TBSのOBで元JCJ事務局長の林豊さんが3月17日、逝去された。享年78才。
御子息によれば死因は心臓と肝臓ということだが、そうした疾患で苦しんでおられたことを知っていたJCJの仲間はいないのではなかろうか。もの静かで我慢強い人であった。
TBSにはアルバイターとして入社したそうで、民放労連の「二重身分反対闘争」の成果で正社員になれたという苦労人。その闘争を指導した組合執行部にたいする感謝の念と組合活動の重要性を強く心に刻んでいる人でもあった。JCJへの加入も自然の成り行きだったと思われる。
JCJでは前後2回にわたって事務局長を務め、「JCJの見える化」に努めると同時に、事務所移転問題にも精力的に取り組まれ、会議や研究会が比較的ゆったりとできる地下鉄神保町近くのへの移転を可能にされた。またJCJ活動を活発に展開するための部会や研究会の立ち上げにも多大な貢献を果たした。送部会の立ち上げにも加わり、放送をめぐる問題を討議しJCJ賞推候補作品を選考するための活動を粘り強く続けられた。またJCJデジタル写真教室も立ち上げ写真に対する会員の理解と技術向上に貢献した。
さらに忘れられないのは「ジャーナリズム研究会」の組織化と活動に対する貢献だ。1970年代初頭、JCJは、マスコミの問題点を鋭く抽出した『マスコミ黒書』を出版した。このような研究が再び必要なのではという声がJCJ内でしばしば出るなかで、「やりましょう」と積極的に動いたのが林さんだ。10名前後のメンバーが集まり、ほぼ定期的に研究会を開くことができ、その成果を2冊の本としてまとめることができたのは事務的な仕事を一手に引き受けてくれた林さんのおかげだ。
現役時代から行きつけという銀座のバーに連れて行ってくれた事がある。「ここは男が一人で静かに飲むところなんだ」と言って。ダンディな紳士でもあった。御冥福を!
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2024年4月25日号
2024年05月06日
2023年12月18日
【追悼】隈元 信一さん死去 JCJ運営委・元朝日新聞論説委員=須貝道雄
元朝日新聞論説委員でJCJ運営委員の隈元信一さん=写真=が10月17日に亡くなった。69歳だった。放送分野の取材が長く、がん闘病中の2022年に友人らの支援を受け『探訪 ローカル番組の作り手たち』を出版した。この約10年は青山学院大学で週に1回、学生たちにジャーナリズム論を教え、若い世代の育成に力を注いだ。
JCJが学生向けに開くジャーナリスト講座にもよく顔を出した。彼と知り合った他大学のある学生は朝日新聞に入社。15年に隈元さんが希望して青森県むつ支局に赴任すると、雪かきの手伝いに出かけた。「面倒見がよくフランクに付き合ってくれる方だった。過去の新聞の戦争責任を自覚し、次の世代のためにいろいろやっていたのだと思う」と振り返る。
隈元さんが運営委員になったのは21年春。「最後までジャーナリストして生きる」という言葉が忘れられない。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2023年11月25日号
2023年05月10日
【訃報】林 秀起さんが死去 JCJ北海道支部代表委員=山田寿彦
北海道支部代表委員の林秀起さんが2月19日、すい臓がんのため、札幌市の病院で死去した。79歳。葬儀は近親者のみで営まれた。
◇ ◇
低音で発せられる「林語録」はキレとツヤがあり、ジャーナリストであることの自負と気概に満ちていた。酒席を包み込む呵々大笑が今も耳から離れない。「山田君、酒は命がけで飲むもんだ」。酒豪らしい一言が潔く、格好良かった。
出会いは1986年。私は入社2年目の毎日新聞釧路支局員、林さんは朝日新聞釧路支局長。朝日の新人記者から支局長に毎晩しごかれる話をよく聞かされた。
