2008年03月15日

日銀総裁人事の迷走と、メディアと政治の「大局」観

 日銀総裁人事は、与党自民党の幹事長の伊吹氏が、野党が武藤案に従うのは当然という強引な姿勢をとることで暗礁に乗り上げたようにみえる。衆院での予算案の強引な採決が、野党の姿勢を固めてしまったのはいうまでもない。

 その後も伊吹幹事長は、そうした自民党自らの強硬姿勢を棚に上げて、国会の一方で「権力を手にした」野党の無責任を標榜しているようだが、まだおわかりになっていないようだ。日銀総裁人事は政府案件である。自公与党が連立して構成する福田政権が国会に案を提示しているわけだが、それにしがみついてバトルに引きずり込んできたのは、自民党幹事長の国会運営や場外発言のまずさである。それがまず、衆参それぞれの多数勢力の対応の違いを生んでいる。

 さらに、衆参の議院運営委員会は、日銀正副総裁候補の所信聴取を行ったが、元財務事務次官だった武藤総裁候補の原稿棒読みの態度、大蔵―財務省のリーダーとしてまた日銀副総裁としてとってきた政策についての説明からは、役人的態度が立ち上るだけで、国民生活全般についての配慮や使命感を有しているのかどうかは伝わらなかった。これも政府・与党の人事案の軽さを浮き彫りにしただけだった。

 その姿が、反憲法姿勢を打ち出して、長期にわたり国民生活を蹂躙してきた自公政権のやり方とダブるのは当然であろう。財務事務次官から日銀副総裁へと歩んだキャリアや、それをめぐる政府と日銀をめぐる構図も、「日銀の独立性」を疑わせるに十分なものであり、武藤氏の副総裁5年間に特にそうした足跡がみられるかどうかの問題ではないのである。

 自公政権・与党は、なぜ、「チキンレース」(東京新聞)のような状態に突っ込むことになってしまうのか。昨年の参院選の結果をうけ、自公与党は、「話し合いを大切に」することにしたのではなかったのか。国会における衆参それぞれの勢力の違いは明白であるのに、それを無視して与党の論理、数の論理(小泉郵政衆院総選挙で獲得した多数=そのまま自公内部で政権たらいまわし)で押し切っておきながら、野党の拒否・反発を食うと「野党は政治をわかっていない」と喧伝しようとする。腹の底がみえみえの田舎芝居に走るから、なおさら混乱を広げるのである。あれは、だれかシナリオを書いている人がいるのだろうか。

 これまでのところ自民党の伊吹・大島コンビが不要なバトルをしかけては、修正を余儀なくされるというドタバタの張本人のように見える。あえてそういう役柄を配置した結果なのか、それとも自民党は、幹事長や国対委員長に配置すべきまともな政治家を残していないのだろうか。

 あまりに低次元な話で怒りを禁じえない。
 だがその一方、政治や経済のこととなると、目先のことだけを論じがちなマスメディアの旧態依然の体質も、そうした三文芝居に一役買ってはいないだろうか。まだ政治報道の「劇場」化を卒業していないのだとすれば、早急に21世紀突入後の過去を反省して態勢を立て直すべきであろう。

 もしも、さらにそれ以前の「永田町業界紙」レベルの政治報道を正しいと思い込んで、それにしがみついているのであれば、まずは社内の風通しをよくし、社内の民主化と読者・市民のアクセスの自由について話し合うところから始めねばならない。メディア人、ジャーナリストは、自身の担当する記事だけでなく、常に自身が所属する媒体を広くチェックしておくべきだろう。できるだけ他社・他者・他部署の報道姿勢についても追っておくべきだと思う。

 この件では、「与党も悪いが野党も悪い」式の姿勢でその場を濁そうとする社説・論評の類が目立った。腰の定まらないその場しのぎの論評の姿勢が、政治部や経済部の取材・報道姿勢に妙な影響を与えていないかも不安になる。その逆も真なりで、報道・論評とも負のスパイラルに陥る構造を依然かかえているメディア企業も少ないとはいえない。マスメディアの取材・報道のありようの根本的な変革が求められるなかで、論じる側の無責任や責任逃れから生じてくる、深みのない「与党も悪いが野党も悪い」式の記事。それがまだまだ安易に流れ出てくる。その結果として形成される日本の情報環境にふれて、日本のメディアの先行きを憂慮するのは私ばかりではないだろう。

