2008年05月06日

「いまこそ国民本位の政治に」―5月1日付西日本新聞社説を読む―

 5月1日付で西日本新聞は<「力の政治」が許されるか 衆院再可決>の社説を打った。翌2日には<国民が「命」を吹き込む大切さ 憲法と政治>を掲げた。前者では、暫定税率を復活させるための与党の「みなし否決」適用と、税制改正法の衆院本会議での再可決について、政府・与党に対して<いまの状況で繰り出した「力の政治」に国民を納得させる大義はあるか>と、厳しく問うている。(JCJふらっしゅ:Y記者の「ニュースの検証」)

――わずか1カ月の間に、正反対の減税と増税が実施される。その振幅の激しさに政治の混迷が映し出されている。振り子のように揺れる政治に翻弄(ほんろう)され、混乱のつけを支払わせられるのは私たち国民である。与野党を問わず、このことを政治は深刻に受け止めるべきだ。――

 政府や与党は、「歳入欠陥は放置できない」「地方財政に迷惑はかけられない」と正当性を主張するが、再可決に突き進んだ政府・与党は「民意との乖離(かいり)」という重い十字架を背負ったのであり、「いまこそ国民本位の政治に立ち返ることだ。その道筋さえ描けないのなら、衆院の解散・総選挙で国民に信を問うべきである」と結んだ。

 憲法記念日を前に、力のみなぎる社説を一部を除いた各紙が繰り出し始めた。自公政権が断末魔にのたうちまわるなか、日本国憲法を基盤とした新たな時代の幕開けである。

 西日本新聞は翌2日の<国民が「命」を吹き込む大切さ 憲法と政治>では、半世紀以上も使われなかった憲法59条、いわゆる「3分の2」条項を与党が行使した2件の事例について以下のように書き込んだ。

――この規定を使って2つの法律が成立しました。眠っていた憲法条項がよみがえった。そう言えます。
 ひとつはインド洋で米艦船などへの自衛隊の給油を可能にする法案。もうひとつは一昨日成立したガソリンなどの暫定税率を維持する法案です。法律の中身については国民の賛否が2分されていますが、成立までの過程は「憲法と政治」や「憲法と国会」のありようを決めるのは国民だということを、あらためて教えているような気がします。――

 実に大事な指摘だと感じた。いま私たちが立っている日本の状況を見事に凝縮してあらわしている。

――憲法が骨格を示した「この国のかたち」に血を注ぎ肉を付けて、どう生かしていくか。それは私たち国民の主体的な判断と選択にかかっている。半世紀ぶりの再可決にみられる昨今の政治状況がそれを示しています。――

 まったくそのとおりで、与党は「3分の2」条項を強引につかってまで、自分たちの失政、政治崩壊を国民の前にさらすまいと必死なのである。
 西日本新聞社説は、<自衛隊の給油活動再開とガソリンの暫定税率復活に「3分の2」条項が使われたのは、衆参両院で多数派が異なる「ねじれ国会」が出現したからにほかなりません>と、あらためて明示し、政権与党に衆院議席の3分の2以上を与えたのは国民自身であることを、ふりかえる。
 そして、さらに<野党に参院多数を与え「ねじれ国会」状況をつくり出したのも、また国民の選択によるもの>であることをはっきりさせた。

 両院で与党が多数を握っていた小泉純一郎政権や安倍晋三政権の時代は、野党が反対でも政権が目指した理念や政策を具現する法律が次々に成立、強行採決もたびたびだったが、それが、参院で少数与党となった福田康夫政権では様変わりした。つまり、<憲法で衆院議決が優先される予算と条約を除く法案は、参院で野党が否決した場合には「3分の2」条項を使わなければ成立しません>と、西日本新聞社説が指摘するとおり、昨年夏の参院選で国民が選択した「ねじれ国会」はその意味で、政治に抑制と補完を求めた憲法の「2院制」条項に命を吹き込んだのである。

 この指摘は、実に大切なことであり、いま私たちがはっきりと共有すべき時代状況と本質をみごとに抉り、描き出している。
 「3分の2」条項をつかうことについては、以下のように提言している。
1)憲法が定めた「3分の2」条項は、法律の不成立が国民に重大な損失をもたらす場合に行使できると解するべきである。
2)多用すれば、対立する意見の封じ込めと同じである。
3)行使する側の政権与党には、民意がどこにあるのか絶えず検証する必要がある。
4)野党には、それを使わせないで合意を形成する議論と民意を見極める力量が求められる。