「原稿を何度書き直しても通してくれない」と彼はこぼした。「この原稿のどこにお前の主観があるのか」と問い詰められるのだという。主観なき客観報道はあり得ないという林さんの教えは私の記憶に深く刻まれた。
ある晩、林さんから酒場に誘われた。他社の駆け出し記者に何の用事かと思ったら、「朝日新聞に来てもらったら困りますか」と言われて驚いた。お断りしたのだが、いささか誇らしい気分になり、自分では自信があった連載記事の感想を尋ねた。「あれはあまり良くなかったなあ」と意外な答え。理由を聞くと、「記者に演説はいらない」。鋭い一言に大きな勘違いを思い知らされた。
林さんは室蘭勤務時代、有珠山噴火(2000年3月)に遭遇し、現地で開かれたJCJの全国交流集会に案内役として参加したのを契機に入会。退社後は北海道支部運営委員、事務局長、代表委員を歴任した。植村バッシング≠ニ闘った「植村裁判を支える市民の会」では事務局次長として雑務をこなし、ご意見番的な存在でもあり続けた。
いただいた言葉だけでなく、生き方そのものが私の「師匠」であった。「山田君、ジャーナリストにリタイアはないんだ」。いつもの声で、林さんのそんな言葉が聴こえる気がする。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2023年3月25日号
◇ ◇
低音で発せられる「林語録」はキレとツヤがあり、ジャーナリストであることの自負と気概に満ちていた。酒席を包み込む呵々大笑が今も耳から離れない。「山田君、酒は命がけで飲むもんだ」。酒豪らしい一言が潔く、格好良かった。
出会いは1986年。私は入社2年目の毎日新聞釧路支局員、林さんは朝日新聞釧路支局長。朝日の新人記者から支局長に毎晩しごかれる話をよく聞かされた。
「原稿を何度書き直しても通してくれない」と彼はこぼした。「この原稿のどこにお前の主観があるのか」と問い詰められるのだという。主観なき客観報道はあり得ないという林さんの教えは私の記憶に深く刻まれた。
ある晩、林さんから酒場に誘われた。他社の駆け出し記者に何の用事かと思ったら、「朝日新聞に来てもらったら困りますか」と言われて驚いた。お断りしたのだが、いささか誇らしい気分になり、自分では自信があった連載記事の感想を尋ねた。「あれはあまり良くなかったなあ」と意外な答え。理由を聞くと、「記者に演説はいらない」。鋭い一言に大きな勘違いを思い知らされた。
林さんは室蘭勤務時代、有珠山噴火(2000年3月)に遭遇し、現地で開かれたJCJの全国交流集会に案内役として参加したのを契機に入会。退社後は北海道支部運営委員、事務局長、代表委員を歴任した。植村バッシング≠ニ闘った「植村裁判を支える市民の会」では事務局次長として雑務をこなし、ご意見番的な存在でもあり続けた。
いただいた言葉だけでなく、生き方そのものが私の「師匠」であった。「山田君、ジャーナリストにリタイアはないんだ」。いつもの声で、林さんのそんな言葉が聴こえる気がする。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2023年3月25日号
2022年03月30日
【追悼】外岡さん「記者カフェ北海道」最大協力者 若手励ます数々の教え 「規制恐れず」連帯呼びかけ=高田正基
外岡秀俊さんの急逝が報じられたのは1月7日。この間、外岡さんの朝日新聞時代や退職後のジャーナリストとしての業績、人柄については、かつての同僚や親しく接した人たちによって、さまざまに語られている。ここではJCJ北海道支部が若い記者たちの勉強・交流の場として開設した「記者カフェ北海道」の最大の協力者としての姿などから、外岡さんが伝えようとした思いの一端を紹介し、在りし日を偲びたい。高田正基(北海道支部)
