捜査機関による証拠ねつ造でえん罪が作られる。まさか!袴田事件第二次再審の静岡地裁決定、と差し戻し後の東京高裁決定はそれを指摘した。本書は裁判官出身の2名の弁護士と刑事訴訟法の研究者が具体的な事件をあげてえん罪の原因と再審法の改正をアピールする。必読の基本書だ。証拠開示、検察官抗告の禁止、裁判官の思い込みの解明、自白偏重の是正など。編者葛野尋之による、再審申立人への刑の執行停止(特に死刑)の提言は死刑再審の場合切実だ。本人が誰よりも知る無実のまま、命を奪われる地獄は看過できない。
読者に問う。刑事裁判の報道論評で、裁判官の過ち批判の筆にためらいはないか。
大川原化工機という事件(本書96ページ)では、無実を訴え続けた3人の被告が300日以上自由を奪われた。一人は癌を患い、獄中で他界した。検察の起訴取り消しでえん罪は明白となった。人質司法の、これはむごい一例だ。
誰の責任か。警察、検察の捜査の過ちはメデイアで論評される。しかし勾留決定を繰り返し、医療のために有効な保釈申請を複数回却下したのは裁判官である。そこに踏み込み令状裁判官に取材を試みたジャーナリストは管見の限りいない。袴田事件の一審以来の確定判決の裁判官たち、再審請求を却下してきた裁判官たちに「どうお考えか。」と真摯に問いかけたジャーナリストはおられるか。
判例時報2566号袴田事件特集号の巻頭に木谷明元裁判官の論考が掲載された。袴田再審の各審級の裁判長や、著名刑事裁判官の実名をあげて、裁判官の内面にまで筆を及ぼしている木谷明元裁判官の文章は、おそらくはご自身への内省もあるのではないか。胸をうつ文章である。
歳月が作り上げた袴田さんの苦渋の表情と突き抜けるような姉上の笑顔が語るお二人の人生の真実に思いを馳せよう。私たちの姿勢も体当たりのものにならざるを得ない。(岩波ブックレット960円)
2024年04月13日
【好書耕読】ハンセン病者の現実と抒情=上丸洋一(ジャーナリスト)
こんなはずではなかった。記者生活を終えたら、もっとのんびりと、肩のこらないエッセー集でも読んで日を送るつもりだった。
ところが南京虐殺事件に手を出したために、それどころではなくなった。3年半かかって『南京事件と新聞報道』(朝日新聞出版)にまとめ、一息ついたところへこの欄への寄稿を依頼された。
手にとったのが阿部正子編『訴歌』(皓星社)。『ハンセン病文学全集』(全10巻、2010年完結)に収録された短歌、俳句、川柳から3300余の作品を選んで出版された。購入したまま本棚に眠っていた本の一つだ。
家族との別離、療養生活の喜怒哀楽、隔離と差別……。
【またくると中折帽子をふりし父を待ちつづけきぬこの三十年】松島朝子
【ひきつりし鏡の中の我がかほは憎しと思ふいとしとおもふ】柚木澄
【再会を云はず夏帽大きく振る】天野武雄
【帰りなば疎み嫌はるるは必定のその故郷をただに恋(こ)ほしむ】小山蛙村
【病む吾とみまもる母の乗りたれば客車の扉に錠下ろされつ】山本吉徳
すらすらとはとても読めない。一行読んでは本からしばし目を離し、衝撃を噛みしめては、また次の一行に目をおとす。
【幼な子の己が病苦も知らぬげに遊べるさまのなほあはれなり】浅野日出男
【追ひ来るを追ひ返し追ひ返し別れたる子が四十年ぶりに会ひに来ぬ】長谷川と志
苛酷な現実を映す苛烈なる抒情。人はなぜ生き、なぜ<詠う>のか。そうした根源的な問いに向き合うことを、この本は読む者に迫る。
【あなたはきっと橋を渡って来てくれる】辻村みつ子
これが巻頭の第一句だ。この本の副題ともなっている。さあ、最初からもう一度じっくり読み返すとしよう。「肩のこらないエッセー集」は、そのあとでいい。
ところが南京虐殺事件に手を出したために、それどころではなくなった。3年半かかって『南京事件と新聞報道』(朝日新聞出版)にまとめ、一息ついたところへこの欄への寄稿を依頼された。
手にとったのが阿部正子編『訴歌』(皓星社)。『ハンセン病文学全集』(全10巻、2010年完結)に収録された短歌、俳句、川柳から3300余の作品を選んで出版された。購入したまま本棚に眠っていた本の一つだ。
家族との別離、療養生活の喜怒哀楽、隔離と差別……。
【またくると中折帽子をふりし父を待ちつづけきぬこの三十年】松島朝子
【ひきつりし鏡の中の我がかほは憎しと思ふいとしとおもふ】柚木澄
【再会を云はず夏帽大きく振る】天野武雄
【帰りなば疎み嫌はるるは必定のその故郷をただに恋(こ)ほしむ】小山蛙村
【病む吾とみまもる母の乗りたれば客車の扉に錠下ろされつ】山本吉徳
すらすらとはとても読めない。一行読んでは本からしばし目を離し、衝撃を噛みしめては、また次の一行に目をおとす。
【幼な子の己が病苦も知らぬげに遊べるさまのなほあはれなり】浅野日出男
【追ひ来るを追ひ返し追ひ返し別れたる子が四十年ぶりに会ひに来ぬ】長谷川と志
苛酷な現実を映す苛烈なる抒情。人はなぜ生き、なぜ<詠う>のか。そうした根源的な問いに向き合うことを、この本は読む者に迫る。
【あなたはきっと橋を渡って来てくれる】辻村みつ子
これが巻頭の第一句だ。この本の副題ともなっている。さあ、最初からもう一度じっくり読み返すとしよう。「肩のこらないエッセー集」は、そのあとでいい。
2024年04月08日
【おすすめ本】中川 浩一『ガザ 日本人外交官が見たイスラエルとパレスチナ』―断ち切れぬ負の遺産 和平の困難さ詳細に=川上泰徳(中東ジャーナリスト)
イスラエル軍のガザ攻撃の最中に刊行された本書のタイトルを見れば、ガザや、ガザのイスラム組織ハマス、またはガザ戦争についての情報を期待するだろうが、それは本書の中心ではない。しかし、悲惨な戦争に到るパレスチナとイスラエルの関係を理解するには有益な本である。
筆者は外務省でアラビア語の研修後、1998年から駐イスラエル日本大使館のパレスチナ自治政府担当になり、ガザやヨルダン川西岸に頻繁に行き、自治政府関係者や主導したファタハの幹部らと接触し、和平を支える日本外交を現地で担った。しかし、2000年9月に第2次インティファーダ(民衆蜂起)によって和平の枠組みは崩れていった。
筆者は2000年夏、当時のクリントン大統領の仲介でイスラエルのバラク首相とアラファト議長の首脳会談で、パレスチナ国家樹立を目指した最後の試みの失敗と、その後の和平が破綻する状況に外交官として立ち会った。第2章「中東和平が最も実現に近づいたとき」と第3章「和解の道見途絶えた」は本書の肝であり、若い外交官が見た貴重な歴史の境目を臨場感と共に伝えている。
この経緯は、イスラエルの譲歩にも関わらず、和平を決断しなかったアラファト議長を責める言説が多い中で、パレスチナ側が呑めなかった背景や理由が記述され、和平の困難さについて読者の理解を助けるものである。