 そしてこれに続くところが、私たち市民社会全体の課題である。上記をうけて、西日本新聞社説は次のようにこの社説を結んでいく。
 ゆえに、――与野党が対立してばかりいたのでは「ねじれ国会」で生き返った2院制の機能が生かされません。――

 この部分をいかに解釈するか、どのように私たちは考えていくべきか。昨夏の参院選で国民は「ねじれ国会」を生み出した。与党は小泉―安倍のブッシュの戦争追従・弱肉強食の政治路線を一部修正する福田内閣へと態度を変えねばならなかったが、福田内閣は口では野党との話し合いを大切にし、国民のための政治をやるようなことをいいながら、自衛隊の給油活動再開とガソリンの暫定税率復活に「3分の2」条項を使って、いったんは国民の声で破綻した小泉―安倍のブッシュの戦争追従・弱肉強食の政治路線を、生き返らせたのである。

 だが、西日本新聞2日付社説がいうように、<与野党が対立してばかりいたのでは「ねじれ国会」で生き返った2院制の機能が生かされ>ないこともまた事実である。さて、私たちはどうするか。どうすべきか。
 
 西日本新聞2日付社説は次のようにこの社説を締めている。
――さまざまな民意を国政に反映させる場である国会は民主主義政治の基本であり、その機能は「国のかたち」の根幹をなすものと言えます。憲法が国会を「国権の最高機関」とする所以(ゆえん)です。そのことを憲法記念日を前に、あらためて思います。――

 そのとおりである。国会はさまざまな民意を国政に反映させる民主主義政治の基本舞台である。そこが果たす仕事とそれに基づいて動く国の機能が、「国のかたち」の根幹をなす。その「国権の最高機関」である国会は、まさにいまの日本の「国のかたち」をものの見事に描き出している。

 2日付社説は結びを、憲法記念日を前にして、さまざまな民意を国政に反映させる場である国会の民主主義のありように重点をおいたが、ここにもう一度、前日の5月1日付で西日本新聞社説が示した結語の部分をつけくわえて、この社説が最後で言い切れなかった部分を補って、考えておきたい。

「いまこそ国民本位の政治に立ち返ることだ。その道筋さえ描けないのなら、衆院の解散・総選挙で国民に信を問うべきである」

 1日付で西日本新聞社説が示していた結論部分を、もし私が一日で頭から追い出していれば、2日付の同社社説は、途中までは切れがよかったが、最後は「与党も野党もなかよく」という、新聞社の社説に往々にありがちなただの「優等生」の作文としか読めなかっただろう。


■言論弾圧の風圧にさらされながら、口を開き続けるのはだれか


 私たちは「情報洪水」の社会に生きている。メディアとつきあううえで、一時的な、その瞬間目に飛び込んできたものをチョイスしたり、しがみついくだけでは、その「情報」を発信しているメディア企業を理解することはできないのである。考えてみれば、これは何もデジタル情報化で初めて起きてきたことではない。まして新聞はじめメディア企業は、「情報洪水」の社会だからこそ、よりジャーナリズムの果たすべき役割をしっかりと果たすことを求められる。

 新聞社は言論機関、社会の公器であるといわれるが、新聞社は新聞発行を主たる事業とする一企業でもある。何が主たる事業なのかわからないような新聞社や、新聞事業をもとから社会の公器としての自覚から営んでいるわけではなく、日本社会に依然として存在する反・日本国憲法の立場から過去の侵略戦争を正当化したり、何かの事情や都合から戦争を待望する声の持ち主にむけて、小さくともはっきりと数の見える「市場」にむけた商売をなさっているところもある。

 いま起きていることは、メディア企業=ジャーナリズム機関ではないということを、これまで以上にはっきりと示してやまない。前世紀から指摘され続けてきたメディア企業の社会的責任の劣化と、ジャーナリズム性の弱体化、喪失が、いよいよ明確になろうとしているということである。

 だがいかにメディア企業が国民の知る権利に正面からこたえるジャーナリズムを体現していったにせよ、過度に広告に依存しなければ経営が維持できなくなってしまったり、新聞を手にする読者、新聞を購読する読者が激減していくようなことがあれば、企業を基盤とするだけの日本のジャーナリズムは時間をかけながらもおのずと収縮してしまいかねない。 いまほど、企業としてのジャーナリズムではなく、企業の枠を超え、発信媒体の枠を超えたジャーナリストの輩出が期待されているときはない、といえるだろう。