2021年5月の第1回記者カフェのゲストスピーカーが外岡さんだった。テーマは「多メディア時代の記者」。話はそのまま、新人記者の教本になるような内容だった。
「わたしたちの仕事は現場に行かないとできないエッセンシャルワーカーだ」「取材の前に仮説を立ててみよう。仮説が裏切られるということは、知られていないことを自分が発見したということだ」「新しい任地に着いたら地元の小中学校の副読本で郷土史や地域の地理を勉強した」
メモの取り方や情報管理の仕方、インタビューの方法、さらには先輩・後輩との付き合い方に至るまで、どれもご自身が実践してきたことで、ベテラン記者にも参考になる教えだった。
朝日新聞の東京編集局長になったとき、「記者には抗命権があることを確認してはどうか」と提案したそうだ。上司から業務命令だと言われたときに、自分の良心に従って拒否できる権利がある、と。しかし部長たちから「それでは組織が持たない」と却下されたのだという。そんなエピソードも紹介し、ジャーナリストは自立した存在であれ、と語りかけた。
取材準備のノートや取材メモも、記者カフェの参加者に見せてくれた。自分が経験してきたことを惜しげもなく伝えようとする講義に、後輩たちへの熱い期待が感じられた。記者たちの疑問や悩みへの答えは要を得たアドバイスであり、何よりもエールであった。終わったときには予定時間を大幅に超えていた。
21年6月に旭川医大で起きた北海道新聞記者逮捕事件では、道新労組のインタビューで「公益性があるなら規制を恐れず取材を」と現場記者たちを励まし、この問題で「会社の枠を超えた報道関係者の意見交換の場を設けてほしい」と提案した。
その意を受ける形で11月にJCJ支部と道新労組が共催した第3回記者カフェでは「各社の記者が協力して権力を跳ね返してほしい」と記者同士の連帯を呼びかけ、最後にこう訴えた。
「個人に力はないが、皆さんの後ろには道民がいる。札幌市民がいる。取材先から文句を言われたら、そうタンカを切ってほしい」
組織論から言えば、外岡さんは管理職には不向きだったかもしれない。しかし、部下や後輩から見れば本当に信頼できる上司であり、先輩ジャーナリストであったに違いない。
新しいジャーナリズムを支えるのは若い記者たちだ―。それが外岡さんの強い思いだった。もっともっと語りたかっただろう。わたしも、もっともっと話を聞きたかった。
♢
外岡さんは、記者はエッセンシャルワーカーだということを最後まで実践した人だった。
コロナ禍の21年5月、札幌・大通公園で開かれたミャンマーの軍事クーデターに抗議する集会に、ノートとカメラを手にした外岡さんがいた。そのときわたしが交わした言葉はあいさつ程度だったが、肌寒い空の下で取材する姿が目に焼き付いている。
朝日新聞北海道版の連載コラム「道しるべ」は、コロナ禍にあっても現場を訪ね、人に会い、話を聞き、考えるということが徹底されていた。政治、社会、文化などテーマも幅広く、そこに豊かな知識と人間の営みへの優しいまなざしが織り込まれていた。
外岡さんにもう会えない寂しさを感じていたとき手にした本に、評論家の三浦雅士さんの言葉があった。
「文学者に死は存在しない。読み返せばたちどころに復活するからである」(井上一夫『渡された言葉 わたしの編集手帖から』)
ジャーナリストも然り。外岡さんに会いたくなったら、その著作を開けばいい。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2022年2月25日号
2021年05月20日
【追悼】戦後民主主義が原点 被爆体験 元毎日新聞記者・関千恵子さん=明珍美紀
元毎日新聞記者の関千枝子さんが2月東京の自宅で死去された。88歳だった。