パレスチナ人の暴力の原因に、彼らの生活を圧迫するイスラエルの入植地拡大があると指摘する。さらにパレスチナ人の暴力に対してイスラエルが戦車やミサイルを使って過剰に報復することがパレスチナ人のさらなる怒りを生み、事態を悪化させるという筆者の指摘は、現在のガザ戦争を考えるうえでも参考になる。(幻冬舎新書960円)
筆者は外務省でアラビア語の研修後、1998年から駐イスラエル日本大使館のパレスチナ自治政府担当になり、ガザやヨルダン川西岸に頻繁に行き、自治政府関係者や主導したファタハの幹部らと接触し、和平を支える日本外交を現地で担った。しかし、2000年9月に第2次インティファーダ(民衆蜂起)によって和平の枠組みは崩れていった。
筆者は2000年夏、当時のクリントン大統領の仲介でイスラエルのバラク首相とアラファト議長の首脳会談で、パレスチナ国家樹立を目指した最後の試みの失敗と、その後の和平が破綻する状況に外交官として立ち会った。第2章「中東和平が最も実現に近づいたとき」と第3章「和解の道見途絶えた」は本書の肝であり、若い外交官が見た貴重な歴史の境目を臨場感と共に伝えている。
この経緯は、イスラエルの譲歩にも関わらず、和平を決断しなかったアラファト議長を責める言説が多い中で、パレスチナ側が呑めなかった背景や理由が記述され、和平の困難さについて読者の理解を助けるものである。
パレスチナ人の暴力の原因に、彼らの生活を圧迫するイスラエルの入植地拡大があると指摘する。さらにパレスチナ人の暴力に対してイスラエルが戦車やミサイルを使って過剰に報復することがパレスチナ人のさらなる怒りを生み、事態を悪化させるという筆者の指摘は、現在のガザ戦争を考えるうえでも参考になる。(幻冬舎新書960円)
2024年04月04日
【おすすめ本】広野真嗣『奔流 コロナ「専門家」はなぜ消されたのか』─政府に都合よく使われた経緯と苦悩を暴く貴重な記録=杉山正隆(歯科医)
2019年末、中国・武漢市で肺炎の集団発生で明らかになった新型コロナウイルス感染症。当時、私は香港で民主化活動を取材していた関係で状況を日本に伝え、感染症の専門家たちとも連絡をしあった体験が、昨日のように思い出される。
本書は尾身茂、押谷仁、西浦博の3人への取材を中心にコロナ「専門家」の苦悩を纏めた貴重なノンフィクションである。
この20年余、ありふれた風邪ウイルスである「コロナウイルス」が変異した感染症が多く発生した。SARS(重症急性呼吸器症候群)、MERS(中東呼吸器症候群)がそうで、感染症の専門家は新型感染症への国家的取り組みを、幾度となく求めてきた中でのコロナ新規感染症だった。
想定した新規感染症ではあるが難しい対応を求められた。科学者として中立であるべきか、踏み出して積極的に政策立案やメディアへの出演等をすべきか。当時、総理大臣として君臨していたのが安倍氏である。菅、岸田氏と政権は変われど、コロナ専門家は都合の良いように使われ、国民は大きく混乱させられた。
感染症の専門家が結集する国際エイズ会議では、米国の第一人者アンソニー・ファウチ氏が毎回のように講演やセミナーなどで発信していたが、私の30年来の取材対象であった尾身氏らは、参加すらしていないことが多かった。
彼らがたいへん苦労したことは分かるが、他の選択肢もあった。トランプ前大統領に苦言を呈してきたファウチ氏を見るにつけ、コロナ「専門家」を作り上げた政府やメディアにも問題があったのではないかと感じる。(講談社1800円)
本書は尾身茂、押谷仁、西浦博の3人への取材を中心にコロナ「専門家」の苦悩を纏めた貴重なノンフィクションである。
この20年余、ありふれた風邪ウイルスである「コロナウイルス」が変異した感染症が多く発生した。SARS(重症急性呼吸器症候群)、MERS(中東呼吸器症候群)がそうで、感染症の専門家は新型感染症への国家的取り組みを、幾度となく求めてきた中でのコロナ新規感染症だった。
想定した新規感染症ではあるが難しい対応を求められた。科学者として中立であるべきか、踏み出して積極的に政策立案やメディアへの出演等をすべきか。当時、総理大臣として君臨していたのが安倍氏である。菅、岸田氏と政権は変われど、コロナ専門家は都合の良いように使われ、国民は大きく混乱させられた。
感染症の専門家が結集する国際エイズ会議では、米国の第一人者アンソニー・ファウチ氏が毎回のように講演やセミナーなどで発信していたが、私の30年来の取材対象であった尾身氏らは、参加すらしていないことが多かった。
彼らがたいへん苦労したことは分かるが、他の選択肢もあった。トランプ前大統領に苦言を呈してきたファウチ氏を見るにつけ、コロナ「専門家」を作り上げた政府やメディアにも問題があったのではないかと感じる。(講談社1800円)
2024年03月28日
【好書耕読】防衛大国、韓国から何を学ぶか=五味洋治(ジャーナリスト)
朝鮮半島の軍事情勢といえば、もっぱら北朝鮮がテーマだった。核実験やミサイル発射、さらには日本人拉致問題もあり、関心が高いからだ。『韓国の国防政策「強軍化」を支える防衛産業と国防外交』(伊藤弘太郎著、勁草書房)は、逆に韓国に焦点を当てている。
軍備の増強をやめない北朝鮮に対抗するため韓国が独自に開発してきた兵器は、安価で性能が良かった。欧州やオーストラリアなどの海外によく売れ、外貨稼ぎにも役立った。防衛装備品の輸出量が、2008年からわずか10年で倍増していることからも、その人気ぶりが分かる。好調な売れ行きにも支えられ、韓国の防衛費は日本を抜いて世界9位にまで成長している。
筆者は、防衛産業の発展だけでなく、韓国が展開する「国防外交」にも注目している。ある国に戦闘機や戦車を輸出すると、メンテナンスを通じて韓国と関係が密接になり、友好関係が築ける。
一方日本は、平和憲法のもとで外国の軍事問題への関与がタブー視されてきた。2014年には防衛装備移転三原則が制定されたが、反対意見も多く、進んでいない。
著者は、「(日本)国内の防衛産業の活性化を図ろうとするならば、海外への輸出拡大は不可避」と指摘しているが、私は懸念を拭えなかった。
本書にも紹介されているが、アラブ首長国連邦(UAE)の国防力整備に協力する見返りとして韓国政府は、UAEの緊急時には、韓国軍が自動介入するという秘密条項を交わしていたという。兵器セールスのためとはいえ、他国の戦争に巻き込まれかねない。
さらに、ウクライナ戦争では、韓国製の砲弾が米国を迂回してウクライナ側に供給された、と報道されている。韓国は「死の商人」になっていないか。韓国の歩みから慎重に教訓を学ぶべきだ。