 社会が高度情報市民社会へとむかい、企業は経済のグローバル化の波にさらわれ、情報開示と法令順守(コンプライアンス)など企業の社会的責任(CSR)、社会的義務に汲々とするようになった。
 世界のグローバル化の荒波にのまれまいと、自公政権はやるべき仕事とはまったく逆の、ブッシュの戦争への追従という道を選んだ。
 思いかえせば、経済・情報のグローバル化が進む中で、IT企業が世界市場を制覇するための苛烈な競争を繰り広げ始めたとき、米国は種々の分野でデファクトスタンダード(実質的標準)を確立し、世界のIT化を先導していた。ITの勃興期にITバブルはしぼみ、米国はクリントン政権からブッシュの政権へとうつり、ブッシュ政権は「対テロ戦争」を打ち出して、ITの波をコミュニケーションの拡大からセキュリティや管理統制へとシフトさせた。

 巨額の不正経理・不正取引の発覚によるアメリカ史上最大の企業破綻(2001年12月のエンロン破綻、2002年7月のワールドコム破綻)は、「企業の社会的責任」を問う世界潮流を誘発した。

 世界の動きをまったく把握していなかった古臭く使えない自公政権(森氏はITを「イット」とか呼ぶ体たらくだった)は、ブッシュに追従して、強者による世界支配のおこぼれにありつこうとしてきたのである。実に貧困である。その時代遅れ、後ろ向きの政治のおかげで、日本の経済社会はいったい何年損をしてきたのだろうか。時代遅れ、後ろ向きどころか、小泉氏のあと首相のおはちにありついた安倍氏は、日本を、復古改憲靖国賛美の愛国国家主義の国にしようと動いたのである。これではぜんぜんダメなのはあたりまえではなかっただろうか。

 政治が、その復古改憲靖国賛美を国や地方に浸透させていこうとする過程で、それまで親方日の丸・日本株式会社の護送船団方式という内向きの姿勢で日本型企業社会を成熟させ、それに付随するかたちで奨励された企業内労働組合=日本型労組さえ資本の力で押しつぶしてきた。そして名前だけ、「社会的責任」を口にするようになった日本の大手企業はいま、それまでの「甘い」情報開示からの早急な脱皮、それまでの「お上志向」でいればすんでいた体質から自ら厳しく法令順守(コンプライアンス)を実践する体質への転換を要求されるようになっている。

 前にも指摘したように、コンプライアンスを口にし、つかさどるものが、企業内権力を集中し社員を統治する手段にしようとする本末転倒がおきている。「何のための法令順守(コンプライアンス)」かを、大至急、問い直して軌道修正し、時代の要求に対応しなければならない。株主、従業員、取引先などすべての利害関係者(ステークホルダー)に対する正確な情報開示も要求されている。それを怠ったり、保身から虚偽の経営情報を正しい「情報開示」だと称して垂れ流していれば、それは破綻だけでなく、犯罪に匹敵、直結する事態へと企業トップを導いていくことにさえなる。

 米軍再編をめぐる防衛庁と軍事企業との間の「防衛利権」をめぐる黒い贈収賄の構造などは、その際たるものであり、そこに、言葉だけCSR(企業の社会的責任)やコンプライアンス(法令順守)を掲げ、実態はそれを政治権力や役所内部の権力や、サラリーマン経営者が経営理念も経営目標も卓越した創業者のごとくふるまい社内権力を固めるための「道具」として活用しようとする、おそろしく時代遅れ、後ろ向きの政治、役所、企業が出現しているのである(そこではバックグラウンドとして、危惧された個人情報保護法の「悪用」もあることに留意しておきたい)。

 4月17日の名古屋高裁判決は、自衛隊のイラク派遣が日本国憲法第9条に違反することを断罪したにとどまらない。「平和的生存権」についても言及し、「憲法9条に違反する国の行為、すなわち戦争の遂行、武力の行使等や、戦争の準備行為等によって、個人の生命、自由が侵害され又は侵害の危機にさらされ、あるいは、現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされるような場合、また、憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には、平和的生存権の主として自由権的な態様の表れとして、裁判所に対し当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができる場合があると解することができ」ることを明示している。

 ブッシュの戦争への追従が「防衛構造汚職」を生み、復古改憲靖国賛美「お上」志向の政治は、NHKはじめ多数のメディア、そしてビラまきにまで言論表現の自由を抑圧する行動を生み出した。テレビ朝日の「サンデープロジェクト」での発言をめぐり、安倍晋三首相の秘書3名が07年5月には朝日新聞編集委員の山田厚史氏と朝日新聞を名誉棄損で東京地裁に提訴、損害賠償3300万円の支払いと謝罪広告の掲載を求めるという事件もおきた(2月、山田さんの全面勝訴の内容で和解)。

