2023年05月17日
【寄稿】安保3文書を考える 軍備依存は破滅の道 へ平和的解決の努力こそが外交だ 再びの災禍避けるには=元外務省局長 孫崎亨さん
岸田政権は昨年12月、安保関連3文書の閣議決定をした。三文書中、国家安全保障戦略と国家防衛戦略は、敵のミサイル発射基地などをたたく反撃能力を保有することを明記している。反撃能力は従来敵基地攻撃能力と呼ばれてきた。安保関連3文書の改定を受けて、日経新聞が行った世論調査では5年間で防衛力を強化する計画を支持するとの回答が55%で、支持しないが36%である。日本の多くの人はこれで日本の安全が高まったと思っているようだが、逆である。
真珠湾攻撃 真の成功か
戦争の歴史で、敵基地攻撃が戦術的に最も成功したものに、真珠湾攻撃がある。米国の戦艦、爆撃機等に多大な損傷を与え、米側戦死者は2,3
34人に上る。確かに敵基地攻撃は成功した。しかし当時の国力の差は1対10位の格差があり、結局日本は軍人212万人、民間人は50万人から100万人の死者を出し降伏した。敵基地攻撃の大成功は日本国民の破滅につながった。敵基地攻撃だけで優位に立てないのは今日の戦闘でも同じである。
ウクライナ戦争では、12月26日ロシア中部のエンゲリス空軍基地にウクライナ軍のドローン攻撃があり、3人死亡した。それでどうなったか。12月29日、ロシアはウクライナ全土計120発のミサイル攻撃を行った。中国は日本を攻撃しうる2千発以上のミサイルを配備していると言われ、核兵器を搭載しうる。日本が今後防衛費をGDP比2%にしたところで、軍事衝突では日本は必ず負ける。敵基地攻撃や反撃は必ず中国の軍事的反撃を招く。その際には中国が日本に与える被害は、日本が中国に与える被害の何倍も何十倍も大きい。
反撃能力と孫子の兵法
戦略の古典に孫子の兵法がある。中に次の記述がある。「軍隊を運用する時の原理原則として、自軍が敵の10倍の戦力であれば、敵を包囲すべきである。5倍の戦力であれば、敵軍を攻撃せよ。敵の2倍の戦力であれば、相手を分断すべきである。自軍と敵軍の兵力が互角であれば必死に戦うが、自軍の兵力の方が少なければ、退却する。敵の兵力にまったく及ばないようであれば、敵との衝突を回避しなければならない。だから、小兵力しかないのに、無理をして大兵力に戦闘をしかけるようなことをすれば、敵の餌食となるだけのこととなる」。
安保関連3文書の動きは本質的には「小兵力しかないのに、無理をして大兵力に戦闘をしかけるようなことをすれば、敵の餌食となるだけのこととなる」状況である。
では私達はどうしたらいいのか。
戦争国家に なぜ変質か
日本は平和憲法を保有する国である。どうして平和憲法を保有する国が戦争をする国家へと変質しようとしているのか。
私は護憲勢力、リベラル勢力に問題があるとみている。護憲勢力、リベラル勢力は武力を使わないことを主張し、武力を使う国を糾弾してきた。しかし、大切なことを行っていない。国際紛争を平和で解決する道の探求をしてこなかったことだ。
ウクライナ和平と日本
国際紛争を平和で解決するには一方の当事者の見解を100%通すことでは達成できない。お互いに妥協して初めて解決できる。日本が世界で最も平和的な国家であるなら、すべての国際紛争を平和で解決する努力を最も行う国であらねばならない。 ではウクライナ問題で、日本はいかなる努力をしたか。国際社会を見ると、ベネット・イスラエル元首相、トルコ・エルドアン大統領、インド・モディ首相、インドネシア・ジョコ大統領、中国、マクロン・仏大統領などは和平への仲介の意向を示した。日本の政治家の誰が和平を主張し、仲介の動きを示したか。ウクライナ和平と日本日本でどれ位、国際社会の中で和平を求める動きがあることを知っているであろうか。日本はあまりにもロシアへの糾弾と制裁だけを主張したのではないか。
NATOは不拡大約束
和平が実現するためには、過去の経緯、各々の主張を精査する必要があるが、ここではいかなる和平案があるかに絞って論じてみたい。
私は個人的に和平案として@NATOはウクライナに拡大しない、Aウクライナの東部二州は住民の意思により帰属を決める、を示してきている。
上記の二項目が、過去の経緯、国際条理で適当であるか否か。
話は1990年まで戻る。1990年ドイツ統一が国際政治の最大課題であった。この時、ソ連はドイツ統一に反対であった。ドイツが統一し強力な国家になって、ナチのように、再度ドイツがソ連を攻撃するのを恐れたのである。
それでベーカー・米国国務長官等がゴルバチョフ大統領等に「NATOは一ミリたりとも東方に拡大しない」と約束したのである。「NATOはウクライナに拡大しない」は1990年当時、西側諸国がソ連(当時)に約束したことであり、それを今日実施するのに不条理はない。
「Aウクライナの東部二州は住民の意思により帰属を決める」については、国連憲章を参照にすればいい。国連憲章第一条は国連の目的として「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること」を掲げている。必要なら国連が住民投票を主催してもいい。結果としてこの土地にはロシア系が7割程度居住してきており、ロシアとの併合を選択するとみられるが、それは大多数の住民の意思である。