軍備の増強をやめない北朝鮮に対抗するため韓国が独自に開発してきた兵器は、安価で性能が良かった。欧州やオーストラリアなどの海外によく売れ、外貨稼ぎにも役立った。防衛装備品の輸出量が、2008年からわずか10年で倍増していることからも、その人気ぶりが分かる。好調な売れ行きにも支えられ、韓国の防衛費は日本を抜いて世界9位にまで成長している。
筆者は、防衛産業の発展だけでなく、韓国が展開する「国防外交」にも注目している。ある国に戦闘機や戦車を輸出すると、メンテナンスを通じて韓国と関係が密接になり、友好関係が築ける。
一方日本は、平和憲法のもとで外国の軍事問題への関与がタブー視されてきた。2014年には防衛装備移転三原則が制定されたが、反対意見も多く、進んでいない。
著者は、「(日本)国内の防衛産業の活性化を図ろうとするならば、海外への輸出拡大は不可避」と指摘しているが、私は懸念を拭えなかった。
本書にも紹介されているが、アラブ首長国連邦(UAE)の国防力整備に協力する見返りとして韓国政府は、UAEの緊急時には、韓国軍が自動介入するという秘密条項を交わしていたという。兵器セールスのためとはいえ、他国の戦争に巻き込まれかねない。
さらに、ウクライナ戦争では、韓国製の砲弾が米国を迂回してウクライナ側に供給された、と報道されている。韓国は「死の商人」になっていないか。韓国の歩みから慎重に教訓を学ぶべきだ。
2024年03月21日
【おすすめ本】後藤 秀典『東京電力の変節 最高裁・司法エリートとの癒着と原発被災者攻撃』―6・17判決の裏に何があったのか 闇の深淵部に切り込んだ=坂本充孝(ジャーナリスト)
福島第一原発の事故からまもなく13年。現在も2万6千人を超える人々が故郷に戻れず避難生活を続けている。そんな人々に対して元々事
故の当事者である東京電力の対応は不誠実極まりなかった。尊重すると誓いを立てた原子力損害賠償紛争解決センター(ADR)の和解案を4年以上も拒絶し続け、仲介打ちと切りとなった。
さらに2020年ごろから損害賠償を争う法廷で露骨な出し渋りの論理を展開し始める。一企業が弱者に対してこうまで攻撃的になるのはなぜなのか。裏側に迫ったのが本書である。
興味深いのは第2章だ。22年6月17日。東京電力福島第一原発国賠訴訟で最高裁は異例の判決を言い渡した。東京電力の損害賠償責任は認めたうえで、不可思議にも、高裁の事実認定を覆し、「国の責任はなかった」と断じた。
この6・17判決は、どのように書かれたのか。判事は菅野博之、岡村和美、草野耕三、三浦守の4氏。このうち検察出身の三浦氏は「国に責任がある」と反対意見書を出したが、受け入れられなかった。
筆者は残る3判事の経歴を追う。見えてきたのは電力会社、最高裁、国、巨大法律事務所の間に張り巡らされた濃い人脈図だった。裁判長だった菅野博之氏は判決から1か月半後の8月3日に巨大法律事務所の顧問に就いた。過去に東電の代理人を勤めた弁護士が何人もいる事務所だ。さらに岸田文雄首相が原発依存を減らしていくという従来の方針を撤回、原発回帰の方向を明確に打ち出したのは、この直後のことだった。
司法の頂点の体たらくを知れば、背筋が寒くなる読者も多いのではないか。日本の闇の深淵部に切り込んだ筆者にエールを送りたい。(旬報社1500円)
故の当事者である東京電力の対応は不誠実極まりなかった。尊重すると誓いを立てた原子力損害賠償紛争解決センター(ADR)の和解案を4年以上も拒絶し続け、仲介打ちと切りとなった。
さらに2020年ごろから損害賠償を争う法廷で露骨な出し渋りの論理を展開し始める。一企業が弱者に対してこうまで攻撃的になるのはなぜなのか。裏側に迫ったのが本書である。
興味深いのは第2章だ。22年6月17日。東京電力福島第一原発国賠訴訟で最高裁は異例の判決を言い渡した。東京電力の損害賠償責任は認めたうえで、不可思議にも、高裁の事実認定を覆し、「国の責任はなかった」と断じた。
この6・17判決は、どのように書かれたのか。判事は菅野博之、岡村和美、草野耕三、三浦守の4氏。このうち検察出身の三浦氏は「国に責任がある」と反対意見書を出したが、受け入れられなかった。
筆者は残る3判事の経歴を追う。見えてきたのは電力会社、最高裁、国、巨大法律事務所の間に張り巡らされた濃い人脈図だった。裁判長だった菅野博之氏は判決から1か月半後の8月3日に巨大法律事務所の顧問に就いた。過去に東電の代理人を勤めた弁護士が何人もいる事務所だ。さらに岸田文雄首相が原発依存を減らしていくという従来の方針を撤回、原発回帰の方向を明確に打ち出したのは、この直後のことだった。
司法の頂点の体たらくを知れば、背筋が寒くなる読者も多いのではないか。日本の闇の深淵部に切り込んだ筆者にエールを送りたい。(旬報社1500円)
2024年03月18日
【おすすめ本】広谷 直路『「泣き虫」チャーチル 大英帝国を救った男の物語』―激情家であり手練手管も 英雄の素顔とは =鈴木耕(編集者)
タイトルがいい。なにしろ「泣き虫」なのだ。チャーチルといえば第2次世界大戦のイギリスの英雄にして重厚な政治家で、更には文筆家としても「ノーベル文学賞」を受けたほどの人物。サブタイトルに「大英帝国を救った男の物語」とあるがこちらの方が従来のチャーチルのイメージだ。ところがそれを逆手にとって、英雄伝説を壊すことなく見事にやんちゃな「もうひとりのチャーチル」を現出させたのが本書である。
著者には何冊かの翻訳書があるが自身の著書としてはこれが初めてだという。とてもそうは思えない手練れの文章だ。さすがに長年、編集者として磨いた腕の見せどころ、素敵な本を書き上げた。
貴族の家に生まれたウィンストン君、少年のころから学校嫌いの泣き虫小僧。感極まると所かまわず泣きだしてしまう。その性格は政治家になっても変わらない。大の映画好きで自邸の映写室でヴィヴィアン・リーとローレンス・オリヴィエの『美女ありき』を観ては涙ぐんでいたという。これでもう英雄偉人のイメージが一変する。そんなエピソードを本書の最初に持ってくるところが編集者でもある著者の面目躍如。むろん、そんな激情型の性格だけでは、あの大戦の指導者たりえない。
ヒトラーを翻弄しスターリンと渡り合いルーズベルトを引きずり込む八面六臂の活躍、その手練手管も著者は余すところなく描く。エピソードの積み重ねで英雄の別の側面をまことに面白い読み物に仕上げてくれた。
(集英社インターナショナル、1800円)
著者には何冊かの翻訳書があるが自身の著書としてはこれが初めてだという。とてもそうは思えない手練れの文章だ。さすがに長年、編集者として磨いた腕の見せどころ、素敵な本を書き上げた。
