2025年07月01日

【月刊マスコミ評・新聞】原発の事故責任を問わない司法とは?=白垣 詔男

 東京電力福島第1原発事故で、元役員らの賠償責任を否定する判決を6月6日、東京高裁が出した。1審判決を取り消した。東電の株主約40人が旧経営陣ら5人に対し、23兆円を東電に支払うよう求めた株主代表訴訟で、原告側は逆転敗訴≠オた。株主の1人の女性遺族が判決後、記者会見で涙ながらに「悔しさ」を訴えていたのを見て、胸が痛んだ。

 この判決について各紙は、朝刊社説で取り上げた。
読売、産経を除く朝刊各紙は「甘い判断、問わぬ理不尽」(7日・朝日)、「不問にできぬ事故責任」(10日・毎日)、「過酷事故の責任どこに」(12日・西日本)の見出しで司法判断を断罪≠オている。
 「司法は取り返しのつかない被害を正面から受け止めているのか。疑問を禁じ得ない」(朝日)、「人々の暮らしや故郷を壊した社会的責任を不問にすることはできない」(毎日)、「すぐに原発の運転を止め、事故防止策を取らねばならないほど差し迫った事態でなければ、対策を先送りして事故が起きても責任は問われない―。国民感覚と懸け離れた司法判断と言わざるを得ない」(西日本)―国民の意識に沿った、もっともな主張だ。

 これに対して読売は「賠償13兆円が一転してゼロに」(7日)の見出しで「原子力発電所の事故は仕方なかったでは済まない」と「自己主張」するだけで「司法批判」は何もなく、「巨大な地震と津波は、人知を超えていたという評価だろう」と人ごとのように書いている。産経は「原発事故の防止へ全力を」(10日)の見出し、「一転して旧経営陣の法的責任を認めなかった。妥当な判決である」。

 最近の司法(それも上級審)は、原発など政府が推進する政策について、原告の主張を排除して、国の主張に沿った判断が目につく。「三権分立」が名ばかりの司法に成り下がってしまっていると感じることが多い。「国民感情」を全く考えないで、「四角四面の法解釈」をよりどころに、判決を出す審理が目につく。今回の司法判断が、その典型だろう。

 裁判官は、法律とは不即不離と考えられる「国民感情」に寄り添わなければ、ぎすぎすした社会の風潮は改善しないのではないかとさえ考えてしまう。
          JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2025年6月25日号
 

posted by JCJ at 01:00 | TrackBack(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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