「旧制女学校の2年生だった。私は病気で自宅にいたので死は免れた。でも、建物疎開の作業をしていた級友たちは全員、命を失った」
社会部の同窓会で、関さんは「あの日」のことを語ってくれた。駆け出しの私はOB、OGの案内役。気がつけば関さんを「取材」していた。
作業の場は爆心地から1・1`。動員された39人の生徒のうち38人がその日のうち、あるいは2週間以内に息を引き取り、残る1人も24年後にガンで亡くなった。「伝えたいことが次々に頭の中に浮かんでくる。原爆というテーマはそれほど深く、重い」と話した。
父の転勤で東京から広島に移り、被爆した。早稲田大学文学部露文科を卒業後、毎日新聞社に入り、社会部、学芸部で活動していたが、同じく記者だった夫(後に離婚)の米国赴任で退社。その後、全国婦人新聞(後に「女性ニューズ」に改名)の記者となり、男女差別との闘い、平和活動など女性たちの動きをきめ細かく報じた。北京での世界女性会議(1995年)の時は編集長。「大手メディアでは女性問題の記事が少なくなり、その分をフォローしようとスタッフみんなで踏ん張った」という。女性たちによる独立の商業紙として奮闘したが、バブル崩壊後の広告減収などで2006年、廃刊になった。
自身の被爆体験は「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち」の刊行(85年、筑摩書房)で広く知られるようになった。同書は日本ジャーナリスト会議(JCJ)奨励賞、日本エッセイストクラブ賞を受賞。演劇や朗読の原作にもなり「私の思いがさまざまな形で表現されている」と目を細めた。
インターネットを通じてだが、最後に姿を見たのは、新型コロナウイルス禍の下、2月2日に行われた安保法制違憲訴訟に関する記者向けのオンラインレクチャーだった。「集団的自衛権の行使を認めた安全保障関連法は憲法に反している」と、全国各地で国賠訴訟が展開されている。関さんも女性有志で提訴(2016年)した訴訟の原告に加わっていた。
「戦後民主主義の原点に立ち返り、みんなが安心して平和に暮らせる社会をつくる」。その思いが、原動力だった。
平和への思いを次世代に継承しようと「関千枝子さんを語る会」が4月3日、東京・新宿で開かれた。原爆の問題について学ぶ市民講座「1945ヒロシマ連続講座2016」を主宰する元高校教師、竹内良男さん(72)の呼びかけで、故人と交流を重ねた人々が集まった。
高校1年の夏、東京から広島を訪れ、関さんの体験を直接、聞いたのを機に文通を始めたという堀池美帆さん(26)=番組制作会社勤務=は「その生き方に接して初めて社会との関わりを持つことができた」と振り返った。竹内さんは「若い世代が関さんから受け取ったものを共有し、伝えていくことが大事」と話していた。
写真=「関千枝子さんを語る会」を企画した竹内良男さん(右から2人目)と、思い出を語った人々。堀池美帆さん(左端)は、関さんにとっての「原爆の花」だった松葉牡丹(まつばぼたん)を持参した。
明珍美紀(元新聞労連委員長、毎日新聞記者)
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年4月25日号
「旧制女学校の2年生だった。私は病気で自宅にいたので死は免れた。でも、建物疎開の作業をしていた級友たちは全員、命を失った」
社会部の同窓会で、関さんは「あの日」のことを語ってくれた。駆け出しの私はOB、OGの案内役。気がつけば関さんを「取材」していた。
作業の場は爆心地から1・1`。動員された39人の生徒のうち38人がその日のうち、あるいは2週間以内に息を引き取り、残る1人も24年後にガンで亡くなった。「伝えたいことが次々に頭の中に浮かんでくる。原爆というテーマはそれほど深く、重い」と話した。