貴族の家に生まれたウィンストン君、少年のころから学校嫌いの泣き虫小僧。感極まると所かまわず泣きだしてしまう。その性格は政治家になっても変わらない。大の映画好きで自邸の映写室でヴィヴィアン・リーとローレンス・オリヴィエの『美女ありき』を観ては涙ぐんでいたという。これでもう英雄偉人のイメージが一変する。そんなエピソードを本書の最初に持ってくるところが編集者でもある著者の面目躍如。むろん、そんな激情型の性格だけでは、あの大戦の指導者たりえない。
ヒトラーを翻弄しスターリンと渡り合いルーズベルトを引きずり込む八面六臂の活躍、その手練手管も著者は余すところなく描く。エピソードの積み重ねで英雄の別の側面をまことに面白い読み物に仕上げてくれた。
(集英社インターナショナル、1800円)
2024年03月10日
【おすすめ本】川ア秋子『ともぐい』─熊と人間と自然と「命」を巡る応酬の果てに=萩山 拓(ライター)
本書は昨年11月20日に発売されるや、傑作と絶賛されてきた。その評判どおり、直木賞選考委員全員が授賞を決定した。
時代は日露戦争前夜、舞台は釧路の白糠町。本書の主人公「熊爪」は、単独で犬と共に山中で生活し、鹿狩りや熊撃ちに専念する猟師である。
「今仕留めたばかりの鹿の腹を裂き始めた。…開かれた腹の中には、剥き出しの鹿の肝臓がつやつやと横たわっている。…血と肉の旨味が噛みしめるごとに口腔に広がる」
鹿の解体や熊との闘いを巡る描写は、女性の筆致とは思えないほど、凄絶きわまる。だが「命」への愛おしい思いが、読む者にズシンと伝わってくるから不思議だ。
獣が獲れれば、自らの手で解体し、肉や毛皮を肩にかつぎ町へ下り、 買い受ける店に行く。そこで目の不自由な少女・陽子(はるこ)に出会い見初める。
ある日、「熊爪」は、山中で瀕死となっていたマタギを救う。冬眠せずに山を歩く熊<穴持たず>に襲われたのだ。この熊も別の巨大な熊「赤毛」に殺される。そして「熊爪」は「赤毛」との凄絶な闘いに挑む。その死闘の果て自らも重傷を負う。
陽子が「熊爪」の治療に介添えするなか、二人の間で交わされる会話や交際のありようは、本能むき出しで、食らい合うように展開する。半端者の連帯でもあろうか。
特に本書の「十 片割れの女」から最終章へと続く、「熊爪」と陽子が繰り広げる修羅場には驚く。まさに「命」を巡る二人の闘いといっても良い。
最後のシーンに辿りつくと、陽子は熊「赤毛」の化身ではないか、そう見立てれば表題『ともぐい』とする意味が、 やっと私には理解できたのだが。こうした深い二重の意味が、本書には込められていると思えてならない。(新潮社1750円)
時代は日露戦争前夜、舞台は釧路の白糠町。本書の主人公「熊爪」は、単独で犬と共に山中で生活し、鹿狩りや熊撃ちに専念する猟師である。
「今仕留めたばかりの鹿の腹を裂き始めた。…開かれた腹の中には、剥き出しの鹿の肝臓がつやつやと横たわっている。…血と肉の旨味が噛みしめるごとに口腔に広がる」
鹿の解体や熊との闘いを巡る描写は、女性の筆致とは思えないほど、凄絶きわまる。だが「命」への愛おしい思いが、読む者にズシンと伝わってくるから不思議だ。
獣が獲れれば、自らの手で解体し、肉や毛皮を肩にかつぎ町へ下り、 買い受ける店に行く。そこで目の不自由な少女・陽子(はるこ)に出会い見初める。
ある日、「熊爪」は、山中で瀕死となっていたマタギを救う。冬眠せずに山を歩く熊<穴持たず>に襲われたのだ。この熊も別の巨大な熊「赤毛」に殺される。そして「熊爪」は「赤毛」との凄絶な闘いに挑む。その死闘の果て自らも重傷を負う。
陽子が「熊爪」の治療に介添えするなか、二人の間で交わされる会話や交際のありようは、本能むき出しで、食らい合うように展開する。半端者の連帯でもあろうか。
特に本書の「十 片割れの女」から最終章へと続く、「熊爪」と陽子が繰り広げる修羅場には驚く。まさに「命」を巡る二人の闘いといっても良い。
最後のシーンに辿りつくと、陽子は熊「赤毛」の化身ではないか、そう見立てれば表題『ともぐい』とする意味が、 やっと私には理解できたのだが。こうした深い二重の意味が、本書には込められていると思えてならない。(新潮社1750円)
2024年03月04日
【おすすめ本】西野智彦『ドキュメント異次元緩和 10年間の全記録』−アベノミクスと金融緩和が辿った軌跡を検証する=栩木 誠(元日本経済新聞編集委員)
国民生活を苦しめてきた「異次元緩和」は、安倍晋三元首相が「日本銀行は政府の子会社」と公言してはばからず、自ら選任した黒田東彦前日本銀行総裁とタッグを組み、推進したものだった。
「2%の物価上昇」を旗印に、大幅な金融緩和を行い、経済に好循環をもたらすとの旗印を掲げ、中央銀行の“禁じ手”とされてきた手法を次々と弄してきた。その結果、「好循環」どころか日本を「成長が止まった国」「賃金が目減りする国」に陥らせた。
ベテラン経済ジャーナリストによる本書は「異次元緩和」策の舞台裏から日銀総裁の交代劇まで、10年余にわたる動きをヴィヴィッドに伝える。それはまた、当事者である安倍・黒田両人をはじめ政府・自民党や日銀などの関係者が、どんな役割を果たしたか、詳細に辿った日本金融史の貴重な記録でもある。
「これまでとは次元の異なる金融緩和」との黒田発言が由来の「異次元緩和」なる暴走車は、世界にも例を見ない異質さで、迷走し続けた。その結果が、日本経済の長期低落であり、格差拡大、 国民生活の破壊だった。アベノミクス旗振りの張本人が亡くなっても、依然ブレーキはかからないままだ。
著者は初の学者出身・植田和男総裁について、「『異次元の世界』から早く脱出し、元の正常な姿に戻そうと、もがいているように見える」と評している。
だが今なによりも重要なことは、依然疾走し続ける“暴走車”を止めることだ。それができなければ、日本経済と国民生活は、奈落の苦しみが続くのは必至である。(岩波新書960円)
「2%の物価上昇」を旗印に、大幅な金融緩和を行い、経済に好循環をもたらすとの旗印を掲げ、中央銀行の“禁じ手”とされてきた手法を次々と弄してきた。その結果、「好循環」どころか日本を「成長が止まった国」「賃金が目減りする国」に陥らせた。
ベテラン経済ジャーナリストによる本書は「異次元緩和」策の舞台裏から日銀総裁の交代劇まで、10年余にわたる動きをヴィヴィッドに伝える。それはまた、当事者である安倍・黒田両人をはじめ政府・自民党や日銀などの関係者が、どんな役割を果たしたか、詳細に辿った日本金融史の貴重な記録でもある。
「これまでとは次元の異なる金融緩和」との黒田発言が由来の「異次元緩和」なる暴走車は、世界にも例を見ない異質さで、迷走し続けた。その結果が、日本経済の長期低落であり、格差拡大、 国民生活の破壊だった。アベノミクス旗振りの張本人が亡くなっても、依然ブレーキはかからないままだ。
著者は初の学者出身・植田和男総裁について、「『異次元の世界』から早く脱出し、元の正常な姿に戻そうと、もがいているように見える」と評している。
