2021年05月24日
【福島第一原発事故】新聞各社が総力紙面 朝毎 原発回帰の底流に警告 読売の論調に変化の兆し=高橋弘司
未曾有の被害を出した福島第1原発事故から10年となった今年3月、主要新聞社の報道は、「歴史を刻む」という新聞の使命を思い起こさせる質と量だった。各紙が総力を挙げて伝えた紙面を振り返る。
国論を二分する原発問題を各紙はどう報じたか。まずは3月11日前後の社説や記者論文をみてみよう。朝日新聞社説は事故後の2011年7月に社説で打ち出した「原発ゼロ社会」をめざすべきとの提言を振り返り、「生々しい記憶が10年の歳月とともに薄れつつあるいま、脱原発の決意を再確認したい」と強調。そのうえで事故直後、「30年代の原発ゼロ」を打ち出した民主党政権に代わり、翌年政権を奪還した自公政権が原発推進に針を戻してしまったと批判した。
毎日新聞社説は過去10年の日本のエネルギー政策を「現実から目を背けた原発回帰だ」と指摘、「結果的に再生可能エネルギーを急拡大させる世界の潮流から取り残されてしまった」と政府に原発政策の再考を強く迫った。「復興五輪」のスローガンがいつの間にか「コロナに打ち勝った証」とすり替えられた欺瞞を突き、「10年は節目ではない」と喝破した1面の福島支局長論文にハッとさせられた。
産経は推進
一方、読売新聞社説は「惨禍の教育を次代につなごう」と訴えながら、福島の被災地について「再生への道筋を見いだせずにいる」などと短く触れたに過ぎず、原発問題への踏み込みを避けた。
これに対し、産経新聞社説は「廃炉前進に国は全力挙げよ」と強調。そのうえで温暖化防止に向けた世界の潮流を意識し、菅政権が「50年までの温室効果ガス排出実質ゼロ」を表明したことに触れ、脱炭素に向けた現実解は「原発ベース電源復帰をおいて他にない」と原発推進を鮮明に打ち出した。一方、東京新聞社説は福島県双葉町に昨年開館した「東日本大震災・原子力災害伝承館」の展示に、安全神話を掲げ、原発誘致を主導した国や県、東電の責任などへの言及がないと指摘、「影をこそ伝えたい」と批判した。
次に特徴的な紙面を見てみる。まずは朝日新聞が原発回帰への時代の底流に警鐘を鳴らした点が目を引いた。3月7日付朝刊で「脱炭素の裏〜原発復権画策」と書き、3月5日付朝刊で「静かに進む原子力回帰」と3人の識者の見方を紹介、国民の間で十分な議論がないまま進む現状を批判した。民族学者の赤坂憲雄さんが震災直後、「東北はまだ植民地だったのか」と新聞寄稿で書いた状況から「変わっていない」と指摘したインタビューも印象的だった。
多角的視野で
毎日新聞は震災直後、首相の諮問機関「復興構想会議」が震災からの復興を目指して打ち出した7原則を1つずつ検証する「提言は生かされたか」と題した連載を3月1日から連日、3面で大きく展開。「除染対策」「再生エネルギー」「伝承」など多角的な視点で復興の問題点を浮き彫りにする試みが新鮮だった。
記事量で圧倒的だったのは読売新聞だ。3月1日から11日まで連日、「東日本大震災10年」と題し、イラストや写真をふんだんに使ったカラー特集を掲載。事故当時を住民証言で振り返る「被曝の恐怖」、住民帰還の現状を憂える「帰還なお見えず」、避難した3世帯のその後を追跡した記事など力作が目立った。
また、東京新聞は40年の廃炉原則を超えた原発が相次ぎ稼働しようとしている現状を見据え、「老朽原発〜危うい未来」と題した見開きのカラー特集を組み、ぶれない「反原発」の姿勢を示した。産経新聞は震災当時、多数の艦船、航空機を投入して被災地の復旧・復興に貢献した米軍の「トモダチ作戦」などで自衛隊の活躍ぶりを強調する記事が目立ち、やや過度に映った。
旧来の論調に変化の兆しが見られたのが読売新聞だ。3月1日付朝刊社会面トップで、福島県双葉町の商店街入り口にかつて掲げられていた「原子力、明るい未来のエネルギー」と題した広告塔の標語を小学校6年時に作った大沼勇治さん(44)を紹介。事故後の2011年夏、大型バスに町民が乗り、防護服姿で初めて立ち入りを許された際、このアーチの下をくぐると、車内がざわついた。罪悪感を抱いた大沼さんが「自分も加害者じゃないのか」という思いにかられたと書いた。15年にアーチが撤去された後も、保存を求め続け、昨年開館した「東日本大震災・原子力災害伝承館」に「遺構」として展示が決まったことを「光と影 伝えるアーチ」と報じた。