 政治に緊張があるのはとてもよいことである。とくに21世紀初頭における自公政権が、戦争を志向し、それにまつわる腐敗と崩壊をさらけだしているいま、基本的に「チキンレース」の状態に入っているのは健全なことである。政治により健全性を求めるには、昨年の参院選の結果をうけて、自公政権が総選挙で国民の信を問うべきところである。その大状況に変わりはない。しかし自公政権は、それをひたすら回避し、「人気」を回復してから総選挙に打って出て正統性を継続しようともくろんだままでいるから、話はよけいにややこしくなっているのである。

 日銀総裁の選出をめぐる混乱も、「富国強兵」を標榜して護送船団方式を貫いてきた日本の国としてのかたちを、根本から見直さなければ、本当のところは落ち着かなくなっているのかもしれない。民衆を見下して独りよがりに政府が主導し、ただ兵力・財政経済政策ともに護送船団を組んで、勢い込んで海外に突進してきたさまを、21世紀に生きる私たちは深く反省しなければならない。

 だが21世紀初頭の日本政治の現実は、それとは逆の方向へと進んだ。内容を伴わず「掛け声」だけ威勢のよかった小泉政治は、国民生活の崩壊、政治の崩壊を招いてきた。安倍政権はそれをさらに貧困なる政治のど壺へと誘った。自公政権のお歴々は、自分たちが進めてきたおかしな政治のツケを払わねばならないのである。市民の手で断罪されねばならない。そこから逃げ回って、自分だけは違いますと言い逃れるすべをいつまでも捜し求めても、そのような抜け道は存在しないのである。

 いや、だからこそ年金制度崩壊など深刻な失政隠しのために、ブッシュの戦争路線、弱肉強食のネオコン路線へと突き進んできたという側面もあるだろう。その破綻が公衆の面前にさらされるや、早くもその責任を機会あるごとに、他の政党や政治家のせいにしようとするわけである。

 自民幹事長・伊吹氏、国対委員長大島氏のこの間の対応、文言などからは、自民党が最後まで負うべき責任政党としての矜持のかけらも感じ取ることができない。実に浅薄なものにとどまっている。日銀総裁人事案も、もっと早く出し、国会で21世紀における「日銀」についてたっぷり検証を加え、深みをもたさねばならない時期である。武藤氏が適任かどうかなどという従来型の表面的な問題ではなくなっているのだ。

 これは政治の劣化か、官僚の劣化か、メディアの劣化か。あるいはそのいずれもが、旧態依然とした「国の仕組み」に乗っかったままであるのために時代対応できずに、いまをむかえているのだろうか。

 ブッシュが起こした危険な「チキンレース」は、世界中に害毒をまき散らし、そしてまるで最後っ屁のように「サブプライムローン」問題を世界経済に吹きかけた。世界中に不幸と悲惨をまき散らしたブッシュの戦争で得をしたのは誰か。汚れた金で腐敗し驕りたかぶっているのはだれか。

 ブッシュがお別れパーティでタップダンスを踏んでみせる時期を迎えている。この時期、ブッシュがやり、破綻したネオコン政策とは明確に異なる、平和と共生のための世界経済の仕組みづくりが急務となっている。求められる21世紀型の構造変革とは、根源的に構想力の乏しい小泉型の「改革」どころではない。もっと凛々しく、地球社会全体にとって意義のある変革が求められている。私たちはそのためにこそ、知恵を寄せ合わねばならない。

 ブッシュの政策に追従した日本の政治も経済も、その責任から逃れることは出来ない。日本だけ例外とはいかないのである。戦争路線に追従する一方で、財政的縮小均衡のみを追求し、結果、縮小再生産・負のスパイラルに陥らせてきた責任をどのようにとるのか。政府―財務省は重大な責任を負っている。日銀は、自公政権の路線から本当に独立した足跡を歩んだのか、日本の中央銀行として、世界で果たすべき役割とはなにか。いま変わろうとしている地球経済に、どのような姿勢と方針でかかわるべきなのか。それを問われているのである。