国交正常化 合意が出発
日本で今、戦争をする国に変質しようとしている大きな理由は、リベラル勢力が、国際紛争はすべて妥協に基づく平和的な解決の道があることを示すという努力を怠ったことに起因する。
和平を求める動きは台湾問題でも同じである。我々はまず、過去の約束を出発点としなければならない。では西側と中国は過去どのような約束をしたか。1978年12月米中は国交回復に際し共同コミュニケを発出したが、ここでは「米は、中国が唯一の合法政府という主張を認めている」。日本もまた中国との国交樹立に際し、「中国は、台湾が国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中国政府の立場を十分理解する」としている。」
台湾の住民の意思をどうするかという問題はあるが、過去の合意の上でどう対応するかを米中、日中で協議することが何より重要だ。尖閣諸島問題でも、棚上げにするという田中・周恩来会談の合意、日中漁業協定の枠組みを守ることが先決である。
軍備に依存する議論の前に、紛争になりうる問題をいかに外交的に解決するかの考察から始めるべきである。それが今日の日本社会に欠如している。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2023年4月25日号
2023年04月18日
【寄稿】沖縄はまた「捨て石」か 「有事」報道洪水の罠=高嶺朝一
私たちは、毎日、テレビや新聞、インターネット媒体で、空に戦闘機、海に艦船、陸にはミサイルが林立するイラストを見せられている。琉球列島は全て無人島で人々の暮らしは存在しないかのようだ。どうしてメディアは、軍事化した出来事と見方を大量に流すようになったか。私たちは、いま巨大な誘蛾灯に引き寄せられる虫のような心理状況に陥っているのではないか。
「台湾有事」報道の洪水に危機感を抱いているのは私だけではないだろう。「有事」という用語は使ってほしくない。用語には人々を呪縛する力があり、「有事」対応が既定方針かのような意識にとらわれ、世論が形成される危険性がある。
人々は、どうしてこうなったかを探るより最新の展開に強い関心があり、それゆえメディアは最新の情報を流し続ける。現在の問題の原因は過去のどこかにあり、将来、起こりうる不幸な事態を避けるためには、現在の問題を明らかにすると同時に、過去に戻って検証する必要がある。
安保関連3文書の本質
「…万が一、我が国に脅威が及ぶ場合も、これを排除し、かつ被害を最小化させつつ、我が国の国益を守るうえで有利な形で終結させる」(国家安全保障戦略V我が国の安全保障の目標)、前段は「…我が国自身の能力と役割を強化し、同盟国である米国や同志国等と共に、我が国及びその周辺における有事、一方的な現状変更の試み等の発生を抑止する」とある。当然、台湾や尖閣が念頭にある。
太平洋戦争末期に大本営が「戦略持久」と称して採用した「沖縄捨て石」作戦とどこが違うのだろうか。
開戦当時、沖縄は、日本本土と南方資源地域を結ぶ海空の連絡拠点にすぎず、防衛強化は太平洋の主導権が米軍の手に移ってからだ。1943年12月末、大本営陸軍部は兵棋研究の結果、国防圏の縦深を強化しておく必要から南西諸島の戦備を強化することになった。翌年3月、南西諸島防衛のために第三二軍が編成され、11月に決定された第三二軍の新作戦計画では、米軍の本土進攻を遅らせるために「戦略持久」と称して「焦土作戦」がとられ、住民の4人に1人が亡くなった。
2015年7月、安保法制審議の衆院特別委員会地方参考人会が那覇で開かれた時、私は安保法制に反対する立場から次のようなことを主張した。
・東シナ海、南シナ海の小さな島々の領有権をめぐる争いは、漁業権や資源の探査をめぐるものであり、水産庁や漁業団体、海上保安庁などが中国や台湾の関係機関や団体と話し合えば解決可能。
・自衛隊が出てくれば軍事的な対立になる。「トゥキュディデスの罠」に陥るのを避けるべきである。古代アテネの軍人・歴史家は衰退する大国と台頭する大国との間で戦争が起こることを指摘した。
・尖閣問題は、米軍のアジア太平洋地域での兵力体制維持と予算獲得のため、そして自衛隊の役割拡大のために利用されてきた。安保関連法でいくらか縛りとなる条件をつけたにしても、日本人のメンタリティーからすると、米国の要求を拒否できるとは思えない。自衛隊の活動範囲は地理的な概念や任務の内容も際限のないものになる。
・平和憲法とともに歩んできた日本は、中国など周辺の国々と率直な対話を始めることが先で、あえて緊張を高めるような軍備の強化に前のめりになるべきではない。
日米同盟再定義の軌跡
米国から見た安全保障環境の時期区分によると、ポスト冷戦期には米国が世界で唯一の超大国になり、ロシア、中国、その他の国も、米国の地位または米国主導の国際秩序に重大な挑戦をもたらすとはみなされなかった。ソ連という「共通の敵」を失った日米政府は、同盟再定義を迫られた。