 参院選をひかえ劣勢を挽回できないなかで、力づくで言論を封殺しようとした典型的な事例である。
 前述したように、これは単に小泉から議席を引き継いだ安倍おぼっちゃま内閣に特有の「言論封殺」の試みではない。
 ブッシュが「対テロ戦争」に乗り出す原因のひとつとも考えられる米国史上最大の企業破綻を引き金とした「企業の社会的責任」(情報開示、法令順守)の流れは、国際会計基準の導入の流れとも交錯して、加速度的に日本の旧体質を引きずる大手企業を直撃し、コンプライアンスの名の下に萎縮した管理統制の企業環境を創出、数字を上向かせるために社員をリストラしたり派遣社員にすげ替えたりした。

 厚生労働省はそれを後押し、99年にはそれまで限定していた派遣可能業種を原則自由化、2003年には禁止されていた製造業にまで派遣社員の導入を認め、財界はその勢いに乗って、さらなる規制緩和=国民の使い捨て、ワーキングプアを促進しようとしてきたのである。その流れも、昨夏の参院選で自公政権を追い込んだ国民の力によって、労働者使い捨てから労働者保護へと流れが変わりつつある。この流れを変えてはならない。さらに日本国憲法を礎とした21世紀型の日本づくりをめざして流れを加速させていく必要がある。

 「後期高齢者医療制度」のからくりも「国民の使い捨て」路線、つまり「ワーキングプア」大量創出と同じ弱肉強食・ネオコン路線と同じブッシュ追従・小泉政権の産物である。「平成の姥捨て」とも呼ばれるこのばかげた制度も、早急に廃止しなければならない。

 現代大手企業に強く求められる法令順守(コンプライアンス)や情報開示の質が、なぜ自公政権だと権力の維持と社内の統治管理の強化へと変わってしまうのか。それはブッシュの戦争に追従しながら、日本の自衛隊を自ら米軍に組み込もうとする自民党の政治体質と共通している。世界中が開戦前から反対し、大義も何もなく泥沼化がはっきりしていたイラク戦争に追従して、政権の基盤を固めようとするコバンザメ政治は、大変動の時代にお上にぶらさがろうとする大手企業を保身に向かわせ、新たな「継続企業」として再生をはかる努力ではなく、「かわりはいくらでもいる」と脅して社員の口を封じ、「少しの批判も許さない」とジャーナリストの口を封じる、異常な日本型企業コンプライアンスの体制を生み出している。

 そもそも求められ、果たすべき「企業の社会的責任」とは、遠く隔たった異常な現実が日本の企業社会をおおっているのである。
 社内からも社外からも、言論表現の自由を奪おうとしながら、不祥事ばかりに追われる日本社会。政治も役所も企業も保身に汲々とし、上に対する忖度(そんたく)と萎縮と口封じとが蔓延する自主規制社会と化している日本社会に、ジャーナリズムは風穴をあけ、日本社会のすみずみに平和主義、民主主義、人権尊重社会の風をゆきわたらせねばならない。

 起きているのは政治的な口封じの攻撃ばかりではない。
 大手メディアが萎縮するとき、言論表現の自由の担い手は他のメディア企業と企業に籍を置かないフリーランスに、その重要な責務はゆだねられる。その柔軟なネットワーク型の連携を駆使し、市民とジャーナリストの連携によって、言論表現の自由を拡大し、メディアを国民のものにしていく運動を力強くおこしていかねばならない。
 検閲はこれはしてはならない。憲法にそう定めた言論先進国日本で、映画「靖国」への弾圧が起きた。それに追従してしまった映画館もあった(これも大手系列)。だが、それを跳ね除ける力が日本にはある(映画「靖国」の上映は、独立系の映画館とそれを支える観客が実現しつつある)。政治と役所と企業社会に蔓延する萎縮と管理統制の風圧は、企業内部に設置された法対・コンプライアンス部門がセットで機能し、さらには「仕事」をつくることを運命付けられた自動訴訟連発装置となって、みさかいもなく企業に籍を置かないフリーランスジャーナリストたちを襲っている。その報告が相次いでいるのである。

 世界に日本の平和憲法を広げ、地球社会に平和主義と民主主義と人権尊重社会をねづかせようという取り組みが、大きなうねりとなろうとしている。
 いま市民と、すべてのメディア人と、果敢にものをいうフリーランスジャーナリストの連帯のときが訪れている。企業のしがらみがないからこそ、先頭を切って言論表現の自由の担い手として活躍するフリーランスジャーナリストに期待が高まっている。彼らにかけられる攻撃、彼らが直面する苦境こそ、日本の市民社会にユニオン運動を広げ、日本の労働運動を再生するあらたな力の源泉となろう。