 伊吹流が演出する狭矮な主導権争いの構図(基本的にはすでに腰が引けている=日銀総裁人事ごり押しは下野後対策か)ほど、いま日本社会が必要としている議論からほど遠いものはないだろう。福田首相も平静を装い、他人事のような対応をしているが、そのような思考停止状態をつづけているだけで、日本の未来が開けてくるわけではない。そのことを忘れてはほしくない。森首相からはっきりとはじまった自民党の凋落。小泉、安倍でその流れはくっきりと浮かび上がった。それを反省し、根源から変えない限り、自民党再生のチャンスは訪れない。福田首相は、たとえ小泉、安倍両氏よりは「まし」だとしても、それでは党に所属する政治家や政権政党としての再構築の足がかりを得ることはできない。

 はっきりとブッシュの戦争追従路線と復古改憲路線を否定し、「21世紀型の日本社会を日本国憲法に則ってゼロから構想しなおします。それにはまず、自公政権が政権を降りて反省の意を国民に広く示すことから始めたい」―パフォーマンスをするなら、誠意と内容を伴ったものでなければならないだろう。その意味で、福田氏には、自民党の再生当たって、日本のゴルビーと評されるほどの「革命的」なリニューアルの精神と勇気が求められる。それに応えることができなければ、自民党はこのまま伊吹・大島組がさらけだしている水準のまま水没していくほかなくなるのではないだろうか。

 前述したように、ともすれば永田町業界紙へと堕してしまいがちなのが、日本の政治・経済報道である。
 いま、日銀人事をめぐる報道はどうだろうか。論じられている内容のほどは、どうであろうか。国としての質、目線はどうだろうか。高いか低いか、広いか狭いか、縦横に思考され、多角的に検証される必要がある。中央銀行総裁の「人物」は、別に首相や閣僚よりも優れていて問題はない。小泉―安倍―福田と、「変人」を頭に推移してきたのは事実なのだから、せめて日銀総裁くらい、という痛切な願いをメディアや市民が抱いたところで、不思議ではないだろう。

 まして目配りの広さ、深さを求められるのは、なにも日銀総裁候補だけではない。メディアだけではない。野党だけではない。最もそれを資格要件としてそなえていなければならないのは、与党の政治家であろう。首相や閣僚についている人は当然、政党の幹事長がそれを欠いていて済む話ではないように思う。

 トコロテン人事が停滞して困るのはだれか。信用を失墜するのはだれか。にもかかわらず、ぎりぎりで出してきて拒否すれば野党の責任と言い放っているのはだれか。議論を時間を与えず、候補の差し替えもやらず、「国際的な信用が」などといいながら、独りマッチポンプを繰り広げているのはだれか。政府・与党は自らの政治の劣化を検証する能力さえない状態のようにしかみえない。独りよがりに暴走しては壁にぶち当たり、大げさに野党を批判して混乱の責任をなすりつけようとする。それでも国民をだませないことがわかると、文句をいいながらしぶしぶ少しだけ軌道修正する―。福田政権以前から、ずっとこの繰り返しである。ずいぶんと、恥ずかしい「国」へと堕してしまったものである。

 市民との乖離、離れた距離はもはや計り知れないところになっている。その「政治」に引きずられていれば、メディアもまた市民社会の実像と乖離してしまう。要注意である。

 予算は素通り、日銀人事は時間切れですませようとする与党のやり方に、まったをかけるのもジャーナリズムの役割であろう。国としての意思決定の仕組みの問題であり、意思決定のプロセスの問題であり、ひいては日本の人材の問題である。武藤案を提示する側は十分なアピールをしたのか非常に疑わしい。政府の案なのだし時間もないのだから、文句を言わずに飲めという姿勢こそメディアは問題にすべきではないか。

 案の提示理由を検証するより、反対理由をより厳しく問おうとするような論調をかかげるようなメディアは、相変わらず護送船団・日本丸に乗り込んだまま、本質的には「他人事」「事勿れ主義」に毒されていると判断するほかなくなる。

 自公政権は、メディアを規制するための指針や法案・法制を通じてさまざまに圧力をかけてきた。メディアをムチとアメで縦横に操り、メディア本来の使命であり存立基盤である「公権力チェック」のフィルターを曇らせようとしてきた。実に長い時間をかけて、社会システムの部分からジャーナリスト個々の琴線を左右する微細な部分にわたるまで、実にきめ細かく「マスコミ対策」の網の目を張り巡らし、自分たちに都合のいいようにメディアのつくりかえをおこなってきた。