だが今なによりも重要なことは、依然疾走し続ける“暴走車”を止めることだ。それができなければ、日本経済と国民生活は、奈落の苦しみが続くのは必至である。(岩波新書960円)
2024年02月27日
【おすすめ本】西谷 文和『万博崩壊 どこが「身を切る改革」か!』―利権と勢力の拡大に利用 維新政治を打ち破る展望示す=桜田 照雄(阪南大学教授)
科学的な認識や事実,知性への信頼をもたない首長が、自らが率いる政党の利権と勢力を拡大する手段としたのが,巨大イベントの万博である。大阪市の公式記録には夢洲誘致は松井知事の独断と記されている。しかも、博覧会というイベントそれ自体が,もはや「時代遅れ」で開催の意義すら見いだせずにいる。
それだけではない。会場の夢洲は、高度処理を要する管理型廃棄物処分場として(夢洲1区),大阪湾口の浚渫土砂と建設残土の処分場(二・三・四区)として造成されてきた。数多くの海底活断層が存在し直下型地震と津波の「巣」と言われる大阪湾。工業地・準工業地として活用が目論まれていたので,商業用地として高層ビルを建設することなど,想定しない護岸設計なのである。
津波がくれば,脆弱な護岸が破壊され,甚大な被害が想定される。計画によれば、災害のリスクは認識されているものの、その対策は皆無である。
藤永のぶよは、夢洲の現状をつぶさに描き、計画の荒唐無稽さを明らかにする(第一章)。
ところが、批判に目もくれず、維新府政・市政によって無謀な計画が強行される。維新府政・市政への圧倒的な府民・市民の支持が背景にあるのは事実である。
では、なぜ維新は支持されるのか、内田樹が批判的に分析を行う(二章)。
そして、第三章で経済学者の金子勝が、維新政治を打ち破る展望を語る。
西谷文和の巧みなリードで「崩壊」から復活の展望が示された好著であり、幅広い読者にぜひ、お読みいただきたい。
(せせらぎ出版1300円)
それだけではない。会場の夢洲は、高度処理を要する管理型廃棄物処分場として(夢洲1区),大阪湾口の浚渫土砂と建設残土の処分場(二・三・四区)として造成されてきた。数多くの海底活断層が存在し直下型地震と津波の「巣」と言われる大阪湾。工業地・準工業地として活用が目論まれていたので,商業用地として高層ビルを建設することなど,想定しない護岸設計なのである。
津波がくれば,脆弱な護岸が破壊され,甚大な被害が想定される。計画によれば、災害のリスクは認識されているものの、その対策は皆無である。
藤永のぶよは、夢洲の現状をつぶさに描き、計画の荒唐無稽さを明らかにする(第一章)。
ところが、批判に目もくれず、維新府政・市政によって無謀な計画が強行される。維新府政・市政への圧倒的な府民・市民の支持が背景にあるのは事実である。
では、なぜ維新は支持されるのか、内田樹が批判的に分析を行う(二章)。
そして、第三章で経済学者の金子勝が、維新政治を打ち破る展望を語る。
西谷文和の巧みなリードで「崩壊」から復活の展望が示された好著であり、幅広い読者にぜひ、お読みいただきたい。
(せせらぎ出版1300円)
2024年02月19日
【おすすめ本】青木 美希『なぜ日本は原発を止められないのか?』―事故の記憶を呼ぶ覚ます キーパーソンの戦いと挫折の跡も=七沢潔(ジャーナリスト)
これは急激に「原発回帰」に向かう日本と日本人の横っ面を思い切り引っ叩いて、忘れかけている原発事故の記憶のリマインドを迫る書である。
本の構成は「復興」から事故プロセス、原発マネー、核兵器、脱原発と読み手の関心を誘うように蛇行するが、「原子力ムラ」「安全神話」「規制の虜」「原発ゼロ」「避難計画」・・・断続的に挿入されるこの12年間の新聞記事は、事故直後には日本の原子力体制の矛盾を暴き、批判する言説が溜まったマグマのように噴出していたことを思い出させる。同時に著者が直撃取材したキーパーソンたちの闘いの跡からは、なりふり構わず窮地を脱しようともがく原子力ムラの分厚い岩盤が目の当たりになる。
原子力委員長代理としてムラの排除の論理に当惑し続けた鈴木達治郎、電力会社と官僚の根腐れた癒着を語る元経済産業省官僚の古賀茂明、巨大津波を予測しながら無視され、原子力規制委員として活断層の影響を値切る関西電力により切られた地震学者の島崎邦彦、大飯原発3,4号機の運転差し止めを命じた元福井地裁の裁判長、樋口英明・・・権力の間近で、真っ当な判断を試みた彼らの抵抗は悉く挫折していく。
その一方で著者は汚染水放出に苦しむ漁業者や、帰る見込みも立たない帰還困難区域からの避難者など生活を壊され、追い込まれたまま忘れ去られようとする人々への眼差しを保ち続ける。
「忘れてはならない。人々の犠牲のうえに原発は動いている」(「おわりに」から)
所属する新聞社から記者職を追われながらも現場に通い続けるジャーナリストの入魂に心が熱くなる。文春新書(1091円)
本の構成は「復興」から事故プロセス、原発マネー、核兵器、脱原発と読み手の関心を誘うように蛇行するが、「原子力ムラ」「安全神話」「規制の虜」「原発ゼロ」「避難計画」・・・断続的に挿入されるこの12年間の新聞記事は、事故直後には日本の原子力体制の矛盾を暴き、批判する言説が溜まったマグマのように噴出していたことを思い出させる。同時に著者が直撃取材したキーパーソンたちの闘いの跡からは、なりふり構わず窮地を脱しようともがく原子力ムラの分厚い岩盤が目の当たりになる。
原子力委員長代理としてムラの排除の論理に当惑し続けた鈴木達治郎、電力会社と官僚の根腐れた癒着を語る元経済産業省官僚の古賀茂明、巨大津波を予測しながら無視され、原子力規制委員として活断層の影響を値切る関西電力により切られた地震学者の島崎邦彦、大飯原発3,4号機の運転差し止めを命じた元福井地裁の裁判長、樋口英明・・・権力の間近で、真っ当な判断を試みた彼らの抵抗は悉く挫折していく。
その一方で著者は汚染水放出に苦しむ漁業者や、帰る見込みも立たない帰還困難区域からの避難者など生活を壊され、追い込まれたまま忘れ去られようとする人々への眼差しを保ち続ける。
「忘れてはならない。人々の犠牲のうえに原発は動いている」(「おわりに」から)
所属する新聞社から記者職を追われながらも現場に通い続けるジャーナリストの入魂に心が熱くなる。文春新書(1091円)
2024年02月16日
【おすすめ本】上丸洋一『南京事件と新聞報道 記者たちは何を書き、何を書かなかったか』─著者の責任感が書かせた本格検証=藤森研(JCJ代表委員)
「論争的なテーマはさわらない方が安全だ」。そんな空気がメディアに蔓延している。だが著者(元朝日新聞編集委員)は南京虐殺事件の報道を検証し、世に問うた。なぜ今あえて?