父の転勤で東京から広島に移り、被爆した。早稲田大学文学部露文科を卒業後、毎日新聞社に入り、社会部、学芸部で活動していたが、同じく記者だった夫(後に離婚)の米国赴任で退社。その後、全国婦人新聞(後に「女性ニューズ」に改名)の記者となり、男女差別との闘い、平和活動など女性たちの動きをきめ細かく報じた。北京での世界女性会議(1995年)の時は編集長。「大手メディアでは女性問題の記事が少なくなり、その分をフォローしようとスタッフみんなで踏ん張った」という。女性たちによる独立の商業紙として奮闘したが、バブル崩壊後の広告減収などで2006年、廃刊になった。
自身の被爆体験は「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち」の刊行(85年、筑摩書房)で広く知られるようになった。同書は日本ジャーナリスト会議(JCJ)奨励賞、日本エッセイストクラブ賞を受賞。演劇や朗読の原作にもなり「私の思いがさまざまな形で表現されている」と目を細めた。
インターネットを通じてだが、最後に姿を見たのは、新型コロナウイルス禍の下、2月2日に行われた安保法制違憲訴訟に関する記者向けのオンラインレクチャーだった。「集団的自衛権の行使を認めた安全保障関連法は憲法に反している」と、全国各地で国賠訴訟が展開されている。関さんも女性有志で提訴(2016年)した訴訟の原告に加わっていた。
「戦後民主主義の原点に立ち返り、みんなが安心して平和に暮らせる社会をつくる」。その思いが、原動力だった。
平和への思いを次世代に継承しようと「関千枝子さんを語る会」が4月3日、東京・新宿で開かれた。原爆の問題について学ぶ市民講座「1945ヒロシマ連続講座2016」を主宰する元高校教師、竹内良男さん(72)の呼びかけで、故人と交流を重ねた人々が集まった。
高校1年の夏、東京から広島を訪れ、関さんの体験を直接、聞いたのを機に文通を始めたという堀池美帆さん(26)=番組制作会社勤務=は「その生き方に接して初めて社会との関わりを持つことができた」と振り返った。竹内さんは「若い世代が関さんから受け取ったものを共有し、伝えていくことが大事」と話していた。
写真=「関千枝子さんを語る会」を企画した竹内良男さん(右から2人目)と、思い出を語った人々。堀池美帆さん(左端)は、関さんにとっての「原爆の花」だった松葉牡丹(まつばぼたん)を持参した。
明珍美紀(元新聞労連委員長、毎日新聞記者)
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年4月25日号
2021年05月17日
【追悼】権力監視 舌鋒鋭く 前週刊金曜日発行人・北村肇さん偲ぶ会=澤田猛
毎日新聞から「週刊金曜日」に移り、同誌の発行人、社長を務めた北村肇さん(2019年12月23 日死去) を偲ぶ会が、毎日新聞東京本社のホールで4月4日に行われ、友人の一人として出席した。新型コロナウイルス禍で延び延びになっていたが、オンライン参加を含め、友人、元同僚らが北村さんの功績と足跡を振り返った。
北村さんとの出会いは1970年代後半。毎日新聞社の経営破綻から新社方式に転換して新聞発行を継続していた再建闘争の期間中のことだった。 北村さんは当時、社会部の警察担当、私は静岡支局員。再建闘争に熱心だった私たちは申し合わせて毎日新聞労組の当時の委員長と書記長をJR上野駅近くに喫茶店に呼び出し、再建闘争の在り方について異議申し立てをした。
以後、職場が異なっても折に触れて会話を交わすようになった。新聞社を退職後、週刊金曜日の編集長、さらに発行人になってから、私は何度か北村さんに講演を頼んだ。JCJの代表委員だった斎藤茂男さんの生前遺言で、「メディアの仲間を横断的につなごう」と約20年続けた懇談会(現在、休会中)があり、私はその万年幹事。講演内容を詰める最後の打ち合わせで8年前に会ったとき、「70歳までは働くよ」と力を込めて笑顔で話していた。その後、がんを患い、古稀を祝う前の67歳で逝ってしまった。さぞや無念であったろう。