原発の「負の側面」に焦点をあてた5回連載の一環だった。双葉町には10年後も今も住民が1人も帰還できていない。伝統的に原発支持色の強かった読売新聞の論調が今後、どう変化するのか注視したい。
高橋弘司(横浜国立大学准教授、ジャーナリスト)
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年4月25日号
2021年04月24日
福島どう伝えたか 未曾有の事故から得た教訓 産業・文化・生活どう修復するか 欠けていた事故当時の報道=坂本充孝
立ち入りを制限するゲートの向こうの富岡町の住宅地(2016年撮影)
東京電力福島第一原発の事故から十年が経過した。事故の日を前後して新聞、テレビ、雑誌などのメディアは復興の兆しが見える被災地の様子をこぞって伝えた。一方でこの日本にはいまだ原発推進政策が健在で、老朽原発の再稼働への流れが進む現実がある。あの未曾有の事故から日本のジャーナリズムは何を学び、何を学ばなかったのか。改めて考えてみたい。
十年前の三月十二日、福島第一原発1号基の建屋が水蒸気爆発を起こして吹き飛ぶ映像を私は東京・日比谷にある東京新聞本社の特別報道部のテレビで見た。
本当の意味で日本の原発報道が始まったのは、あの日だった。
中曽根康弘元首相らの肝いりで原子力基本法が成立したのは一九五五年。それから五十年以上もの間、電力各社はあらゆる手段を使って原発政策を肯定する世論の醸成を計ってきた。報道各社には常軌を逸する金額の広告費が配られ、記者の中には接待攻勢を受けて骨抜きになった者もいた。反原発の記事を書けば、待ち受けたのは気味の悪い沈黙、無視だった。
津波対策を怠った福島の事故は、そうした異常な空気、原子力には触らない、批判しないという空気の果てに起きたことを忘れてはいけない。
お陰で実際に原発という怪物が制御不能に陥るという事態に直面したとき、どの報道機関も放射線防護の知識は何一つといっていいほど持ち合わせていなかった。
そのために犯した最大の失敗は「福島県に入ってはならない」というルールを各社が取材記者に科したことだ。記者の健康を守るという理由だったろうが、福島県内には二百万人を越える人々が食料や物資の不足に苦しみ、情報から隔てられておびえていた。報道機関の使命に照らせば、何らかの手段を講じて取材にあたる道を探すべきだったが、それすらできなかったのは、準備不足と無知が原因だったというほかはない。
特別支局を開設
それでもゲリラ的に県境を越える記者はいた。七月になると、東京新聞の社内では「福島取材OK」のお触れが流れた。
解禁の後押しをしたのは、脱原発に向けて動きだした世論の流れだ。連日、数万人もの人々が国会議事堂前に押し寄せ、「原発はいらない」と訴えた。そうした民衆の声を無視できなくなった。
実際に福島で取材をするようになると、新たな難問を突きつけられた。放射能汚染の実態をどのように伝えるべきかだ。
地震、水害などの被災地と違い、被害の実相が把握できなかった。福島市、郡山市などの都市部でも線量計は高い数値を示した。「子どもが鼻血を出す」と訴える母親もいた。しかし医学的な定見はほぼなく、百人百説が飛び交っていた。「県内の子どもは全員避難させるべき」と主張する学者もあり、伝えようでは県民の心を傷つけることにもなりかねなかった。ブロック紙で福島県内に取材拠点を持っていなかった東京新聞(中日新聞)は事故から一年半がが経過した二〇一二年十二月に福島特別支局を開設した。地元住民と同じ視点を得ることが開設の目的だったと思う。
私は二代目の支局長として二〇一五年から三年間を現地で過ごしたが、地元に生活の場を置き、普通の人々の話を聞いたのは大きな収穫だった。
誰もが口にするのが、海と山に囲まれた故郷のありがたさだった。
「人が住めない土地になる」「福島の農水産物はいらない」と投げ付けられた言葉が、人々の心にどれほど残酷に突き刺さったかを知らされた。
この土地を放棄する選択肢など当初からあっていいわけはなかった。放射線量をどのように下げるかはもちろん、破壊された産業や文化、生活などの傷跡を、どのように癒やし修復するかについて、日本中の知恵や人材を集め、資金を集めて、もっと真剣に人ごとではなく考えるべきだった。
そうした視点が少なくとも事故直後の報道には欠けていたように思える。いまさらではあるが、やはり記者は現場にいることが大切だ。
地に足をつけて
十年が経過して福島県海岸部の被災地に足を運ぶと、あまりの変化に目を奪われる。事故から五、六年の間は、人影がない町角、崩れ落ちた民家と、色彩を失ったような風景がどこまでも続いていた。今は真新しい復興住宅やモダンな公共ホールが整然と建ち並ぶ。
一方で柵の向こうには除染も終わっていない帰還困難区域が広がる。
自治体ごとに町おこし会社が生まれ、志を持って移住してきた若者が快活に働く姿もある。だが、昼日中でも町を歩く人の姿が数えるほどしか見られない現実は隠しようもない。人口減は復興助成金が途切れたときに各自治体に財政破綻をもたらすのではないか。
そうした現実も踏まえ、地に足を付けて被災地の今を伝え続けていかなければならない。
一方で、事故直後に盛り上がった「脱原発」の市民運動のうねりをもう一度、生み出さねばと思う。それは福島第一原発の事故を未然に防げなかった私たちが背負い続ける使命である。
坂本充孝(東京新聞編集委員)
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年3月25日号
2021年03月13日
【JCJ声明】原発事故を風化させてはならない 東日本大震災から10年
2月13日、福島県を中心に広く関東を覆うM7・3の地震が起きました。東京でも深度4を記録、気象庁は「大震災の余震とみられる」と発表、多くの人々がかつての東日本大震災の記憶を蘇らせました。メディアは「福島第一、第二原発に異常はない」と東電の発表を伝えましたが、実は10年前の震災で壊れ、水が漏れ続けている第1原発1、2号機で水位に変化がありました。メルトダウンした格納容器底部のデブリを冷却するため毎時3dの水を注入し、1号機では底部から1・9b、3号機では6・3bに保たれていた水位が、1号機では40〜70a、3号機では30a低下していることがわかったのです。
水位低下は1日数センチ程度で続いており、以前からの配管などに損傷個所が拡大した可能性もあります。また、設置してある地震計が2つとも壊れていて、揺れの程度はわからなかった、ともいいます。この緊張感の無さはなんなのでしょうか。
福島原発はこの10年間、事故収束のために廃炉作業が続けられていますが、2021年に開始し31年に完了する予定のデブリの取り出しすらめどが立っていませんし、増え続ける汚染水の海洋放出さえ計画しています。
10年前の3月11日、大震災が東日本を襲って以来、原発をなくすことは、多くの国民の一致した要求になったはずでした。ドイツがいち早く22年までに国内17基の原発を全て停止することを決め、イタリアでも原発再開計画が凍結、スイスでも34年までに原発全廃の方針が決まるなど、脱原発の傾向は世界中に広がっています。
日本政府も12年9月、野田佳彦政権が「2030年代に原発稼働ゼロ」を盛り込んだ「エネルギー・環境戦略」を閣議決定しようとしましたが、果たせなかった経緯があります。代わった安倍政権は「世界一の安全基準」を掲げ、原発輸出に血道を上げましたが、ベトナム、台湾、リトアニア、トルコ、英国などでことごとく失敗していることも、こうした世界の流れに背を向けた結果です。
財界はこうした中で、「原発のリプレース(建て替え)・新増設が必須だ」(中西宏明経団連会長)とし、今年2月には40年を超える関西電力・高浜原発1、2号機の再稼働 について、町に同意させるなど、原発推進を続けようとしています。
一方、福島の現場では、原発事故による政府の避難指示は、昨年3月までに全11市町村で解除されましたが、除染も不十分、インフラ整備も進まない状況で帰還率は上がっていません。17年に避難指示が一部解除された浪江町の居住率は現在9・1%、富岡町は12・6%にとどまるなど低く、人口も減少しています。放射能や医療体制への不安に加え、仕事がなかったり、生活用品の購入が不便だったりで「帰りたくても帰れない」状況が続いています。
汚染水の状況など、現状は放置されたままなのに「アンダー・コントロール」とウソを言って誘致した東京五輪は、昨年1年間延期しましたが、依然コロナ渦は解消しないなかで、3月25日には南相馬市から聖火リレーが始まります。「本当にできるのか」と不安視する人が多い中で、菅義偉・自公政権は「コロナに勝った証拠にしたい」と意気込んでいます。しかし世論調査では、1月のNHK、共同通信の調査では「中止すべき」と「さらに延期すべき」をあわせると約80%、2月の読売調査でも計61%で、大きく延期か中止に傾いています。五輪、パラリンピックとともに、不十分な「復興」を、自らの政権高揚に利用しようという意図は許すわけにいきません。
原発事故で避難した人たちなどが国に賠償を求めた千葉の集団訴訟で、2月19日東京高裁は、東電だけでなく国の責任を認める判決を言い渡しました。被害者による訴訟は全国で約30件争われていますが、高裁判決は3件目で、国の責任を認める判決も去年9月の仙台高裁に次いで2件目です。
判決は「元の居住地へ帰るために暫定的な生活を続けるか、帰るのを断念するかといった、意思決定をしなければいけない状況に置かれること自体が精神的な損害だ」とし、避難生活に対する慰謝料とともに、生活の基盤が大きく変わったことについても賠償すべきだという判断を示しています。国はこの際、その訴えをまともに受け止め、十分な生活補償をするべきです。(→続きを読む)
(→続きを読む)
水位低下は1日数センチ程度で続いており、以前からの配管などに損傷個所が拡大した可能性もあります。また、設置してある地震計が2つとも壊れていて、揺れの程度はわからなかった、ともいいます。この緊張感の無さはなんなのでしょうか。
福島原発はこの10年間、事故収束のために廃炉作業が続けられていますが、2021年に開始し31年に完了する予定のデブリの取り出しすらめどが立っていませんし、増え続ける汚染水の海洋放出さえ計画しています。
10年前の3月11日、大震災が東日本を襲って以来、原発をなくすことは、多くの国民の一致した要求になったはずでした。ドイツがいち早く22年までに国内17基の原発を全て停止することを決め、イタリアでも原発再開計画が凍結、スイスでも34年までに原発全廃の方針が決まるなど、脱原発の傾向は世界中に広がっています。
日本政府も12年9月、野田佳彦政権が「2030年代に原発稼働ゼロ」を盛り込んだ「エネルギー・環境戦略」を閣議決定しようとしましたが、果たせなかった経緯があります。代わった安倍政権は「世界一の安全基準」を掲げ、原発輸出に血道を上げましたが、ベトナム、台湾、リトアニア、トルコ、英国などでことごとく失敗していることも、こうした世界の流れに背を向けた結果です。
財界はこうした中で、「原発のリプレース(建て替え)・新増設が必須だ」(中西宏明経団連会長)とし、今年2月には40年を超える関西電力・高浜原発1、2号機の再稼働 について、町に同意させるなど、原発推進を続けようとしています。
一方、福島の現場では、原発事故による政府の避難指示は、昨年3月までに全11市町村で解除されましたが、除染も不十分、インフラ整備も進まない状況で帰還率は上がっていません。17年に避難指示が一部解除された浪江町の居住率は現在9・1%、富岡町は12・6%にとどまるなど低く、人口も減少しています。放射能や医療体制への不安に加え、仕事がなかったり、生活用品の購入が不便だったりで「帰りたくても帰れない」状況が続いています。
汚染水の状況など、現状は放置されたままなのに「アンダー・コントロール」とウソを言って誘致した東京五輪は、昨年1年間延期しましたが、依然コロナ渦は解消しないなかで、3月25日には南相馬市から聖火リレーが始まります。「本当にできるのか」と不安視する人が多い中で、菅義偉・自公政権は「コロナに勝った証拠にしたい」と意気込んでいます。しかし世論調査では、1月のNHK、共同通信の調査では「中止すべき」と「さらに延期すべき」をあわせると約80%、2月の読売調査でも計61%で、大きく延期か中止に傾いています。五輪、パラリンピックとともに、不十分な「復興」を、自らの政権高揚に利用しようという意図は許すわけにいきません。
原発事故で避難した人たちなどが国に賠償を求めた千葉の集団訴訟で、2月19日東京高裁は、東電だけでなく国の責任を認める判決を言い渡しました。被害者による訴訟は全国で約30件争われていますが、高裁判決は3件目で、国の責任を認める判決も去年9月の仙台高裁に次いで2件目です。
判決は「元の居住地へ帰るために暫定的な生活を続けるか、帰るのを断念するかといった、意思決定をしなければいけない状況に置かれること自体が精神的な損害だ」とし、避難生活に対する慰謝料とともに、生活の基盤が大きく変わったことについても賠償すべきだという判断を示しています。国はこの際、その訴えをまともに受け止め、十分な生活補償をするべきです。(→続きを読む)
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2020年12月29日
【福島第一原発事故】 いま被災地で何が オンラインで福島交流会 片山さん 苦しむ下請け作業員 谷さん 牛を生かし農地保全=坂本充孝

コロナ禍で明け暮れた2020年は東日本大震災、東京電力福島第一原発の事故から10年目となった年でもある。今、福島県の被災地で何が起きているのか。JCJは11月7日、オンラインで福島交流会を開催し、現地の事情を知るゲストから話を聞いた。
ゲストは東京新聞福島特別支局記者の片山夏子さん(写真下)と、帰還困難区域内で被災牛を飼育し続けてきた谷咲月さん(写真上)の2人。
居酒屋で胸中を
片山さんは原発事故から5カ月後の2011年8月から、高線量のイチエフで収束作業にあたる作業員の取材を開始。「ふくしま作業員日誌」を9年間に渡って連載し、今年2月、「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」大賞を受賞した。
連載をまとめた著書「ふくしま原発作業員日誌〜イチエフの真実、9年間の記録〜」は講談社本田靖春ノンフィクション賞に輝いた。
片山さんは取材を始めた動機を「現場で苦闘する作業員の人間としての横顔を知りたかった」と話した。英雄と称えられたのは事故直後だけで、健康被害、家族崩壊などに苦しむ多重下請け作業員は、かん口 令をくぐり抜け、居酒屋などで心の内を語ったという。
交流会に参加した青山学院大学・隈元信一ゼミの学生たちからも「作業現場で放射線教育はなされているのか」「外国人労働者の実態は」など活発な質問が飛んだ。
「病気で話せなくなり、ホワイトボードを持って取材に行く夢を見た」と語る片山さんの記者魂に参加者は息を飲んだ。
谷さんは、被災地の農地の荒廃と復興の現状を「牛」を通じて語った。
牛の糞など効果
原発事故直後に無人の旧警戒区域に入り、山野をさまよっている牛の存在を知った。家畜としての価値を失い、殺処分を迫られた牛たちを生かすために、牛に雑草を食べさせて農地保全に役立てる方法を考案した。
ボランティアを頼み、汗を流した結果、田んぼ2枚から始まった牧場「もーもーガーデン」は8fに広がり、本来の農地の景観を取り戻した。牛の糞などの効果で土壌の線量も下がったという。
こうした活動で、谷さんらは2018年に日本トルコ文化協会日本復興の光大賞を受賞。今夏から帰還困難区域の外の栃木県那須町に活動の場を広げ、休耕農地を保全するプロジェクトを展開している。
「人、動物、自然が共存共栄するシステムを被災地から発信したい」と話す谷さんに、学生は「牛に震災によるトラウマ(心的外傷)は残っていませんか」と尋ねた。
谷さんの答えは「牛がおびえていたのは地震よりも殺処分を迫った人間でした。今はもーもーガーデンの11頭の牛たちは人を信じています」。希望に満ちた言葉に、参加者から「コロナ騒動が治まったら、もーもーガーデンを訪ねたい」という声が相次いだ。
坂本充孝

JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2020年11月25日号
2020年08月15日
終わらない福島第一原発事故 10年目 今この瞬間も放射線との闘いは続く=片山夏子

東京新聞・片山夏子記者の連載「ふくしま原発作業員日誌」と原発作業員から得た独自の記事は、安倍晋三首相が世界についた大嘘「アンダーコントロール下」の実像を暴き出し、「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム大賞」、講談社ノンフィクション賞を受賞した。「福島原発事故を終わったことにはさせない」。8月1日付で、福島特別支局長として赴任する片山さんに寄稿をお願いした。
何年たっても、忘れられない言葉がある。「私が原発で働いていると知られれば、孫たちが放射能を持ってくると、いじめられるのではないかと思うと怖くて言えなかった」。東京電力福島第一原発事故前から働く56歳の地元作業員にあったのは、8年前だった。 彼には一緒に住む2人の保育園に通う孫がいた。「じいじどこで働いているの」と聞かれ、とっさに「ガソリンスタンドだよ」と答えたという。彼は原発作業員であることを誇りにもてないと話した。その理由を「低賃金で過酷な労働の現状を考えると胸をはることができない。それに原発作業員と言うと下にみられる」と口を引き結んだ。
「線量役者だ」
事故当時「一日40万円」で募集しているとの報道もあったが、7次や8次の下請け作業員の中には日当が6千円という人もいた。危険手当なんてついたこともないという人も。その上、被ばく線量が国の定めた上限に近づいたり、会社が競争入札で仕事が取れなければ、下位の下請け作業員は解雇された。「今週末まででいいから」「あしたWBC(内部被ばく検査。原発を離れる前に必ず受ける)を受けて」などと突然言い渡された。
作業員を取材していて繰り返し聞く言葉がある。「俺たちは使い捨てだ」「線量だけの存在だから、千両ならぬ線量役者だよね」。自嘲めいた言葉を聞くたびに、胸が痛んだ。チェルノブイリ原発事故から30年の年に、事故直後、爆発した4号機直下でトンネルを掘る作業をしたリクビダートル(元作業員)にその話をしたことがある。彼は「なぜ誇りに思わないのか。事故を止めたのは彼らだろう」と疑問をぶつけてきた。少しの沈黙の後、言葉は続いた。「人は忘れるもの。それはしょうがない。でもそれでいいのかもしれない」
15`のベスト着て
事故から9年が過ぎ、事故直後、次々水素爆発をした原子炉建屋内の溶けた核燃料は安定的に冷やされるようになり、敷地全体の空間線量は事故直後から大きく下がった。けれど、今も原子炉建屋内は人が入れないほどの超高線量の場所がある。溶けた核燃量の取り出し準備は進むが、実際にどこまで取り出せるかはまだ見えてこない。
ロボットで遠隔操作をするにも、ロボットを格納容器近くまで持って行くのは、生身の人間。事前に何枚も放射線を遮蔽する鉛板を運び、15キロものタングステンベストを着てダッシュで運ぶ。初期に鉛板を運んだ作業員は、顔全体を覆う全面マスクを着け、鉛板20キロを担いで「早く終われ、早く終われ」と祈りながら、建屋内の狭い階段を駆け上がった。
溶けた核燃料の取り出しに近づくにつれ、高線量下の作業が増え、被ばく線量も高くなる。今、東電は作業員の被ばく線量を下げるために一人「年間20_シーベルト」内に抑えるように指導。その上限で高線量下での作業を考えると、働ける期間はかなり短い。
コロナ禍加わる
放射線や放射能物質に加えて、目に見えない新型コロナが福島第一原発にも影響した。一時期は最前線の防護服まで代替品に変わり質が悪化。「汗でびしょびしょになり、汚染が出ている」(地元作業員)という状態になった。汚染を防ぐためにビニール製の雨がっぱを重ねると、さらに熱中症との闘いが加わった。
ある地方から来た作業員は事故直後の福島に来る前に「死ぬかもしれない」と思い、故郷で墓参りをし、母校など楽しかった場所を巡った。原発から10キロも離れていない場所に住んでいた地元作業員は「俺たちまだ帰ることあきらめていないから」と笑顔を見せた。彼は今、周辺住民が戻らぬ中、一人で故郷の家に戻り、寂しいからと犬を飼い、防犯のためにバットを枕元において眠る。それでも「故郷はいい」と電話がかかってきた。
まだ見えぬ廃炉
東京から事故後に駆けつけた作業員は、事故後に生まれた息子と長期間離れ離れの暮らしに。週末に帰って抱き上げた時に「パパいらない」と小さな手で顔を押しやられた。事故後、世間では絆という言葉が流行ったが、福島では離婚が増えた。そして今この瞬間も作業員たちは熱中症や放射線と闘いながら、まだ見えぬ廃炉に向けて作業をしている。十年目の今も安定して仕事をし続けることは難しく、危険手当も下降の一途。労災以外は何の補償もない。作業員の「福島を何とかしたい」という気持ちに頼るだけでは、いずれ人は集まらなくなる。
福島第一原発の作業員の9年間をまとめた拙箸「ふくしま原発作業員日誌」が16日、講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞した。事故から10年の節目の年なのに、コロナ禍で福島の報道が全然ないと福島の人たちに言われたばかり。そんな時期だけに受賞したことをうれしく思う。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2020年7月25日号