450頁を超える大著は「これでもか」と事実を積み上げる。当時の全国紙、地方紙、全国紙地方版、戦史、日記、研究論文と調査は分厚く、状況を浮かび上がらせる。
死屍累々たる揚子江岸「下関」では何が起きたのか、南京城外・幕府山での約1万5千人もの中国人捕虜のその後は? それらを新聞はどう報じたのか、何を報じなかったのか。
著者は「南京・下関に死体の山があったといった描写は当時の新聞にもみられるが、多数の捕虜を機関銃で虐殺する場面を…具体的に描いた記事はない」とする。第一の理由は報道統制だった。だが「当時は戦意高揚が記者の最大の使命だと思っていました」という元記者の言葉も紹介する。
ほとんどの南京の従軍記者は、戦後も沈黙を続けた。南京事件の新聞報道を見わたす作業は、ほぼ手つかずだった。
「書くべきことを書かなかった責任は、たとえ長い時を経たとしても、改めて書くことでしか果たされない」と考える著者は、3年半をかけて、国会図書館のマイクロフィルムに向き合い、遠隔地の図書館を訪ね、体を痛めつつ本書を次代に残した。執念の底には一人のジャーナリストとしての職能的な責任感があった。
「何を書き、何を書かなかったか」。それは私たちも後世から問われ続ける。(朝日新聞出版2600円)
450頁を超える大著は「これでもか」と事実を積み上げる。当時の全国紙、地方紙、全国紙地方版、戦史、日記、研究論文と調査は分厚く、状況を浮かび上がらせる。
死屍累々たる揚子江岸「下関」では何が起きたのか、南京城外・幕府山での約1万5千人もの中国人捕虜のその後は? それらを新聞はどう報じたのか、何を報じなかったのか。
著者は「南京・下関に死体の山があったといった描写は当時の新聞にもみられるが、多数の捕虜を機関銃で虐殺する場面を…具体的に描いた記事はない」とする。第一の理由は報道統制だった。だが「当時は戦意高揚が記者の最大の使命だと思っていました」という元記者の言葉も紹介する。
ほとんどの南京の従軍記者は、戦後も沈黙を続けた。南京事件の新聞報道を見わたす作業は、ほぼ手つかずだった。
「書くべきことを書かなかった責任は、たとえ長い時を経たとしても、改めて書くことでしか果たされない」と考える著者は、3年半をかけて、国会図書館のマイクロフィルムに向き合い、遠隔地の図書館を訪ね、体を痛めつつ本書を次代に残した。執念の底には一人のジャーナリストとしての職能的な責任感があった。
「何を書き、何を書かなかったか」。それは私たちも後世から問われ続ける。(朝日新聞出版2600円)
2024年02月10日
【おすすめ本】金平茂紀 大矢英代『「新しい戦前」のなかでどう正気を保つか』日米のメディア状況を分析 近未来を見通すために=鈴木耕(編集者)
今年は穏やかな年でありますように…と年賀状に書いた。でも元旦の夕刻におきた能登半島大地震、翌日の日航機火災、厳しい2024年の幕開けである。天変地異や事故だけではなく日本(いや、世界中)の政治そのものが崩壊寸前であるようにさえ見える。政治社会の混乱の世を「新しい戦前」とみなし、その中でどう正気を保つかを論じたのが、金平茂紀氏と大矢英代氏の対談集である。新しい戦前の進行に私たちはどう立ち向かい抗えばいいのか、まことに示唆に富む。
第1部では日米のメディア状況を分析する。大矢氏は現在、米カリフォルニア州立大学フレズノ校でジャーナリズム論を教える准教授。金平氏は著名なジャーナリスト。だから話は当然、日米のメディア状況に及ぶ。その上で「2022年が新しい戦前の分岐点」になったのではないかと結論づける。なるほど、安倍元首相暗殺事件が、その銃爪を引いたのか。
もともとアルジャジーラに就職希望だったという大矢氏が、なぜ沖縄に拠点を置いたか。沖縄で見つけた大切なものとは何か。渡米の経緯。そして沖縄の現状をアメリカの学生たちはどう感じているか。前線基地化する沖縄・南西諸島の現状を憂え、日米政府のやり方を強く批判することは、おふたりに共通する。それは評者の私も、強く共感できるのだ。
変容する日本、自治や分権の不在は、昨年末の辺野古訴訟における福岡高裁那覇支部の判決に如実に示されている。本書の指摘がそのまま現実になるという、この国の不幸。そのような危機感を共有することで成立したのが本書だ。近未来≠見通す上でも、ぜひ読んでほしい1冊である。(かもがわ出版、1600円)
第1部では日米のメディア状況を分析する。大矢氏は現在、米カリフォルニア州立大学フレズノ校でジャーナリズム論を教える准教授。金平氏は著名なジャーナリスト。だから話は当然、日米のメディア状況に及ぶ。その上で「2022年が新しい戦前の分岐点」になったのではないかと結論づける。なるほど、安倍元首相暗殺事件が、その銃爪を引いたのか。
もともとアルジャジーラに就職希望だったという大矢氏が、なぜ沖縄に拠点を置いたか。沖縄で見つけた大切なものとは何か。渡米の経緯。そして沖縄の現状をアメリカの学生たちはどう感じているか。前線基地化する沖縄・南西諸島の現状を憂え、日米政府のやり方を強く批判することは、おふたりに共通する。それは評者の私も、強く共感できるのだ。
変容する日本、自治や分権の不在は、昨年末の辺野古訴訟における福岡高裁那覇支部の判決に如実に示されている。本書の指摘がそのまま現実になるという、この国の不幸。そのような危機感を共有することで成立したのが本書だ。近未来≠見通す上でも、ぜひ読んでほしい1冊である。(かもがわ出版、1600円)
2024年02月05日
【おすすめ本】武田 砂鉄『なんかいやな感じ』―近過去を斜めに活写 蘇る橋本治の匂い=鈴木耕(編集者)
紙面が匂い立つことがある。私はこの著者のファンでほとんどの著作は読んでいるけれど、それは彼の文章の匂いに惹かれるからだと言ってもいい。でも、本書の匂いにはどこかで接したことがあるなあ…と読みながら思っていた。「あとがき」に辿り着いてその謎が解けた。あ、この匂いは橋本治さんなんだな。文体が似ているというわけではない。けれど橋本さんの『ああでもなくこうでもなく』(全5巻マドラ出版)が私の頭に浮かんだ。「あとがき」によれば、本書はいわゆる純文芸誌「群像」に<その死によって中断した橋本さんの連載の続き>というような意味合いで編集部から依頼されたのがきっかけだったという。うむ、橋本治さんの<続き>として著者に目をつけた編集者はなかなかの慧眼だったと私は思う。
前出の橋本さんの本が時評集であったことを受けて、本書も一応はその体裁をとる。だが著者は<近過去としての平成>を入り口にして、様々な現在をまるで魔法のように写し出す。その手つきに私は頷きながら驚かされる。しかも「なんかいやな感じ」という感覚を私も共有しているのだから、読みだしたら止まらない。著者が小学生から中学高校生、そして大学生から社会人になる過程で体験した事柄をどう消化し、同じ事柄が社会の中でどう消費されていったかを、ややアクロバティックな回り道をしながら描いていく。歌謡曲を口ずさみ、社会現象を斜めに見ながら、政治家を俎上にあげる。それらを包むキイワードが「なんかいやな感じ」である。
ちなみに私は編集者として橋本さんとは長い間お付き合いさせてもらった。だから本書を読むのはとても楽しかった。
(講談社1600円)
前出の橋本さんの本が時評集であったことを受けて、本書も一応はその体裁をとる。だが著者は<近過去としての平成>を入り口にして、様々な現在をまるで魔法のように写し出す。その手つきに私は頷きながら驚かされる。しかも「なんかいやな感じ」という感覚を私も共有しているのだから、読みだしたら止まらない。著者が小学生から中学高校生、そして大学生から社会人になる過程で体験した事柄をどう消化し、同じ事柄が社会の中でどう消費されていったかを、ややアクロバティックな回り道をしながら描いていく。歌謡曲を口ずさみ、社会現象を斜めに見ながら、政治家を俎上にあげる。それらを包むキイワードが「なんかいやな感じ」である。