 マスメディアは、9・11前後からずっと、自公政権の「マインドコントロール」下から抜け出せない状態が長く続いた。すっかり立ち直ったかのようにみえるメディアであっても、まだまだその体内には、時間と手間隙をかけて築き上げられたメディアコントロールの仕組みをきっちりと残している。年度末から洞爺湖サミットへと向かう報道姿勢をチェックすることで、メディア各社の基本姿勢を見分け、ブッシュ後の世界をリードする論を張れるメディア企業なのかどうかを見極めていくことができるように思う。市民とジャーナリストはさらに連携を広げ、「メディアを国民のものに」する取り組みを強める必要があろう。

■各紙社説の論調

 日本経済新聞のきょう(13日)の社説「日銀総裁の空席回避が日本の責務」は、日銀総裁人事をめぐって私たちが共有する時代状況を「世界の金融が不安の連鎖の瀬戸際にあるのに、日本の参議院は政府の提示した武藤敏郎日銀総裁案を否決した。米欧の主要中央銀行が緊急の資金供給策を発表したとはいえ、米国発の国際金融危機は深刻だ」と提起して、「日銀総裁の後任人事を早急に決めることは、日本の国際的な責務である」とした。

 その上で、「日本はサブプライム問題の直接の影響は小さいとはいえ、ねじれ国会の下で福井俊彦日銀総裁の後任人事が暗礁に乗り上げている」と現状を指摘し、その情況は「危機の歯止め役になるどころか、余計な不安材料を加えるようなありさまだ」として、「政治は金融危機の実態を見据え、国際的な責任を果たすよう動くべきだ」と提言している。

 読売新聞は、「野党、とくに民主党は、しっかりと責任意識を持って、事態打開のための与野党協議に応じるべきだ」と提言、「総裁候補の安易な差し替えは、日銀総裁の信認を損なうことにならないか。そんな点も含め、冷静な判断を求めたい」とした。

 産経新聞は<政府側は「武藤総裁」案が不同意となった後も、同じ案を再提示することを検討している>として、それを「当然である」という。理由は「ベストのものとして出した以上、差し替えることは自己矛盾につながる」というのだが、その本音は「武藤氏の昇格を断念した場合、きわめて重要な人事案件で野党の拒否権を認めるという前例を残す結果にもなりかねない」と自ら露呈した。「重要な人事案件で野党の拒否権を認めるという前例を残す」ことは、避けねばならないので、政府側が「武藤総裁」案を再提示するのは当然のことだ、と政府与党のちょうちんをもっているだけの話であるようだ。

 比較的整理され、わかりやすかったのは北海道新聞の12日付の社説「日銀総裁候補 与野党とも説明不足だ」であろう。見出しから心配されるような、与党も悪いが野党も悪い式の社説ではない。同紙の指摘は以下のとおり。

1)総裁候補の武藤副総裁は元財務事務次官らしい、そつのない所信表明をおこなったといえるが、メモを棒読みする姿には、国際会議などで各国代表と当意即妙のやりとりができるのか不安も残った。
2)その後の質疑では、超低金利政策の評価について「問題はあったが、当時としては低金利と公共投資の拡大は正しい判断だった」と答えた。超低金利政策は景気対策としては一定の効果があった半面、家計に与えた影響は極めて大きい。副総裁という立場からも、こうした痛みへの言及がもっとあってしかるべきだったろう。
3)福田康夫首相は「ベストの人選だ」と繰り返すが、これではさっぱり分からない。なぜ武藤氏でなければならないのか、野党の批判にもしっかり答える必要がある。
4)民主党も反対するなら、その理由をていねいに説明してほしい。副総裁就任時に反対したので今回も反対だとか、財政と金融の分離が不可欠だとかいった主張だけでは、国民の理解を得ることはできない。
5)与野党は説得力ある説明をしなければならない。それにしても、この問題についての政府・与党の対応はあまりに強引すぎないか。
6) 総裁の任期切れぎりぎりになって政府案を出してきて、それが認められず空席になったら野党の責任だと迫るのは筋違いも甚だしい。早い時期に提示していれば、こうした事態は避けられたはずだ。
7)自民党の伊吹文明幹事長がNHKの番組で「国内、国際市場は武藤氏が総裁になり、金融政策が粛々と行われることを織り込み済みで動いている」と発言したのも、理解に苦しむ。何を根拠にそうした発言をするのか。これでは初めから武藤氏以外は検討の対象にもならないといっているようなものだ。
8)福井俊彦総裁の任期は十九日で切れる。このまま対立が続き、空席という事態になれば、国際的な信用の失墜を招くことにもなりかねない。残された時間はわずかだ。与野党とも感情的な対立を続けるのではなく、冷静かつ徹底的に議論してほしい。