 その活動は攻撃に対応するかけこみ寺では終わらない。出版・メディアにかかわるあらゆる職種、さまざまな得意ジャンルのフリーランスと協働して、さまざまな運動から引きだされる教訓を共有の資産として蓄積し、次へと生かしていくサイクルを通じて、日本の職能文化の向上に資することができる。その運動から再生産されるサービスや資産は、単に出版社や製作会社を取引先とした対事業所サービスにとどまる必要はない。いかなる場合でも、情報の受け手である市民・読者との時代共有なしに、メディアを介したコミュニケーションは成立しないのである。

 トラブルをかかえたり攻撃をうけたフリーランスを迎え入れるユニオンは、自分たちで設営し運営される。ゆえに仲間を引き入れ、仲間とともに孤独と恐怖を克服し、蘇生し、バージョンアップした自身をもってさらに新たな表現にチャレンジし、かつ今度は自らがその運営の軸となって上昇気流を生み出していく。その活動の基盤を組織労働者が岩盤となって支え、それをさらにメディア人、メディア労働者がとりまく。それはおのずと市民との連帯につながっており、個々が蘇生し、自らの世界を広げていくプロセスを市民社会が見守っている。

 あたかも「野戦病院」のごとくたくましく存在しつつ、かつそのたたかいは武器によるそれではなく、ペンとカメラとレコーダー、パソコンを用いた表現文化を積み上げていく営みであり、日々のたゆまざるたたかいである。それはフリーランス自らが社会の主人公として自らの仕事の意味を問い直し、表現労働の価値を全人格的に高め、全市民的な価値へとつくりかえる協働労働の実践である。

 私は1987年に、出版界にユニオン出版ネットワーク(出版ネッツ)を立ち上げた者の一人として、またそれに続く企業横断ユニオン(現・出版情報関連ユニオン)づくりにかかわった者として、あらためて個人加盟ユニオンへの結集・拡大の必要性を訴えておきたい。同時に、邪魔、障壁、攻撃にさらされているフリーランスジャーナリストに、あえていま、ユニオン運動やワーカーズコープ(労働者協同組合)はじめ、さまざまな分野・テーマにおけるNPOなど、もうひとつの世界を私たちの足元から実現していく運動の先頭に立ってほしいと要望を申し上げておきたいと思う。

 フリーランスが攻撃をうけ苦境にさらされているとき、その背後で何人の社員、何件の取引先、何人の市民活動家が犠牲にさらされ、どれほど重要な事実が闇に葬られているかを知ってほしい。フリージャーナリストへの攻撃は、「ここにさわるな、近づくな」とマスメディアと市民社会に警告を発するために見せしめとして行われることがしばしばなのである。

 攻撃する側にとっても益の少ない無駄弾のような訴訟を依然つづける輩は、本格的に真相を暴かれることを恐れるがゆえに企業内・組織ジャーナリストではなく、フリージャーナリストや市民活動家などを巧妙な手口で狙ってくる。保身に汲々としながら守ろうとしている事実をうまくごまかす準備が整っていないという理由から、威嚇のために振り上げた手をいつまでも下ろせない場合もある。これでは社会に必要とされる「一企業市民」として、「企業の社会的責任」を果たすどころか、「反社会的」な存在へと堕するだけである。自分のところはだいじょうぶか、いま一度チェックしておきたいところである。

 身近なところで苦境と攻撃にさらされている多彩なジャーナリスト、市民活動家たちがいることに、ぜひ目をむけていただきたい。取材現場で、法廷で、ともに「世直し」に立ち上がっていただくことをお願いする。


「力の政治」が許されるか 衆院再可決 西日本新聞5月1日付社説
国民が「命」を吹き込む大切さ 憲法と政治 同5月2日付社説

出版労連 http://www.syuppan.net/
出版情報関連ユニオン http://www.syuppan.net/union/
出版ネッツ http://www.jca.apc.org/NETS/

日本労働者協同組合連合会
http://www.roukyou.gr.jp/

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JCJふらっしゅ
Y記者の「ニュースの検証」=小鷲順造
http://archive.mag2.com/0000102032/index.html
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想像しよう。日本国憲法を遵守する日本を。少しだけよくなった世界を。君が代を強制されない日本を。いま必要な政治を託せる政治家が国会を埋め尽くしている姿を。自衛隊を海外戦地に派遣しない日本を。「後期高齢者医療制度」が廃止された日本を。想像できればそれは必ず実現できる。みんなが想像しているのだから、実現できない理由をみつけるほうが困難なのは当然のことではないか。

posted by JCJ at 19:15 | TrackBack(1) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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