ちなみに私は編集者として橋本さんとは長い間お付き合いさせてもらった。だから本書を読むのはとても楽しかった。
(講談社1600円)
2024年01月30日
【おすすめ本】猫塚義夫・清末愛沙『平和に生きる権利は国境を超える パレスチナとアフガニスタンにかかわって』─人道支援を続けてきた医師と法学者が鋭く問う=香山リカ(精神科医)
アフガニスタンやパレスチナで起きている人道危機。ニュースでは知っていても、それが世界地図のどのあたりで起きているのか分からない、という若者もいる。彼らに関心を持ってもらうのに必要なのは、「具体的な話」だ。
本書は、北海道パレスチナ医療奉仕団の団員として、アフガニスタンやパレスチナで、人道支援を続けてきた法学者と医師による対話集である。
両人とも学術的バックグラウンドを持つ“行動の人”だ。過去の支援活動においてガザ地区の病院で手術をしていたら停電になり、看護師たちがスマホの灯りをかざして手元を照らしてくれた、といった猫塚医師の話にリアリティを感じない人はいないだろう。
こういった生々しい話が続いたあと、ふたりは日本国憲法が持つ先駆性について語る。とくにその前文に、日本国民のみならず全世界の国民が、「平和のうちに生存する権利を有する」と謳われていることの意義だ。
清末教授は言う。「私たちの活動は国境を越えた活動に見えるでしょう。それは間違いではありませんが、同じレベルで足元の日本の社会での平和的生存権の実現をめざすことが肝要です。足元を見ずに、国境を越えて活動はできません。」
さらにふたりは、先住民族アイヌが住む土地を収奪して成り立った歴史を持つ北海道の団体が、イスラエルに植民地化されたパレスチナにかかわる意義にも触れる。実は私も北海道パレスチナ医療奉仕団のメンバーである。まだ現地を訪れたことはないのだが、事態が少しでも落ち着いたら必ず医療支援に出かけたい。(あけび書房1600円)
本書は、北海道パレスチナ医療奉仕団の団員として、アフガニスタンやパレスチナで、人道支援を続けてきた法学者と医師による対話集である。
両人とも学術的バックグラウンドを持つ“行動の人”だ。過去の支援活動においてガザ地区の病院で手術をしていたら停電になり、看護師たちがスマホの灯りをかざして手元を照らしてくれた、といった猫塚医師の話にリアリティを感じない人はいないだろう。
こういった生々しい話が続いたあと、ふたりは日本国憲法が持つ先駆性について語る。とくにその前文に、日本国民のみならず全世界の国民が、「平和のうちに生存する権利を有する」と謳われていることの意義だ。
清末教授は言う。「私たちの活動は国境を越えた活動に見えるでしょう。それは間違いではありませんが、同じレベルで足元の日本の社会での平和的生存権の実現をめざすことが肝要です。足元を見ずに、国境を越えて活動はできません。」
さらにふたりは、先住民族アイヌが住む土地を収奪して成り立った歴史を持つ北海道の団体が、イスラエルに植民地化されたパレスチナにかかわる意義にも触れる。実は私も北海道パレスチナ医療奉仕団のメンバーである。まだ現地を訪れたことはないのだが、事態が少しでも落ち着いたら必ず医療支援に出かけたい。(あけび書房1600円)
2024年01月20日
【23図書回顧―私のいちおし】100年先の農、食を巡るシステムとは=鈴木久美子(東京新聞編集委員)
平らな土地に木を植えて、落ち葉を堆肥にして土を肥やす。埼玉県西部で300年以上続いている武蔵野の落ち葉堆肥農法が今年、国連食糧農業機関(FAO)から世界農業遺産に認定された。自然に即した伝統的な農法が今も農業として成り立っていることが条件で、生物多様性を高め、地域の文化を培うといった点も審査される。2002年開始のこの制度では、環境、経済、文化など現代の課題を評価していることに、取材した折、感心した。
評価の基準が変われば価値観も変わる。真田純子著「風景をつくるごはん 都市と農村の真に幸せな関係とは」(農山漁村文化協会)は、100年先に向けて農業や農村、食を巡る社会のシステムを変える一歩を探る。
景観工学が専門の大学教授である著者は、徳島に赴任したのを機に農村の風景を研究した。石積みという伝統的な技術を身に付け、伝える活動もしている。農村の風景は農業という営みの結果であり、農家がどのような農業を行うかは、消費者の購買行動や農業政策に左右される―そうした関係性を「風景をつくるごはん」と名付けた。
高度成長以降、生産性や効率を軸に農政、流通、消費が展開した結果、中山間地で過疎化が進んだのが現状だ。これからは環境を軸に据えた農業が経済的に成り立ち、農村の暮らしの豊かさにつながる風景ができないかと著者は考える。そこに関わりのない人はいない。近年いち早く環境保全の視点を組み入れたEUの農業政策も詳細に紹介し、参考になる。
地方の過疎化はイタリアでも同様だ。島村菜津著「世界中から人が押し寄せる小さな村 新時代の観光の哲学」(光文社)は、世界的に注目される同国の「分散型の宿」と訳される取り組みを紹介している。山村で増える空き家を宿泊施設にして、自然や地元の暮らしそのものを楽しむ「本物を求める」旅の提案だ。地方と都市の豊かな関わりの模索でもある。
2024年01月16日
【おすすめ本】中村梧郎『記者狙撃 ベトナム戦争とウクライナ』─侵略者が行う戦場での犯罪行為 リアルに伝える重要さ=古田元夫(日越大学学長)
書名の「記者狙撃」と は、1979年に起きた中越戦争(中国とベトナムの国家間戦争)の3月7日、ベトナム北部ランソンで、「赤旗」特派員の高野功記者が、中国軍の狙撃を受けて死亡した事件のことである。
中国は、2月17日に陸上国境全線でベトナム領内に侵攻したが、3月5 日には「懲罰」の目的が 達したとして撤退を発 表。だがランソン市内には中国軍が引き続き残留し、戦闘が続いていることを、高野記者の死は身をもって世界に示した。
著者は、この高野氏の取材に別の車で同行しており、高野氏が亡くなった際には同時に狙撃を受け、九死に一生を得た体験の持ち主だ。本書では事件後40年以上を経て、著者が明らかにした事件の経緯も書かれている。
当時ベトナム研究者になったばかりの私にとっても、高野氏の死は衝撃的だった。さらに勇気あるジャーナリストによる戦場からの報道が、超大国アメリカの敗北に帰結したベトナム戦争の終結からまだあまり時間が経過していない当時、最前線からの報道を試みた高野氏の勇気ある行動には違和感はなかった。
ところが、その後、今日のウクライナに至るまで、繰り返されてきた大国による侵略戦争では、危険がある紛争地にジャーナリストが行くこと自体を、非難がましく見るような傾向が広がっている。
本書は、このような傾向は、侵略者が行う戦場での犯罪行為を隠蔽する手助けになっていると指摘し、「侵略戦争」には 断固反対、「抵抗戦争」は断固支持、という立場を貫く重要性を、今日のウクライナの事態も踏まえて訴えている。戦場フォトグラファーとして活躍してきた著者の言葉には強い説得力がある。(花伝社1700円)
中国は、2月17日に陸上国境全線でベトナム領内に侵攻したが、3月5 日には「懲罰」の目的が 達したとして撤退を発 表。だがランソン市内には中国軍が引き続き残留し、戦闘が続いていることを、高野記者の死は身をもって世界に示した。
著者は、この高野氏の取材に別の車で同行しており、高野氏が亡くなった際には同時に狙撃を受け、九死に一生を得た体験の持ち主だ。本書では事件後40年以上を経て、著者が明らかにした事件の経緯も書かれている。
当時ベトナム研究者になったばかりの私にとっても、高野氏の死は衝撃的だった。さらに勇気あるジャーナリストによる戦場からの報道が、超大国アメリカの敗北に帰結したベトナム戦争の終結からまだあまり時間が経過していない当時、最前線からの報道を試みた高野氏の勇気ある行動には違和感はなかった。