1995年9月、沖縄で3人の米兵による女子児童暴行事件が発生、米軍基地撤去を要求する声が高まり、クリントン政権は、対応を迫られた。大田昌秀知事の2期目だった。大田氏は学徒動員で沖縄戦を経験した元琉球大学教授。1996年4月、橋本首相とクリントン大統領による首脳会談で「日米安全保障共同宣言―21世紀に向けての同盟」が発表された。大田知事は、アジア太平洋地域に米軍兵力構成「約10万人」態勢の維持が首脳会談で合意されたことに反発した。将来も沖縄にアメリカの兵隊が居残り、米兵犯罪もなくならない。さらに「沖縄に関する特別行動委員会」(SACO)で決まった基地負担軽減策「米軍の施設及び区域を整理・統合・縮小」計画は、多くが県内移設を条件付きなので、住民の反対が予想された。
米国のアジア太平洋シフトは、同盟国日本を取り込む形でポスト冷戦期に始まり、現在の「新たな大国間競争の時代」に軍拡が顕著になった。
1995年2月、国際政治学者ジョセフ・ナイ氏がクリントン政権の国防次官補として「東アジア戦略報告(EASR)」を作成し、冷戦後の米国の東アジア安保構想を示した。これは、1997年の日米防衛協力の指針につながった。その後も対日外交の指針としてリチャード・アーミテージ氏らと超党派で政策提言した。2021年1月、バイデン政権発足で、アメリカ国家安全保障会議インド太平洋調整官兼大統領副補佐官(国家安全保障担当)に就任したカート・キャンベル氏は、ナイ氏に近い。二人は、最初から普天間飛行場の辺野古移設計画にかかわっていた。クリントン政権でアジア・太平洋担当国防副次官補、オバマ政権では東アジア・太平洋担当国務次官補を務めたキャンベル氏は著書「The Pivot: The Future of American Statecraft in Asia」(2016年)で中国の台頭に対応していくために米国の対外政策をアジアにシフトするように提言した。
ナイ、キャンベル、アーミテージ、マイケル・グリーン氏ら超党派の元政府高官・政策立案者グループは、日本のメディアへの露出も多い。
冷戦思考の亡霊いまも
「トルーマン以降の政権は、1989年に共産主義が崩壊するまで、ジョージ・F・ケナンの『封じ込め』政策のいろいろなバリエーションを採用してきた」(米国務省歴史課)。封じ込めの手段として政治、経済、軍事のいずれに比重を置くかの違いはあるにしても、歴代の政権は、対立と陣営選択を各国に迫った。バイデン政権も「封じ込め」政策の変形を推進している。冷戦思考は過去の亡霊ではない。朝鮮半島で生まれたある宗教が冷戦の戦士、「保守の政治服」を着て、日本と米国の政治に影響力を及ぼしたのは一例であって、さまざまな場面でワシントンと東京の政治を縛っている。
日本は、多くの人が10年前にはタブーと考えていた「敵基地攻撃能力」(反撃能力)を保有することになる。国内総生産(GDP)比で1%に制限してきた防衛費を2%に増やす。次は安倍前政権の主な目標であった憲法改正である。まさか、と思っているうちに世論は時勢に流されてしまうかもしれない。憲法の平和主義を過小評価すべきではない。外交と民間交流の現場でもっと活用されるべきだ。前文と9条には隣の国々、地域、人々と仲良く暮らす方策が書かれており、国際社会で「名誉ある地位を占めたい」という決意が込められている。
◇
たかみね・ともかず 元琉球新報社長、著書に『知られざる沖縄の米兵』(高文研)、共訳書『調査報道実践マニュアル―仮説・検証、ストーリーによる構成法』(マーク・りー・ハンター編著)
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2023年3月25日号
2023年03月18日
【寄稿】元防衛官僚・柳澤協二さん 安保3文書の危うい論理 日本がとるべき外交の道は
昨年末に「国家安全保障戦略」など3つの文書(以下、「3文書」という。)が閣議決定された。その核心は、「反撃能力」と防衛費の倍増である。敵基地は、相手国本土にある。それを攻撃すれば、安全になるどころか、相手国の再反撃を招き、ミサイルの撃ち合いという本格的戦争に拡大する。なぜ、こうした発想が生まれてくるのか。
「戦争不安」への
処方箋は2通り
今、「戦争があるかも知れない」という不安の時代である。戦争不安への処方箋は二通りある。一つは、戦争に備えることであり、もう一つは、戦争の要因となる対立を管理して、戦争を回避することである。戦争には動機がある。それは、軍備ではなく、対話によって管理されなければならない。
今の日本では、戦争の不安に駆られて戦争に備える「軍拡と攻撃」が論じられ、そのリスクやコストが論じられていない。攻撃には反撃というリスクがある。軍拡には、国力を疲弊させるコストがかかる。「政策の大転換」という強力な処方をとるなら、そのリスクとコストの説明が必要だ。また、アメリカ一辺倒という「生活習慣」を改善したほうがいいというセカンド・オピニオンもあるはずだ。どちらが日本に適した処方であるのか、それを国民が選択できるようにしなければならない。リスクとコストは、国民が背負うことになるのだから。
「国際秩序守る」
日本政府の幻想