週刊金曜日に転職後は大手メディアという鎧や兜がなくなった分、権力監視への舌鋒が鋭くなった。居場所を得た人間の輝きとでも言えようか。イエロージャーリズムが跳梁跋扈するご時勢だ。週刊誌では唯一の硬派ジャーナリズムを自任する同誌を今後も応援する一読者でありたい。私の言葉を北村さんは黄泉の国でどう受け止めるだろうか。
澤田猛(毎日新聞社記者OB)
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年4月25日号
2021年03月16日
【追悼】一言一句に厳しく 筋通した 戸崎賢二氏を悼む=小滝一志
放送メディアの論評を「週刊金曜日」「赤旗」などに数多く寄稿し、このJCJ機関紙にも何度か登場したことがある元NHKディレクター戸崎賢二氏が1月11日亡くなった。81歳だった。NHK中期経営計画を批判した「視聴者不在のNHK縮小計画」(週刊金曜日2020.10.30号)が最後の寄稿になった。
戸崎氏は「放送を語る会」創立当時からのメンバーで、会の大黒柱・理論的支柱であり、無くてはならぬ中心メンバーだった。「放送を語る会」が発表する見解や申し入れ文書の作成も多くは戸崎氏が原案を作成した。
「放送を語る会」の主な活動として「テレビ報道のモニター」がある。2003年イラク戦争報道に始まり2020年新型コロナ報道まで23回実施、その都度報告を公表しているが、その大半のまとめ作業を戸崎氏が担当した。一言一句おろそかにしなかった戸崎氏と各番組モニター担当者の間で、報告書の最終の推敲をめぐって毎回交わされるメール上での丁々発止の厳しいやりとりを、語る会メンバーはいつもハラハラしながら見守っていた。
新聞・雑誌への寄稿でも、戸崎氏の厳密さは変わらなかったようで、最後の寄稿を掲載した週刊金曜日編集部の方が「最後はお互い了解しましたが、途中ではケンカしそうになりました」と苦笑していた。
亡くなる直前、1月8日にあけび書房から「魂に蒔かれた種子は」が出版された。内容は、ディレクター時代の試行錯誤、NHK定年退職後教壇に立ち若い学生に向き合って感じたこと、家族のこと、幼少期の思い出など、普段のテレビメディアへの辛口の論評と違い人間味溢れた心温まるエッセイで、私たちに向けた戸崎氏の遺言とも読める1冊だ。NHKディレクターとして手掛けた番組「大岡昇平・時代への発言」(1984年終戦記念日特集)、「授業巡礼〜哲学者林竹二が残したもの〜」(1988年年「ETV8」)などの思い出が綴られている。
告別式では、遠方で参列の叶わぬお姉さまからの弔辞をご子息が読まれた。「筋を通して生きたあなたは立派でした。生ある限り忘れません」「さようならは言いません。今までありがとう」。戸崎さんを知る人たちの共通の気持ちでもあろう。
ご冥福を祈る。
小滝一志
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年2月25日号
戸崎氏は「放送を語る会」創立当時からのメンバーで、会の大黒柱・理論的支柱であり、無くてはならぬ中心メンバーだった。「放送を語る会」が発表する見解や申し入れ文書の作成も多くは戸崎氏が原案を作成した。
「放送を語る会」の主な活動として「テレビ報道のモニター」がある。2003年イラク戦争報道に始まり2020年新型コロナ報道まで23回実施、その都度報告を公表しているが、その大半のまとめ作業を戸崎氏が担当した。一言一句おろそかにしなかった戸崎氏と各番組モニター担当者の間で、報告書の最終の推敲をめぐって毎回交わされるメール上での丁々発止の厳しいやりとりを、語る会メンバーはいつもハラハラしながら見守っていた。