 福田首相が安穏と「ベストの人選だ」といいつづけるのは日銀総裁は閣僚ではないからだ。つまり党と政府のシステムに則って進めているにすぎず、自身の役割・課題であるとは思っていないということなのだろう。だが残念ながら、福田首相のそうした姿勢は、この件に留まらないでのある。C型肝炎訴訟でも、イージス艦衝突事件でもいかにも立ち上がるのが遅い。

 政府の要職にある場合において、自らの立場を不用意に踏み外さずに、かつ必要なリーダーシップを発揮すべきことが起きた際に、的確なスタンスをとれない。首相や閣僚としてスマートに対応できない。これがいまの自民党政治の実態であろう。そこには政権に狎れ、政権ずれした姿をみることができる。その上、地盤・看板・カバンを引きついだ世襲や身内の構造があり、政治家としての信念や理想やビジョンではなく、「選挙に勝つ」ことを最優先する支援組織の構造を引きずっている。

 そこから「でもしか」政治家が多数出てきていておかしくないのである。そういう人たちが、日銀総裁など要職の実質的な決定権を奪われまいとして動く。その姿は、あっけにとられるほど自然過ぎる帰結である。そしてこれは、前述の産経新聞の「主張」とも符合する。日本の中央銀行総裁を決めるうえで、何を最重視するか。それが、自民党がもつ(と勝手に思い込んできた)「要職の実質的な決定権」を野党に奪われないことであるなどというのでは、もはやいうべき言葉もみつからない。これでは、参院選の大敗をうけて退陣はおろか、解散総選挙の決断さえつけられないのも無理はないのである。

 日銀総裁人事で、時代は何を要求しているか。自公政権の面子だの、決定権の死守だの、往生際だのの話ではないことだけは、はっきりしている。

 西日本新聞は、日銀総裁の資質に目を向けるべきであると提起している。「日銀総裁に問われるのは、出自より金融政策のかじ取り役としての資質であり、今後どんな金融政策を取るかだろう。財務省出身だから駄目、と決め付けても、国民への説得力は弱い」としている。

 その立場から、民主党の対応を<「まず反対ありき」と受け止められても仕方あるまい><日銀総裁人事が政争の具になっている>と指摘し、与党は、<野党に参院の多数を握られている現実を考えれば、もっと早い段階で人事案を示し、野党との接点を探る努力をすべきではなかったか。武藤氏の昇格案ではなく、野党の同意が得られそうな人選をする余地もあったはずだ>という。

 同紙社説は、「福田首相はそれでも武藤氏昇格案にこだわるのか。一方の民主党は、政府が今回と同じ案を再提示した場合、再び否決するのか。互いに大局観が問われる」と締めくくっているが、与野党に大局観を問う姿勢は、日銀総裁の「資質」と「今後の政策」を重視する立場から出ていることを読み取っておきたい。

 伊吹自民幹事長を舞台回しに繰り広げられている今回のドタバタの本質は、まさに「資質」と「今後の政策」を問えない、問おうとしない与党の現状に起因するものだからである。「日本の金融政策の司令塔ともいうべき日銀トップが空席になる異常事態」(西日本新聞)が、異常事態でなくなるためには、いくつかの選択肢があるが、いま福田首相がとれる最もハードルの低い選択肢であるはずの「差し替え」さえできないとなると、福田政権はおろか、日本(の自公筋)には中央銀行総裁に適任の人材さえ残っていないのかということになる。

 世界から見て、これはあながち不当な評価とも言い切れないだろう。自公政権は、ブッシュのネオコン路線の総括も反省もしておらず、すでに始まっている新たな時代に対応していないのであるから、どのような金融政策パーソンが適任といえるのかわからないか、米国の陰に隠れて動く日本にはもともと政策などなくテクノクラートしかいないから、米国の次期大統領が決まるまでは、中央銀行総裁さえ決められないという先進国の中の途上国なのさ、といわれかねない実態を自公政権は秘めている。

 朝日新聞社説は<武藤氏不同意―「困ってます」では困る>で、「民主党も一度は武藤氏反対を通したのだから、そろそろ拳の下ろしどころを考えてはどうか」と呼びかけている。「不安定な経済情勢をはじめ、ガソリン税や道路財源での対決といった大局を見据えるべきだ」と促し、「与野党ともに、軟着陸のための知恵と勇気を発揮してもらいたい」と注文をつけている。