ところが、その後、今日のウクライナに至るまで、繰り返されてきた大国による侵略戦争では、危険がある紛争地にジャーナリストが行くこと自体を、非難がましく見るような傾向が広がっている。
本書は、このような傾向は、侵略者が行う戦場での犯罪行為を隠蔽する手助けになっていると指摘し、「侵略戦争」には 断固反対、「抵抗戦争」は断固支持、という立場を貫く重要性を、今日のウクライナの事態も踏まえて訴えている。戦場フォトグラファーとして活躍してきた著者の言葉には強い説得力がある。(花伝社1700円)
2024年01月12日
【`23読書回顧─私のいちおし】「忘却」に抗う女性の闘いへエール=小塚かおる(「日刊ゲンダイ」編集局長)
冒頭から私自身の話で恐縮だが、今年10月に刊行の拙著『安倍晋三vs.日刊ゲンダイ』を執筆する中で、<忘れないで記憶にとどめる><忘れないように語り続ける>ことの大切さと、それを記録として残すという記者の大事な仕事を、改めて意識した。そんな観点で2作品を挙げたい。
青木美希『なぜ日本は原発を止められないのか?』(文春新書)は、福島第一原発事故後の被災地・被災者の実情や原発政策を追い続けている彼女の3冊目の単著だ。本書では、ゴーストタウン化して名ばかりの「復興拠点」となっている避難解除地区を丹念にルポするとともに、歴史を俯瞰し、研究者や官僚、政治家など多数の当事者を訪ね「原発が止められない理由」に迫って行く。
ハッとさせられたのは、原発事故を受けて政府が発令した「原子力緊急事態宣言」が、12年を経た今も解除されていないという事実だ。ややもすると「復興」という政府広報に不都合な真実は覆い隠されてしまう。政官業学と共に「原子力ムラ」 の一角を占めるマスコミも加担しがちだ。そんな中で「忘却」に抗う彼女の存在は大きい。
『がんばりょんかぁ、マサコちゃん』(全3巻、原作・宮ア克、漫画・魚戸おさむ、小学館)は、フィクションの形を取ってはいるが、森友学園をめぐる財務省の公文書改ざんで自死した公務員の妻、赤木雅子さんの闘いを描いている。
マンガ本の良さは、主人公の人柄や心情に、すうっと入っていけることにある。雅子さんは「闘って」いるが、もともと闘いなどしたいわけではない。物語を読み進めるほどに財務省が改ざんさえ指示しなければ、今も幸せな夫婦の日常があっただろうと、ますます憤りが込みあげる。
国を訴えた裁判は国側が負けを認める「認諾」で終結した。当時の理財局長との控訴審も12月19日の判決で、改ざんに至る「真実を知りたい」という雅子さんの願いは叶わずだ。「無理が通れば道理が引っ込む」とさせないためにも、彼女の闘いを忘れてはならない。
2024年01月04日
23年読書回顧―私のいちおし 死者の身元解明に挑む学者の回想録=平野久美子(ノンフィクション作家)
「法人類学者」という職業をご存じだろうか。
彼らは、世界各地で頻発する紛争や,災害に遭って放置され、白骨化や腐敗した遺体、時には氷河が溶けて忽然と現れた前世紀の死者のもとへ駆けつけて、人種や年齢などを割り出し、生前の顔つきまで再現するプロフェッショナルだ。
スー・ブラック著「死体解剖有資格者 法人類学者が見た生と死の距離」(草思社) は、この道の世界的権威である英国の法人類学者スー・ブラック博士の、長年にわたる驚くべき体験の回想録であり、スコットランドのサルティア・ソサエティ賞のミステリー部門受賞作でもある。
門外漢の私がこの作品を手にしたのは、2020年に母がショートステイ先で異状死(治療中の疾病により病院で亡くなった以外の,すべての死をこう呼ぶ)扱いになったことと関係がある。人間は亡くなり方によって尊厳の扱いがこうも違う・・・。そのことを知った私は、2022年に自身の体験を踏まえて、異状死にまつわる本を出版した。死者にも人間としての尊厳があってほしい、という思いが、自分とブラック博士を引き合わせたと思っている。
読み進むうちに、強い使命感をもって地獄絵さながらのジェノサイドや災害地に赴き、「死者の尊厳」を回復する姿に同じ女性として心を打たれた。ブラック博士は粘り強く身元判明に努力し、死者に名前やアイデンティティーを取り戻し、遺体を遺族に引き渡す。人類学的見地から個人情報を抽出する法人類学者は、法医学者と違って医師ではないが、解剖の有資格者である。それが本書のタイトルになっているわけだ。
コソボ紛争で犠牲となった子供たちの調査の様子(第十章)は、パレスチナやウクライナで起きている非人道的な戦いを想起させるし、法人類学がどれほど重要な役割を果たしているかを教えてくれる。知ることの大切さと新しい地平を切り拓いてくれる本だ。
2023年12月28日
【おすすめ本】大森淳郎『ラジオと戦争 放送人たちの「報国」』―ラジオは戦争を煽ったのか、痛恨の史実を暴き出す=永田浩三(武蔵大学教授)
著者は、テレビ界の良心として知られるドキュメンタリーの名手である。ETV特集と『放送研究と調査』の論文をもとに14年かけて完成。今年の毎日出版文化賞に輝いた。
ラジオはこれまで心ならずも戦争への協力を強いられたとされてきた。わずかに残る原稿、録音、関係者の証言から、戦争を自ら煽った事実が次々に明らかになる。
盧溝橋事件の放送原稿を見てみる。放送では日中両軍の緊張を高めるよう、同盟通信が配信した原稿を書き替えていた。軍の方針を後押しする。これがニュースの編集方針だった。
1941年の九龍半島への攻撃を伝える録音が見つかった。砲弾が空気を切り裂いて飛ぶ。炸裂する轟音の中を逃げ惑う人たちの悲鳴が聞こえる。臨場感あふれる構成は戦争の悲惨を訴えるのではなく、中国民衆と対比し日本人の幸福を際立たせる創意工夫だった。
こんな逸話がある。米国で教育学を学んだ西本三十二は、1930年、大阪放送局(BK)での収録で、女性は非戦を体現する存在で、世界平和のために果たす役割は大きいと語った。検閲担当者は軍への侮辱だとして再考を求めた。BKは一計を案じる。検閲逃れのために大阪ではなく広島から発信することで、全国放送を実現した。当時はまだ裁量が残っていたのだ。その後、西本は放送に転じるが、教養・教育番組もすでに軍の宣伝の道具に変わりはててた。戦争にどう協力するか、これが当時の放送人の唯一のものさしだった。
今はどう違うのか。自身に突き付ける著者の問いは重い。(NHK放送文化研究所3600円)
ラジオはこれまで心ならずも戦争への協力を強いられたとされてきた。わずかに残る原稿、録音、関係者の証言から、戦争を自ら煽った事実が次々に明らかになる。
盧溝橋事件の放送原稿を見てみる。放送では日中両軍の緊張を高めるよう、同盟通信が配信した原稿を書き替えていた。軍の方針を後押しする。これがニュースの編集方針だった。
1941年の九龍半島への攻撃を伝える録音が見つかった。砲弾が空気を切り裂いて飛ぶ。炸裂する轟音の中を逃げ惑う人たちの悲鳴が聞こえる。臨場感あふれる構成は戦争の悲惨を訴えるのではなく、中国民衆と対比し日本人の幸福を際立たせる創意工夫だった。
こんな逸話がある。米国で教育学を学んだ西本三十二は、1930年、大阪放送局(BK)での収録で、女性は非戦を体現する存在で、世界平和のために果たす役割は大きいと語った。検閲担当者は軍への侮辱だとして再考を求めた。BKは一計を案じる。検閲逃れのために大阪ではなく広島から発信することで、全国放送を実現した。当時はまだ裁量が残っていたのだ。その後、西本は放送に転じるが、教養・教育番組もすでに軍の宣伝の道具に変わりはててた。戦争にどう協力するか、これが当時の放送人の唯一のものさしだった。
今はどう違うのか。自身に突き付ける著者の問いは重い。(NHK放送文化研究所3600円)