3文書が守るべき目標とするものは、「自由で開かれた安定的な国際秩序」である。それが、日本の平和と繁栄を支えてきた。今、中国の台頭によって「挑戦」を受けている。そこで、この挑戦を退け国際秩序を守る必要がある、ということだ。その背景には、「米国が主導する自由で開かれた世界」という「普遍的な価値観」の実現こそ正義であるとのイデオロギーがある。価値観主導型の安全保障目標では、「そのために戦いも辞さない」ことになっても、「戦争だけは回避する」という発想は生まれない。
そもそも日本は、それほど立派な国であるのか。経済大国といっても、GDPの比率は5%を下回る。一人当たりの富や先進技術は、トップ10にも入っていない。正確に言えば日本は、「大国から滑り落ちた国」である。それは、中国がもたらした結果ではなく、経済構造を変革できなかった日本自身の問題である。
「外交が第一」と言うが、「有志国を増やす」外交は、「中国は悪い奴だ」と世界に触れ回る外交に他ならないので、敵を作る外交でもある。3文書が願望を込めて述べるような「世界から尊敬される国」の発信となることはない。
対中国ミサイル
戦争準備の願望
3文書は、中国において進化を遂げているミサイル・宇宙・サイバーといった戦い方に対応できないという危機感に彩られている。ウクライナ戦争の教訓として、ロシアに対抗する力を持っていなかったことを挙げ、中国も同じことをする可能性があるとして、日本も、自ら守るに足りる力が必要であると言う。その焦点となるのが、ミサイルの撃ち合いにつながる「反撃能力」である。
そして、「国の総力を結集する」ために、民間との技術・施設利用面での全面的協力が盛り込まれ、また、相手のサーバーへの侵入・破壊を前提とする「積極的サイバー防衛」や、SNSを監視する体制づくりなど、これまで経験したことがない手段が模索されている。
一方、これで抑止が万全になるかといえば、そうではなく、「我が国に脅威が及んだ場合」には、これを排除し(つまり、戦争して)国益に有利な形で終結させる」といった表現で、抑止が破綻してミサイルが飛んでくる事態も想定されている。
抑止の本質は、戦い抜いて勝利する(敵の目的達成を阻止する)ことに他ならない。問題は、国民にその覚悟があるか、ということだ。戦争は相互作用である。「戦争に備える」ために必要なことは、「敵をやっつける」よりも「被害に耐える」ことであるのに、国民への説明も訴えもない。
そのうえで、3文書は、「反撃能力」を5年間で構築するため、防衛費の大幅増額が必要であると結論付ける。だが、中国は、湾岸戦争や96年の台湾海峡危機の教訓を踏まえて四半世紀にわたる変革をしてきた。これに5年で追いつこうとするのは無理だ。また、持続的な防衛のために必要であると3文書がうたう「財政の余力」もない。
こうして、3文書は、実現可能な手段を欠いた「願望の羅列」に終わっている。これでは、国の安全は保障されない。戦争に備えるという過大な願望をやめ、戦争を回避する現実的な対話と外交が必要とされるゆえんである。
戦争を防ぐため
考えるべきこと
そもそも、戦争の不安がどこから来るのか。それは、米中という大国間対立が戦争の要因に浮上しているためである。戦後世界は、対立する大国間の相互抑止による安定の時代(冷戦)から、「一強」となった米国が対テロ戦争に乗り出しても混乱が拡大する世界を経て、今日、台頭する中国との間で安定的関係が築けない覇権競争の時代を迎えている。
そこでは、「米国とともにあれば安全」という戦後の成功体験は通用しない。守るべきは「米国主導の価値」ではなく、「戦争してはいけない」という「普遍的政治道徳」ではないのか。展望すべき未来は、米国一強による平和でも、新たな二極による冷戦的安定でもなく、価値観の対立を乗り越えた多極化世界のガバナンスではないのか。
同時に、未来像の追求だけではなく、日本は、目先の戦争を防がなければならない。
最も心配される台湾有事について一言だけ触れておく。台湾有事とは中台の戦争である。米国が参戦すれば米中の戦争となる。米国は日本を拠点に戦う。そこで日本が米国に協力すれば日中の戦争、すなわち日本有事となる。その時日本が問われるのは、米国とともに参戦してミサイルの撃ち合いを覚悟するか、米国への協力を拒否して日米同盟の破綻を覚悟するかという選択である。その選択は、誰もしたくないはずだ。それゆえ、日本は、台湾有事を回避することを最優先課題にした外交の知恵を見出さなければならないのである。
台湾問題の核心は、「台湾の独立」である。そこに中国の武力行使の動機がある。台湾の独立を否定する合意があれば、武力行使の動機はなくなる。「抑止deterrence」の不確実性を補う「安心供与reassurance」という手法であり、価値観よりも戦争しない利益に訴える外交である。こうした手法を含め、日本には、とるべき外交の道がまだ残されている。
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柳澤協二さん(やなぎさわ・きょうじ)NPO法人国際地政学研究所理事長、新外交イニシアティブ理事、防衛庁OB:現役時代は防衛庁官房長、防衛研究所所長などを歴任。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2023年2月25日号