 東京新聞社説は、「日銀総裁人事 政府の責任で決着急げ」で、「ぎりぎりまで努力しても、なお武藤氏の昇格に参院の同意が得られないのであれば、政府は候補差し替えも視野に入れて、柔軟に再検討すべきではないか」と提言、「もちろん、民主党も総裁決定に大きな責任を負っている。あくまで政府案に反対を貫くなら、総裁はいつまでも決まらない。それでは無責任のそしりを免れないだろう。民主党も政府の提案に十分、誠意をもって耳を傾ける必要がある」と訴えている。

 毎日新聞は武藤案に賛成の立場から12日の社説で、民主党は政権獲得を優先べきとした。日銀総裁人事では「民主党の自重を求めたい。例えば本会議に欠席、あるいは採決を棄権する方法もある。<中略>邪道だが、人事の仕組みが不備な中、緊急避難措置として検討してもよいと思われる」との論を繰り出した。

 13日の社説では、日銀総裁は国際決済銀行(BIS)中央銀行総裁会議の有力メンバーでもある、として、「金融市場が緊迫した状態にある中で、日本では中央銀行のトップが不在というのは、海外からは奇異に映るだろう。また、正副総裁人事が与野党のせめぎ合いの中で揺れること自体、日銀の信認にマイナスに作用する」と指摘、<日本に対する信頼が損なわれないようにするためにも、与野党に責任ある対応を求めたい。とりわけ民主党は、「空席は与党のせい」という理屈が通用しないことを自覚すべきだ>としている。

 大局を見据える姿勢が求められるのは、メディアも同じである。
 この激変期に、大局を見失い、日銀総裁人事をルーティンワークであるかのように扱おうとした与党の姿勢に、姑息、驕り、甘えがあったことは否めないだろう。それに引きずられるようにして、メディアは、大局を見失い、目先のバトル報道に陥っているような気がしてならない。

 琉球新報が 昨日(12日付)の社説「地位協定要請 占領の残滓、不平等解消を」で、独米地位協定にあたるボン補足協定や米韓地位協定のほか、イタリアではすべての米軍基地がイタリアの司令官の下に置かれていることを実例として挙げている。日米地位協定が、本質においていかに不平等なものであるかを思い知らされる内容である。

 それを部分的な運用方法で修正してきたといっても、そのような体質をこれまでずっと残してきた日本社会の未熟、米国とのアンフェアな関係、アンバランスな状態の維持が、日本の政治から国際的な視野を奪い、メディアの自由、言論表現の自由も、米国の許容する範囲内での自由にとどまってきたことを、あらためて自覚したうえで、歩みを次へと進めるべきだろう。

 今回の日銀総裁人事をめぐる与野党の攻防、そして一方で問われる日米地位協定の根本からの見直し。日本の中央銀行総裁に求められる「資質」や「政策」のありようについて、大局から検証し論じる必要が出ていることを、痛感させられる。戦争が優れて経済問題であることも忘れるわけにはいかない。私には、日本の近未来を決めていく、大きな転換点が訪れていることの象徴の一つであるように思えてならないのである。


日銀総裁の空席回避が日本の責務(日本経済新聞社説)
日銀総裁不同意 民主党は責任ある対応を(読売新聞社説)
日銀総裁人事 武藤氏差し替えは筋違う(産経新聞【主張】)
日銀総裁候補 与野党とも説明不足だ(北海道新聞12日付社説)
政治の「無能」に目を覆う 日銀総裁人事(西日本新聞社説)
武藤氏不同意―「困ってます」では困る(朝日新聞社説)
日銀総裁人事 政府の責任で決着急げ(東京新聞12日付社説)
武藤氏不同意 空席回避へ知恵をしぼれ(毎日新聞社説)
地位協定要請 占領の残滓、不平等解消を(琉球新報社説)

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JCJふらっしゅ ・Y記者の「ニュースの検証」=小鷲順造
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ジレンマが ない 脳天気 ゆでガエル/ちびちびと 小出しなどせず どんと出せ ('06/05)
Excerpt: 色々引用させていただきました。どうぞ、よろしくお願いします。
Weblog: アルデバランの 夢の星
Tracked: 2008-07-16 23:01