2026年02月06日

【リレー時評】「戦後民主主義」を日常に取り戻す=山口昭男(JCJ代表委員)

 「戦後80年」が過ぎて、改めて「戦後」について考えている。昨年8月9日のJCJシンポジウム「戦後80年――私たちは今どこにいるのか」で、私は「戦後」はもはや「同時代史」から「歴史」になったとお話した。
 「戦争の記憶」は生々しくなくなり、加藤周一の言う「戦争による死者への『負い目』」はなかなか共有されにくくなっている。日々の生活に追われているうちに国が大きく動いている。
 日高六郎は1970年代半ばに「かつての日本軍国主義の指導は『無責任の体系』と呼ばれた。いまは平和の時代のなかでの「無責任の体系」が進行している」と記した(『戦後思想を考える』岩波新書)が、いま三たび「無責任の体系」がまん延してきているのではないだろうか。
 「戦後」が冷戦終結の1989年で終わり、2020年代に入って世界中が浮足立ち、「戦後」後が、いま終わろうとしている。それでは「戦後後」の次は、どのような時代になるのか。「戦前回帰」なのか。考えるヒントの一つとして、「戦後民主主義」に着目したい。

 この言葉は、おさらいをすると「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義など、戦争の反省から生まれた新しい社会秩序の在り方を示す」言葉と言ってよい。その象徴が日本国憲法である。代表者として、丸山真男、加藤周一の名前がまず挙がるように、その根底には近代民主主義の思想、価値への信頼がある。
 しかし「戦後民主主義」をただ唱えているだけでは、回顧するだけでは意味がない。憲法にしてもそうだ。当たり前のことだが、護憲とは憲法の逐条をただ護るということではなく、その価値観を尊重することにある。80年前、私たちがたどり着いた「戦後民主主義」とはそういうものだったはずである。
 赤川次郎は「戦後生まれの私にとって、『戦後民主主義』はスローガンではなく、日常生活の一部として、そこにあった――はずである」と書き、また原一男は「私の生きてきた軌跡全てが、戦後民主主義的なる価値観によって突き動されてきたという感じがある」と書いている(『私の「戦後民主主義」』)。

 だがいま、「戦後民主主義」はとても「日常」とは言えなくなっている。10年前「戦後レジームからの脱却」を掲げていた安倍晋三政権によって、集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案が成立した。そのときにはSEALDs(「自由と民主主義のための学生緊急行動」)など、若い世代が抗議の声を挙げたが、今回そうした声は残念ながら大きくなっていない。
 いまでは逆に若者の高市内閣支持率は高く、「スパイ防止法案」を推進しようとする政党が力を強めている。国際法を無視したトランプ大統領の横暴、プーチン大統領の独善が続くなか、日本は大きな役割を果たせるはずなのに、現政権の行き方は歴史に逆行しているとしか思えない。
        JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2026年1月25日号 
              
posted by JCJ at 02:00 | TrackBack(0) | <リレー時評> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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