2023年02月28日
【寄稿】軍拡の大前提=「脅威」は本当に存在するのか いまメディアが真っ先に問うべきことは=梅田正己
日本の防衛費をGDP2%へ一挙倍増すべきだという安倍元首相の遺言≠ェいつの間にか既成事実化されて、いまや自民党内では増税を含む財源問題が中心議題となっている。
マスメディアの報道や論調も、防衛力の強化を前提としたものとなっている。たとえば安保政策を大転換した閣議決定翌日の12月17日の朝日新聞の社説はこう書き出されていた。
「日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増しているのは事実で、着実な防衛力の整備が必要なことは理解できる。」
この認識は今回の政府の「国家安全保障戦略」の大前提となる情勢認識と共通している。同「戦略」にもこう書かれていた。
「我が国は戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に直面している。」
しかし、本当にそうなのだろうか。いまこの国は、安保政策を大転換し、防衛費を一挙に倍増し、防衛力を飛躍的に増強しなければならないような危機的状況に直面しているのだろうか。
事実に即して状況を観察・点検し、この国がはたして「戦後最大の軍事的危機」に直面しているのかどうか、政府の主張を検証してみる必要がある。
政府の「国家安全保障戦略」で具体的に示されている「脅威」とは、次の3つである。
1)中国の動向――「我が国と国際社会の深刻な懸念事項で、これまでにない最大の戦略的な挑戦」
2)北朝鮮の動向――「従前よりも一層重大かつ差し迫った脅威」
3)ロシアの動向――「ウクライナ侵略によって国際秩序の根幹を揺るがし、中国との戦略的な連携と相まって、安全保障上の強い懸念」
こうした脅威・懸念にたいする対抗措置として、政府は敵基地攻撃能力をふくむ戦後最大の防衛戦略の大転換、軍備の大増強を実行するというのである。
しかし本当にこうした脅威が実在するのだろうか。
ロシアは本当に
「脅威」なのか
まずウクライナ侵攻によって、戦争の悲惨さを私たちに伝え、震撼させたプーチンのロシアから考えてみよう。ロシアが実際に日本にも侵攻してくるような脅威となる存在なのか――。
現代世界においては、どんな国であっても、何の理由もなしに他国に侵攻するということはあり得ない。
今回のウクライナ侵攻も、基本的にはプーチンの大スラブ主義(大ロシア主義)の野望が生み出したものであり、ロシア語を話す人々がロシアと国境を接するウクライナ東南部に住んでいることを口実として実行された。
またロシアによる過去の侵略行為も、フィンランドをはじめバルト3国、ポーランドなどすべて国境線を踏み破って行われた。
それに対し、日本は海によってロシアと隔てられている。またロシアが日本と敵対する理由も事情もない。
過去の冷戦時代には、宗谷海峡を渡ってソ連が攻めてくるという話が喧伝され、そのため自衛隊は持てる戦車の半数を北海道に配備したが、やがて冷戦が終わり、軍事的な見地からもそんな作戦行動はあり得ないことが暴露され、日米合作のフィクションだったとして抹消された。
いかにプーチンといえども、ロシアが日本に侵攻する理由も口実もないのである。「ロシアによる軍事侵攻の脅威」は現実にはまったく成りたたない。
北朝鮮は本当に
「脅威」なのか
次に北朝鮮による「脅威」についてはどうか。
その根拠とされるのは、北朝鮮による相次ぐミサイル発射である。とくに日本列島を飛び越す長射程のミサイルが、四半世紀前のテポドン以来、日本に対する脅威として喧伝されてきた。
たとえば今年10月4日朝、日本列島を越え、太平洋はるか沖の東方海上に落下したミサイルは、「Jアラート」によりテレビ放送を1時間近く中断させて国民を不安がらせた。
しかし、「火星17号」と推測されるそのミサイルは、人工衛星よりもなお高い宇宙空間を平均マッハ4の速さで飛び去ったのであり、「Jアラート」などとはおよそ次元を異にする飛行物体だった。
ではなぜ、北朝鮮はミサイル発射実験に固執するのか。理由は、米大陸に到達するICBM(大陸間弾道ミサイル)を完成させたいからである。
北朝鮮は、米国とはいまなお潜在的交戦状態にある。なぜなら70年前に金日成と米軍の司令官とが調印したのは休戦条約であって、平和条約ではないからである。潜在的交戦状態にあるからこそ、米国は韓国に広大な空軍と陸軍の基地を配置し、毎年、北朝鮮の目の前で、北側海岸への上陸作戦を含む韓国軍との合同演習を威嚇的に実施している。
北朝鮮は米国との敵対関係を解消し、国際的な経済制裁を解除させて、経済復興にとりくみたい。そのためには、何としても米国と直接交渉をする必要がある。
そこで06年の米中ロ韓日との6カ国会議の場でも必死に米国と交渉したし、トランプ前大統領とも3度にわたって会談した。しかし、いずれも寸前のところで米国は身をかわし、交渉は不発に終わっている。
