵による暴力、略奪、そして陵辱だった。食料はない。故郷に帰れる見込みもない。何万人もが飢えと疫病コレラに倒れた。

 この生き地獄に手を差し伸べた男がいた。進駐したソ連軍司令部の嘱託職員・松村義士男だ。終戦3カ月前に33歳で日本軍に召集され、一時はソ連軍の捕虜となるも脱走。朝鮮での建設会社勤務が長く朝鮮語と中国語を使えたことから、混乱に紛れてソ連軍に潜りこんだ。
 その松村が「日本人が死に絶える」とソ連軍や朝鮮側と粘り強く交渉し、南へ集団脱出させようとした。自らの命を危険にさらしながらルートを切り開き、多額の借金までして約6万人を送り出した。

 城内康伸『奪還─日本人難民6万人を救った男』(新潮社)は、後に「引き揚げの神様」と呼ばれるようになった松村の評伝である。北朝鮮報道で世界的スクープを連発した元東京新聞記者の著者が、元避難民や文献を捜し出し、埋もれていた事実を明らかにした力作である。
 単純な比較はできないが、避難民といえば約6千人のユダヤ人に「命のビザ」を発給した外交官・杉原千畝が知られる。松村は、その十倍もの命を救いながら、あまりにも無名だ。「義士討ち入り」の12月14日に生まれ、義士男と名付けられた松村は戦前、労働運動に参加したことで弾圧され「アカ」と白眼視された。

 帰国後は集団脱出で使った借金返済に苦しみ、失踪して55歳で病死。戦後80年、日韓国交正常化60年の今年、本書は「究極の利他」を実践した松村への供養にもなる。
            
本.jpg
  
posted by JCJ at 02:00 | TrackBack(0) | おすすめ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック