2021年05月20日

【追悼】戦後民主主義が原点 被爆体験 元毎日新聞記者・関千恵子さん=明珍美紀

  元毎日新聞記者の関千枝子さんが2月東京の自宅で死去された。88歳だった。
「旧制女学校の2年生だった。私は病気で自宅にいたので死は免れた。でも、建物疎開の作業をしていた級友たちは全員、命を失った」
 社会部の同窓会で、関さんは「あの日」のことを語ってくれた。駆け出しの私はOB、OGの案内役。気がつけば関さんを「取材」していた。
 作業の場は爆心地から1・1`。動員された39人の生徒のうち38人がその日のうち、あるいは2週間以内に息を引き取り、残る1人も24年後にガンで亡くなった。「伝えたいことが次々に頭の中に浮かんでくる。原爆というテーマはそれほど深く、重い」と話した。
 父の転勤で東京から広島に移り、被爆した。早稲田大学文学部露文科を卒業後、毎日新聞社に入り、社会部、学芸部で活動していたが、同じく記者だった夫(後に離婚)の米国赴任で退社。その後、全国婦人新聞(後に「女性ニューズ」に改名)の記者となり、男女差別との闘い、平和活動など女性たちの動きをきめ細かく報じた。北京での世界女性会議(1995年)の時は編集長。「大手メディアでは女性問題の記事が少なくなり、その分をフォローしようとスタッフみんなで踏ん張った」という。女性たちによる独立の商業紙として奮闘したが、バブル崩壊後の広告減収などで2006年、廃刊になった。
 自身の被爆体験は「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち」の刊行(85年、筑摩書房)で広く知られるようになった。同書は日本ジャーナリスト会議(JCJ)奨励賞、日本エッセイストクラブ賞を受賞。演劇や朗読の原作にもなり「私の思いがさまざまな形で表現されている」と目を細めた。
 インターネットを通じてだが、最後に姿を見たのは、新型コロナウイルス禍の下、2月2日に行われた安保法制違憲訴訟に関する記者向けのオンラインレクチャーだった。「集団的自衛権の行使を認めた安全保障関連法は憲法に反している」と、全国各地で国賠訴訟が展開されている。関さんも女性有志で提訴(2016年)した訴訟の原告に加わっていた。
 「戦後民主主義の原点に立ち返り、みんなが安心して平和に暮らせる社会をつくる」。その思いが、原動力だった。

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平和への思いを次世代に継承しようと「関千枝子さんを語る会」が4月3日、東京・新宿で開かれた。原爆の問題について学ぶ市民講座「1945ヒロシマ連続講座2016」を主宰する元高校教師、竹内良男さん(72)の呼びかけで、故人と交流を重ねた人々が集まった。
高校1年の夏、東京から広島を訪れ、関さんの体験を直接、聞いたのを機に文通を始めたという堀池美帆さん(26)=番組制作会社勤務=は「その生き方に接して初めて社会との関わりを持つことができた」と振り返った。竹内さんは「若い世代が関さんから受け取ったものを共有し、伝えていくことが大事」と話していた。
写真=「関千枝子さんを語る会」を企画した竹内良男さん(右から2人目)と、思い出を語った人々。堀池美帆さん(左端)は、関さんにとっての「原爆の花」だった松葉牡丹(まつばぼたん)を持参した。
明珍美紀(元新聞労連委員長、毎日新聞記者)
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年4月25日号
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2021年05月17日

【追悼】権力監視 舌鋒鋭く 前週刊金曜日発行人・北村肇さん偲ぶ会=澤田猛

                                  
210404  北村肇さん遺影(明珍美紀撮影).jpg

 毎日新聞から「週刊金曜日」に移り、同誌の発行人、社長を務めた北村肇さん(2019年12月23 日死去) を偲ぶ会が、毎日新聞東京本社のホールで4月4日に行われ、友人の一人として出席した。新型コロナウイルス禍で延び延びになっていたが、オンライン参加を含め、友人、元同僚らが北村さんの功績と足跡を振り返った。
  北村さんとの出会いは1970年代後半。毎日新聞社の経営破綻から新社方式に転換して新聞発行を継続していた再建闘争の期間中のことだった。 北村さんは当時、社会部の警察担当、私は静岡支局員。再建闘争に熱心だった私たちは申し合わせて毎日新聞労組の当時の委員長と書記長をJR上野駅近くに喫茶店に呼び出し、再建闘争の在り方について異議申し立てをした。
 以後、職場が異なっても折に触れて会話を交わすようになった。新聞社を退職後、週刊金曜日の編集長、さらに発行人になってから、私は何度か北村さんに講演を頼んだ。JCJの代表委員だった斎藤茂男さんの生前遺言で、「メディアの仲間を横断的につなごう」と約20年続けた懇談会(現在、休会中)があり、私はその万年幹事。講演内容を詰める最後の打ち合わせで8年前に会ったとき、「70歳までは働くよ」と力を込めて笑顔で話していた。その後、がんを患い、古稀を祝う前の67歳で逝ってしまった。さぞや無念であったろう。
 週刊金曜日に転職後は大手メディアという鎧や兜がなくなった分、権力監視への舌鋒が鋭くなった。居場所を得た人間の輝きとでも言えようか。イエロージャーリズムが跳梁跋扈するご時勢だ。週刊誌では唯一の硬派ジャーナリズムを自任する同誌を今後も応援する一読者でありたい。私の言葉を北村さんは黄泉の国でどう受け止めるだろうか。
 澤田猛(毎日新聞社記者OB)
 JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年4月25日号


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2021年03月16日

【追悼】一言一句に厳しく 筋通した 戸崎賢二氏を悼む=小滝一志

  放送メディアの論評を「週刊金曜日」「赤旗」などに数多く寄稿し、このJCJ機関紙にも何度か登場したことがある元NHKディレクター戸崎賢二氏が1月11日亡くなった。81歳だった。NHK中期経営計画を批判した「視聴者不在のNHK縮小計画」(週刊金曜日2020.10.30号)が最後の寄稿になった。
 戸崎氏は「放送を語る会」創立当時からのメンバーで、会の大黒柱・理論的支柱であり、無くてはならぬ中心メンバーだった。「放送を語る会」が発表する見解や申し入れ文書の作成も多くは戸崎氏が原案を作成した。
 「放送を語る会」の主な活動として「テレビ報道のモニター」がある。2003年イラク戦争報道に始まり2020年新型コロナ報道まで23回実施、その都度報告を公表しているが、その大半のまとめ作業を戸崎氏が担当した。一言一句おろそかにしなかった戸崎氏と各番組モニター担当者の間で、報告書の最終の推敲をめぐって毎回交わされるメール上での丁々発止の厳しいやりとりを、語る会メンバーはいつもハラハラしながら見守っていた。
 新聞・雑誌への寄稿でも、戸崎氏の厳密さは変わらなかったようで、最後の寄稿を掲載した週刊金曜日編集部の方が「最後はお互い了解しましたが、途中ではケンカしそうになりました」と苦笑していた。
 亡くなる直前、1月8日にあけび書房から「魂に蒔かれた種子は」が出版された。内容は、ディレクター時代の試行錯誤、NHK定年退職後教壇に立ち若い学生に向き合って感じたこと、家族のこと、幼少期の思い出など、普段のテレビメディアへの辛口の論評と違い人間味溢れた心温まるエッセイで、私たちに向けた戸崎氏の遺言とも読める1冊だ。NHKディレクターとして手掛けた番組「大岡昇平・時代への発言」(1984年終戦記念日特集)、「授業巡礼〜哲学者林竹二が残したもの〜」(1988年年「ETV8」)などの思い出が綴られている。
 告別式では、遠方で参列の叶わぬお姉さまからの弔辞をご子息が読まれた。「筋を通して生きたあなたは立派でした。生ある限り忘れません」「さようならは言いません。今までありがとう」。戸崎さんを知る人たちの共通の気持ちでもあろう。
  ご冥福を祈る。
 小滝一志
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年2月25日号
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2021年02月01日

