戦争の暗雲が世界を覆い始めた。その雲の背後には核兵器の姿が見え隠れする。これが戦後80年の現実である。「被爆復興80年」を掲げた被爆地・広島も例外ではない。被爆地の行政が、率先して戦争への道づくりを先導し、「平和都市」の内実を掘り崩す。この間、広島で続いた「平和」の変質は目と耳を疑うばかりだ。それに抗い、修正して「平和」に繋がる軌道に立ち戻るにはどうするか。その力の源をどこに求めれば良いのだろうか。
市民を締め出す
5月23日、広島市は今年8月6日の平和記念式典の開催要項を発表。今年も、昨年から始めた当日の「平和公園入場規制」実施を打ち出した。
式典開催の前後4時間にわたる公園の全面封鎖、禁止行為の排除・チェックを名目とした手荷物検査など、規制がもたらす孕む問題点を改めて、新たな視点から指摘する。
広島「平和宣言」は、米軍が原爆を投下した8月6日8時15分、その瞬間に、被爆地広島のシンボル「平和公園」から世界に向けて発信される。
9か国語に翻訳され、世界の大きな注目と関心を呼ぶ「平和宣言」の発信は広島市長が担う。しかし、それは誰のものなのか。現状は、広島市長の職にある一政治家の個人的な「宣言」と化してはいないか。私たちは懸念している。
長崎市は開放的
私たちは広島「平和宣言」は市民の意思の発信であり、市長はその公的発信者と考える。もちろん市長は選挙で選ばれた市民の代表だ。その市長が公的な式典で発する宣言は「広島市民の『平和宣言』だ」との見方は承知している。だとすればなおのこと、「平和宣言」には、広島市民の意思が可能な限り反映されることが求められる。
だが、毎年「平和宣言に関する懇談会」が設置され、座長である市長が7人から意見を聴取するとなっているが、7人の選任過程も懇談会も非公開。どんな意見が出たか、誰がどんな意見を述べたかも不明、そこで出た意見が宣言に反映されたのかどうかも知らされない。あまりにも閉鎖的だ。
それは、長崎市の宣言づくりと比べれば、よりはっきりする。
長崎の「平和宣言」は、15人からなる「宣言文起草委員会」での公開討論を経て起草される。
会議は取材陣に公開されるだけでなく一般市民にも公開され、議論のポイントもそのつど報道される。「宣言文」にどんな意見がどのように取り入れられたのかが市民にわかるのだ。
広島、長崎2つの平和宣言のレベルは、推して知るべしだろう。
行政はおかしい
唐突に始まった入場規制の結果、昨年は原爆ドーム前広場で8時15分きっかりに、米国の原爆投下に抗議し、核兵器の廃絶を求める市民の「ダイ・イン」行動が公園から締め出された
昨年、原爆ドーム付近で8時15分に、核兵器禁止条約への日本政府の参加を求め、ウクライナとガザでの戦闘・住民虐殺を一刻も早く停止することを求める市民の集いを開こうとしたJCJ広島支部メンバーの「表現の自由を守るヒロシマの会」も公園の使用を不許可とされた。今年も公園使用を申請したが、市の「平和式典の概要発表」と同じ日付で、使用不許可の通知が届いた。
平和記念式典の実施エリアは、平和公園内のごく一部だ。市が公園全域を独占使用する理由は、どこにも見当たらない。これでは市が市に使用許可を申請し、それを許可することで、市民の自由な意思表示を封殺する茶番ではないか。市民の表現活動が制限されているのだ。
そもそも平和公園は、市民の誰もが自由に出入りし、憩うための「都市公園」だ。さらに「国際平和文化都市」の象徴として国内外から多くの人が訪れる。
爆心地にある公園は園内に原爆犠牲者を悼む多くの碑、平和を祈念する塔などが立ち並ぶ。世界遺産の原爆ドームはそのシンボルで、「8時15分」に、世界にヒロシマの声を発するには最もふさわしい場所だ。
式典会場から遠く川を隔て、式典運営に何の影響も与えないこの場所での、市民の表現活動をなぜ認めないのか。
広島で起きているのは紛れもない表現・言論・集会の自由などの人権抑圧だ。私たちには、この80年のヒロシマの歩みを振り返り、その原点ともいうべき思想をつかみ直して今に生かし、立ち向かうことが必要なのではなかろうか。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2025年6月25日号
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