かくなる上は、米国を、身をかわせなくなる状況にまで追い込むしか方法はない。すなわち、核弾頭を装備したICBMを振りかざすことによって、米国にたいし休戦条約にかわる平和条約の締結を迫るしかない。
これがいわば、北朝鮮に残された、彼らが考える最後の生き残り策なのである。したがって、ミサイル発射実験も核実験も、相手国はただ一つ、米国なのである。日本などは眼中にない。
北朝鮮が日本に対して求めているのは、35年間にわたる植民地支配に対する謙虚な反省と代償であり、かつて日本政府が韓国に対して行なったのと同種の経済協力なのである。
そしてそのことは、02年の「日朝平壌宣言」で金正日と小泉純一郎、当時の両国首脳が約束し合っている。日朝国交回復ができれば、それは実現に向かう。その日本に対して、北朝鮮がミサイルを撃ち込んでくることなどあろうわけがない。それは人が自家に火を放つようなものだからである。
それなのに、自公政権は北朝鮮の現状を「従前よりも一層重大かつ差し迫った脅威」と決めつけ、大軍拡に向かって突進のスタートを切ろうとしている。「Jアラート」によって国民の危機感をあおったのと同様、これもフェイクである。(→続きを読む)
(→続きを読む)
2023年02月07日
【寄稿】取材・報道の自由あっての公共放送 権力への忖度・迎合 NHKの死につながる 形骸化した経営委 知的創造と生涯学習の場=前川喜平
NHK経営委員会の新会長選出の密室性に一石を投じた「市民とともに歩み自立したNHK会長を求める会」の前川喜平さんの新会長候補推薦は、経営委員会が稲葉延雄・元日銀理事を新会長に決定したことで区切りを迎えた。だが、NHK職員らからは「前川新会長」期待の声も届き 、会のメンバーらも喜んだ。JCJは、制度外の候補推薦をあえて引き受けてくれた前川さんに、公共放送としてのNHKのあり方について寄稿をお願いし、快諾をいただいた。
番組改変事件
私がNHKのあり方に自覚的に問題意識を持つようになったのは、「従軍慰安婦」を扱った番組「問われる戦時性暴力」が政治の圧力によって改変された事件が起きたころだ。同じ時期に中学・高校の歴史教科書における「従軍慰安婦」に関する記述への政治的な攻撃も激化していた。放送への政治介入と教育への政治介入は同時に起きていたのだ。文部官僚だった私はそこに共通する政治の横暴を見た。
第二次安倍政権下でNHKへの政治支配は激しくなった。二○一四年に会長に就任した籾井勝人氏が「政府が右と言うものを左と言うわけにはいかない」と妄言を吐いた時も、経営委員に百田尚樹氏や長谷川三千子氏が任命された時も、私はNHKの政治支配と右傾化に脅威を感じた。「クローズアップ現代」の国谷裕子キャスターは安保法制について菅官房長官(当時)に厳しい質問をしたことで降板させられ、岩田明子解説委員は安倍政権べったりの解説を垂れ流した。
スクープがボツ
二◯一七年の加計問題では真っ先に私を取材した中にNHKの社会部記者がいた。彼らは「総理のご意向」が記された文書も入手していたし、僕の証言映像も撮っていたが、それらは一切ニュースにできなかった。私を取材していた記者は私の前で涙を流していた。私が加計学園問題について記者会見を行ったのは二○一七年の五月下旬だったが、記者会見を行った理由の一つはその記者から「このままではニュースにできないから記者会見をしてほしい」と言われたことだった。
政治的中立性
政権に忖度したり迎合したり、いわんやそのお先棒を担いだりすることは、報道機関としての死を意味する。報道の政治的中立性・公平性は、特に公共放送であるNHKでは強く求められることだが、権力者が求める「公平性」は権力への批判を封じ権力に奉仕する結果しかもたらさない。「公平性」という大義名分があろうとも、番組制作への介入を許してはいけない。
真の公平性は自由な議論を通じて実現される。取材の自由、報道の自由、番組制作の自由そして議論の自由が組織内で確実に保障されなければならない。その自由こそが真実を追求する唯一の道であり、真実を追求することこそがNHKの公共性である。番組制作は学問にも芸術にも匹敵する高度に知的な営為だ。その基盤には精神の自由がなければならない。
政治任用ダメ
番組制作の自由を保障するためにはNHKの政権からの自立性が必要だ。それは学問の自由のために大学の自治が必要であるのと同じ理由による。その鍵になる仕組みが経営委員会であるはずだ。話し合いにより意思決定を行う合議制機関は一人の人間が意思決定権を持つ独任制機関よりも中立性・公平性を守りやすく、外部からの不当な介入も防ぎやすい。国においても地方においても政治的中立性が求められる行政が合議制機関に委ねられているのはそのためである。国にあっては人事院、公正取引委員会、原子力規制委員会などであり、地方においては教育委員会、人事委員会などである。