新聞・雑誌への寄稿でも、戸崎氏の厳密さは変わらなかったようで、最後の寄稿を掲載した週刊金曜日編集部の方が「最後はお互い了解しましたが、途中ではケンカしそうになりました」と苦笑していた。
亡くなる直前、1月8日にあけび書房から「魂に蒔かれた種子は」が出版された。内容は、ディレクター時代の試行錯誤、NHK定年退職後教壇に立ち若い学生に向き合って感じたこと、家族のこと、幼少期の思い出など、普段のテレビメディアへの辛口の論評と違い人間味溢れた心温まるエッセイで、私たちに向けた戸崎氏の遺言とも読める1冊だ。NHKディレクターとして手掛けた番組「大岡昇平・時代への発言」(1984年終戦記念日特集)、「授業巡礼〜哲学者林竹二が残したもの〜」(1988年年「ETV8」)などの思い出が綴られている。
告別式では、遠方で参列の叶わぬお姉さまからの弔辞をご子息が読まれた。「筋を通して生きたあなたは立派でした。生ある限り忘れません」「さようならは言いません。今までありがとう」。戸崎さんを知る人たちの共通の気持ちでもあろう。
ご冥福を祈る。
小滝一志
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2021年2月25日号
2021年02月01日
【追悼】公害や反戦を歌に シンガーソングライター・横井久美子さんを悼む=隅井孝雄
1月14日、歌手横井久美子さんが亡くなった。知らせを受けた私は、しばらく言葉がなかった。
横井さんは2019年9月アイルランド旅行中に腹部の痛みを感じ、帰国後精密検査で腎盂癌との診断を受けた。腎臓を摘出し闘病を続けながらも、ブログを活発に執筆、一時「歌う学校」を再開するなど、元気を取り戻した時期もあったが、再起はかなわなかった。
横井さんを私が知ったのは1969年頃だったからほぼ半世紀にわたる長い間の付き合いだった。当時私は民放労連の副委員長とマスコミ共闘会議(今のMIC)の事務局長を兼任していた。マスコミ共闘では当時反戦平和の大規模集会を活発に開いていたが、「ギター一本でどこにでも気軽に参加してくれる歌手」として紹介を受け、集会で歌ってもらったのが最初だった。
1969年といえば、世界の激動の時期であった。若い世代が世界各地で立ち上がり,文化、音楽、社会に革命的変化が起きていた。ベトナム反戦運動や反核運動も日本、アメリカ、フランスなど世界各地で高揚した。
ソロ歌手として日本各地の集会で歌い続けた横井さんは早くから世界に視点を広げた。1973年、まだ北爆が続くハノイを訪問、ファン・バンドン首相(当時)に面会、「戦車動けない」などを熱唱。ベトナムで広く知られる存在となった。1975年には第五回「ベルリン音楽祭」に出演、のちに持ち歌となった、アイルランドの曲「私の愛する街」に出会った。
1985年には、122台のギターとともにニカラグアを訪問。2008年にはベトナム政府より、ベトナム統一30年記念式典に招待され、ベトナム戦争を勝利に導いた国際的友人の一人として、「国際平和友好賞」を授与された。
最近ではネパールのへき地サチコール村に通い、子供たちにギターを教えるとともに、音楽ホールを建て寄付した。その他チリ、コスタリカ、南アフリカ、ポーランドなどでの音楽的貢献は枚挙にいとまがない。
日本国内では、70年代の初頭、薬害スモン患者たちの闘争を支援して「ノーモア・スモンの歌」を自作、デモ、抗議集会で歌声を響かせた。全国各地の腕利きの弁護士たちにファンが多いのはその結果である。(1978年スモンで国と製薬会社が負担した和解金は32億5400万円)。
また、峠三吉の歌詞を歌にした「にんげんをかえせ」は核廃絶のテーマソングとなり、2008国連総会に合わせたニューヨーク反核集会に参加した横井さんが歌った。CDジャケットの表紙には「焼き場に立つ少年」の写真(撮影ジョー・オダネル氏)が使われた。