【追悼】公害や反戦を歌に シンガーソングライター・横井久美子さんを悼む=隅井孝雄

 1月14日、歌手横井久美子さんが亡くなった。知らせを受けた私は、しばらく言葉がなかった。
 横井さんは2019年9月アイルランド旅行中に腹部の痛みを感じ、帰国後精密検査で腎盂癌との診断を受けた。腎臓を摘出し闘病を続けながらも、ブログを活発に執筆、一時「歌う学校」を再開するなど、元気を取り戻した時期もあったが、再起はかなわなかった。
 横井さんを私が知ったのは1969年頃だったからほぼ半世紀にわたる長い間の付き合いだった。当時私は民放労連の副委員長とマスコミ共闘会議(今のMIC)の事務局長を兼任していた。マスコミ共闘では当時反戦平和の大規模集会を活発に開いていたが、「ギター一本でどこにでも気軽に参加してくれる歌手」として紹介を受け、集会で歌ってもらったのが最初だった。
 1969年といえば、世界の激動の時期であった。若い世代が世界各地で立ち上がり,文化、音楽、社会に革命的変化が起きていた。ベトナム反戦運動や反核運動も日本、アメリカ、フランスなど世界各地で高揚した。
 ソロ歌手として日本各地の集会で歌い続けた横井さんは早くから世界に視点を広げた。1973年、まだ北爆が続くハノイを訪問、ファン・バンドン首相(当時)に面会、「戦車動けない」などを熱唱。ベトナムで広く知られる存在となった。1975年には第五回「ベルリン音楽祭」に出演、のちに持ち歌となった、アイルランドの曲「私の愛する街」に出会った。
 1985年には、122台のギターとともにニカラグアを訪問。2008年にはベトナム政府より、ベトナム統一30年記念式典に招待され、ベトナム戦争を勝利に導いた国際的友人の一人として、「国際平和友好賞」を授与された。
 最近ではネパールのへき地サチコール村に通い、子供たちにギターを教えるとともに、音楽ホールを建て寄付した。その他チリ、コスタリカ、南アフリカ、ポーランドなどでの音楽的貢献は枚挙にいとまがない。
 日本国内では、70年代の初頭、薬害スモン患者たちの闘争を支援して「ノーモア・スモンの歌」を自作、デモ、抗議集会で歌声を響かせた。全国各地の腕利きの弁護士たちにファンが多いのはその結果である。(1978年スモンで国と製薬会社が負担した和解金は32億5400万円)。
 また、峠三吉の歌詞を歌にした「にんげんをかえせ」は核廃絶のテーマソングとなり、2008国連総会に合わせたニューヨーク反核集会に参加した横井さんが歌った。CDジャケットの表紙には「焼き場に立つ少年」の写真(撮影ジョー・オダネル氏)が使われた。
 横井さんが願った「核兵器禁止条約発効」は1月22日だった。横井さんの存命がかなわなかったことが、改めて悔やまれる。
 
 横井さんの熱烈ファンの一人、京都の尾藤廣喜弁護士の訃報に寄せた言葉を紹介しよう。
 「運動の中で生まれた曲には、『飯場女の歌』、『戦車は動けない』、『夫へのバラード』、『辺野古の海』、阿武隈高地 悲しみの地よ』などがあります。このような闘いのうただけではなく、『自転車にのって』、『なみちゃん』、『母に送る言葉』、『人生の始まり』、『歌って愛して』、『歌にありがとう』など生活に根ざした、生き方を考える歌も多く歌っておられます」。
隅井孝雄(ジャーナリスト)
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