しかし国でも地方でも長期政権が続くと、委員の選任を通じて合議制機関への政治支配も可能になる。NHKの経営委員会はそうした委員の政治任用によって形骸化し、独立性を完全に失って政権の言いなりになっている。次期会長となる稲葉延雄元日銀理事は、岸田首相がごくわずかな側近と相談して選んだと報じられているが、内閣総理大臣にはNHK会長の選考権も任命権もない。これでは経営委員会はあってなきがごときものだ。それどころか二○一八年の「かんぽ生命不正販売問題」では経営委員会が当時の会長に圧力をかけて番組制作に干渉した。こんな経営委員会なら無い方がましだ。
総務大臣という独任制機関が放送行政を所管していることにも大きな問題がある。
独立行政委を
許認可権限を振りかざしてNHKをはじめとする放送事業者に干渉することが可能になるからだ。それを防ぐためには、放送行政自体も合議制機関即ち独立行政委員会が担う形に改革すべきである。その際には委員の選任に当たって野党の推薦する人物が必ず入る仕掛けにするなど、政権寄り一辺倒にならないようにする工夫が必要だろう。
戦後間もない時期にNHK会長になった高野岩三郎は「大衆とともに歩み、大衆に一歩先んじて歩む」NHKをめざした。この精神は現代もなお価値を失っていない。視聴率を上げようと視聴者に迎合するようなことは公共放送の仕事ではない。NHKは一つの知的創造の場であり生涯学習の場であると思う。その意味では、大学と図書館と博物館と公民館の機能を持ち合わせていると言ってよい。視聴者である市民に一歩先んじて、市民が学び考えるべき課題を提示し、市民が議論するフォーラムを提供する。それは民主主義の基礎としての「知る権利」と「学ぶ権利」に奉仕することにほかならないのである。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2023年1月25日号
2022年11月18日
【寄稿】無理に無理を重ねた国葬 広がる反対 はりぼて°V式 メディアは検証続けて=永田浩三さん
どの世論調査でも6割以上の人々が「反対」だったにもかかわらず、儀式は強行された。だが6000人の招待者の4割は欠席した。
9月27日の同じ時刻、国会議事堂前に抗議のために結集した市民は15000人に上った。
反対の声が顕著になったのは、8月16日の新宿西口での集会の頃からだろうか。鎌田慧さん、落合恵子さん、前川喜平さん、わたしもいた。新宿の街をデモする私たちを見つめる表情は共感にあふれていた。それから1か月半、人々の怒りは各地で膨れ上がった。
安倍氏が殺害されたのは7月8日。長年被害に苦しんできた統一教会信者二世の銃弾に倒れた。以来、安倍氏を頂点とした自民党政治家と統一教会との深い関係が、次々に明らかになっていく。民放のワイドショーだけでなく、いつもは高齢者の健康や金の記事であふれる週刊誌も競うように問題を取り上げた。読売テレビ『ミヤネ屋』は、統一教会の被害について長年取り組んできたジャーナリストや弁護士を連日スタジオに呼び、ことの重大さを知らしめた。
国葬とは、天皇が臣下の軍人や政治家の功労を称える、統治のための装置。平等や思想信条の自由を謳う日本国憲法の精神にそぐわず、法的な根拠すらない。
モリカケ桜だけでなく、統一教会というさらなる闇。それを知った国民の半分以上が国葬に反対する中、大手メディアが何事もないかのように参列してよいのか。
9月18日、マスコミ人の有志たちは、在京新聞とNHKとキー局に対して、国葬参加の有無とその理由の説明を求めるネット署名を始めた。呼びかけ人にはわたしも参加した。
初日の署名はわずか500。だが3日目は一気に29000に増え、5日目の締め切り時点で40745筆に達した。それを各社に送り返事を求めた。回答したのは毎日新聞のみ。「毎日新聞社は社長以下の役員や編集幹部の参列を見合わせます。ただし不幸な事件で殺害された安倍元首相への弔意を否定するものではなく、社長室次長と東京本社代表室長が参列します。また、本社会長は日本新聞協会会長を務めていることから参列する予定」とあった。
他社はどうだったのか。欠席したのは朝日新聞と中日・東京新聞。テレビ局はNHKを含めて在京キー局は出席した。視聴者に向き合う誠実な態度と言えるのだろうか。
27日の当日、わたしは大学のゼミがびっしり詰まっており、国会前にたどり着いたのは17時前。議事堂の前には集会の余韻が残っていた。
この日、テレビはどのように伝えたのか、録画しておいたものを深夜に点検した。
JCJが編集した『マスコミ黒書』によれば、1967年の「吉田国葬」では、フジテレビが13時間1分、NHK総合は5時間35分。各社故人を顕彰する特集番組を多く並べた。
だが今回はそこまで追悼一色とはならなかった。視聴者からの批判を気にしたからだろうか。NHKは13時45分から放送を始めたが、反対集会をしっかり紹介し、世論調査の結果やモリカケ桜・統一教会問題についても伝えた。
肝心の国葬中継はどうだったのか。わたしはスタジオ番組を多く経験したが、看板や祭壇は、安手でペラペラな感じが漂う。武道館で流された「故人を偲ぶビデオ」。安倍氏本人が弾くピアノに合わせて、震災復興に尽力し外交で成果をあげたことが称えられていた。NHKは丸ごと紹介したが、映像は政府がつくったものでNHKは関係ないことを明言するクレジットが表示されていた。