横井さんが願った「核兵器禁止条約発効」は1月22日だった。横井さんの存命がかなわなかったことが、改めて悔やまれる。
横井さんの熱烈ファンの一人、京都の尾藤廣喜弁護士の訃報に寄せた言葉を紹介しよう。
「運動の中で生まれた曲には、『飯場女の歌』、『戦車は動けない』、『夫へのバラード』、『辺野古の海』、阿武隈高地 悲しみの地よ』などがあります。このような闘いのうただけではなく、『自転車にのって』、『なみちゃん』、『母に送る言葉』、『人生の始まり』、『歌って愛して』、『歌にありがとう』など生活に根ざした、生き方を考える歌も多く歌っておられます」。
隅井孝雄(ジャーナリスト)
横井さんは2019年9月アイルランド旅行中に腹部の痛みを感じ、帰国後精密検査で腎盂癌との診断を受けた。腎臓を摘出し闘病を続けながらも、ブログを活発に執筆、一時「歌う学校」を再開するなど、元気を取り戻した時期もあったが、再起はかなわなかった。
横井さんを私が知ったのは1969年頃だったからほぼ半世紀にわたる長い間の付き合いだった。当時私は民放労連の副委員長とマスコミ共闘会議(今のMIC)の事務局長を兼任していた。マスコミ共闘では当時反戦平和の大規模集会を活発に開いていたが、「ギター一本でどこにでも気軽に参加してくれる歌手」として紹介を受け、集会で歌ってもらったのが最初だった。
1969年といえば、世界の激動の時期であった。若い世代が世界各地で立ち上がり,文化、音楽、社会に革命的変化が起きていた。ベトナム反戦運動や反核運動も日本、アメリカ、フランスなど世界各地で高揚した。
ソロ歌手として日本各地の集会で歌い続けた横井さんは早くから世界に視点を広げた。1973年、まだ北爆が続くハノイを訪問、ファン・バンドン首相(当時)に面会、「戦車動けない」などを熱唱。ベトナムで広く知られる存在となった。1975年には第五回「ベルリン音楽祭」に出演、のちに持ち歌となった、アイルランドの曲「私の愛する街」に出会った。
1985年には、122台のギターとともにニカラグアを訪問。2008年にはベトナム政府より、ベトナム統一30年記念式典に招待され、ベトナム戦争を勝利に導いた国際的友人の一人として、「国際平和友好賞」を授与された。
最近ではネパールのへき地サチコール村に通い、子供たちにギターを教えるとともに、音楽ホールを建て寄付した。その他チリ、コスタリカ、南アフリカ、ポーランドなどでの音楽的貢献は枚挙にいとまがない。
日本国内では、70年代の初頭、薬害スモン患者たちの闘争を支援して「ノーモア・スモンの歌」を自作、デモ、抗議集会で歌声を響かせた。全国各地の腕利きの弁護士たちにファンが多いのはその結果である。(1978年スモンで国と製薬会社が負担した和解金は32億5400万円)。
また、峠三吉の歌詞を歌にした「にんげんをかえせ」は核廃絶のテーマソングとなり、2008国連総会に合わせたニューヨーク反核集会に参加した横井さんが歌った。CDジャケットの表紙には「焼き場に立つ少年」の写真(撮影ジョー・オダネル氏)が使われた。
横井さんが願った「核兵器禁止条約発効」は1月22日だった。横井さんの存命がかなわなかったことが、改めて悔やまれる。
横井さんの熱烈ファンの一人、京都の尾藤廣喜弁護士の訃報に寄せた言葉を紹介しよう。
「運動の中で生まれた曲には、『飯場女の歌』、『戦車は動けない』、『夫へのバラード』、『辺野古の海』、阿武隈高地 悲しみの地よ』などがあります。このような闘いのうただけではなく、『自転車にのって』、『なみちゃん』、『母に送る言葉』、『人生の始まり』、『歌って愛して』、『歌にありがとう』など生活に根ざした、生き方を考える歌も多く歌っておられます」。
隅井孝雄(ジャーナリスト)