岸田首相の言葉は何一つ響かなかった。おっと思ったのは、友人代表・菅義偉前首相の弔辞だった。安倍氏の机に一冊の本が置かれており、開いたページには伊藤博文を失った山縣有朋が、故人を詠んだ短歌があったとして、二度その歌を読み上げた。いつもの菅氏に似つかわしくないウエットな言葉。
国葬から4日後、「リテラ」が、このくだりは当の安倍氏がJR東海・葛西敬之会長を送った弔辞の一節だったことを明らかにし、「日刊ゲンダイ」も大きく取り上げた。
菅氏やスピーチライターは安倍氏の弔辞があることを知りながら、何事もないように流用したのか。批判が集まり世間が注視する中での堂々たるコピペ。安倍・菅・岸田3代にわたる政権がいかにはりぼてかを物語る。
無理に無理を重ねた「国葬儀」。メディアは顕彰ではなく検証を続けてほしい。
永田浩三
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2022年10月25日号
9月27日の同じ時刻、国会議事堂前に抗議のために結集した市民は15000人に上った。
反対の声が顕著になったのは、8月16日の新宿西口での集会の頃からだろうか。鎌田慧さん、落合恵子さん、前川喜平さん、わたしもいた。新宿の街をデモする私たちを見つめる表情は共感にあふれていた。それから1か月半、人々の怒りは各地で膨れ上がった。
安倍氏が殺害されたのは7月8日。長年被害に苦しんできた統一教会信者二世の銃弾に倒れた。以来、安倍氏を頂点とした自民党政治家と統一教会との深い関係が、次々に明らかになっていく。民放のワイドショーだけでなく、いつもは高齢者の健康や金の記事であふれる週刊誌も競うように問題を取り上げた。読売テレビ『ミヤネ屋』は、統一教会の被害について長年取り組んできたジャーナリストや弁護士を連日スタジオに呼び、ことの重大さを知らしめた。
国葬とは、天皇が臣下の軍人や政治家の功労を称える、統治のための装置。平等や思想信条の自由を謳う日本国憲法の精神にそぐわず、法的な根拠すらない。
モリカケ桜だけでなく、統一教会というさらなる闇。それを知った国民の半分以上が国葬に反対する中、大手メディアが何事もないかのように参列してよいのか。
9月18日、マスコミ人の有志たちは、在京新聞とNHKとキー局に対して、国葬参加の有無とその理由の説明を求めるネット署名を始めた。呼びかけ人にはわたしも参加した。
初日の署名はわずか500。だが3日目は一気に29000に増え、5日目の締め切り時点で40745筆に達した。それを各社に送り返事を求めた。回答したのは毎日新聞のみ。「毎日新聞社は社長以下の役員や編集幹部の参列を見合わせます。ただし不幸な事件で殺害された安倍元首相への弔意を否定するものではなく、社長室次長と東京本社代表室長が参列します。また、本社会長は日本新聞協会会長を務めていることから参列する予定」とあった。
他社はどうだったのか。欠席したのは朝日新聞と中日・東京新聞。テレビ局はNHKを含めて在京キー局は出席した。視聴者に向き合う誠実な態度と言えるのだろうか。
27日の当日、わたしは大学のゼミがびっしり詰まっており、国会前にたどり着いたのは17時前。議事堂の前には集会の余韻が残っていた。
この日、テレビはどのように伝えたのか、録画しておいたものを深夜に点検した。
JCJが編集した『マスコミ黒書』によれば、1967年の「吉田国葬」では、フジテレビが13時間1分、NHK総合は5時間35分。各社故人を顕彰する特集番組を多く並べた。
だが今回はそこまで追悼一色とはならなかった。視聴者からの批判を気にしたからだろうか。NHKは13時45分から放送を始めたが、反対集会をしっかり紹介し、世論調査の結果やモリカケ桜・統一教会問題についても伝えた。
肝心の国葬中継はどうだったのか。わたしはスタジオ番組を多く経験したが、看板や祭壇は、安手でペラペラな感じが漂う。武道館で流された「故人を偲ぶビデオ」。安倍氏本人が弾くピアノに合わせて、震災復興に尽力し外交で成果をあげたことが称えられていた。NHKは丸ごと紹介したが、映像は政府がつくったものでNHKは関係ないことを明言するクレジットが表示されていた。
岸田首相の言葉は何一つ響かなかった。おっと思ったのは、友人代表・菅義偉前首相の弔辞だった。安倍氏の机に一冊の本が置かれており、開いたページには伊藤博文を失った山縣有朋が、故人を詠んだ短歌があったとして、二度その歌を読み上げた。いつもの菅氏に似つかわしくないウエットな言葉。
国葬から4日後、「リテラ」が、このくだりは当の安倍氏がJR東海・葛西敬之会長を送った弔辞の一節だったことを明らかにし、「日刊ゲンダイ」も大きく取り上げた。
菅氏やスピーチライターは安倍氏の弔辞があることを知りながら、何事もないように流用したのか。批判が集まり世間が注視する中での堂々たるコピペ。安倍・菅・岸田3代にわたる政権がいかにはりぼてかを物語る。
無理に無理を重ねた「国葬儀」。メディアは顕彰ではなく検証を続けてほしい。
永田浩三
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2022年10月25日号