2025年12月03日

【25年JCJ賞受賞者スピーチ】特別賞 ガザの今、伝えねば 常軌を逸した非人道行為=萩原 健さん(国境なき医師団)

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 私はモノ書きでもジャーナリストでもない人権運動活動家です。その私が本を書いたのは、国境なき医師団の緊急対応コーディネーターとして昨年、ガザの現場で活動した者として、現地で実際に起きていたことをどうしても伝えなければならないと思ったからです。
その理由の一つは、人々の関心が時間が経つと失われていくことへの危機感です。

 ガザで起きていることはメディアやSNSで瞬時に伝わりますが、そこで起きている一つひとつのが何を意味しているかまでは伝わりません。
 私はこれまでシリアやスーダン、ウクライナなどの紛争地で活動してきました。昨年、ガザは私が訪れた時もイスラエル軍による凄まじい攻撃を受けていました。住民は退避を要求され、日に何度も移動を強いられます。ガザには安全な場所などありません。まばたきをした次の瞬間に、もうこの世にはいなくなってしまう、という現実を私自身が目撃しました。

 水もイスラエルに水源を握られ、海水を淡水化するための装置や給水車が攻撃の対象にされていました。
患者は病院で感染リスクと向き合いながら診療を受け、外はいつ起きてもおかしくない感染のアウトブレイクにさらされています。
 栄養失調や飢餓は、経済、社会、文化や風習、医療の全部を含めた社会システムによって起きる問題です。ガザは今、社会システムのすべてがイスラエルの軍事攻撃で壊されてしまっている状況です。

 ガザで行われているのは、イスラエルによる常軌を逸した非人道的行為の日常化です。それが常態化し普通になるとそれに異を唱える私たち、ガザの外にいる私たちの中には無力感を感じる人たちも出て来ます。その先に待つのは諦めと無関心、そして最終的には完全な無関心と沈黙です。

 私はガザで起きていることを、現場を見た人間が具体性を持って伝えたい。さらに時間をおかずに伝えたいと思い、本を書きました。
 私たち一人ひとりは、立場が違います。できること、できないことも違います。
 しかし今回だけは私の持っている危機感を少しでも多くの人に共有していただきたいと思います。少しでも多くの人たちの眼が、ガザの現状に向かってくれることを切に願ってやみません。
      JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2025年10月25日号 
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2025年12月02日

【25年JCJ賞受賞者スピーチ】信頼される報道をする 県警の不祥事隠ぺい追う=前田慎伍さん(鹿児島テレビ放送)

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 鹿児島県警の情報漏洩事件は、私たちが経験したことのない、ありえない状況の連続でした。本来は悪いことをした人を逮捕する警察が、悪事を取り締まる警察官を次々と逮捕するという異例の事態。その逮捕容疑も驚かされました。メディアに情報を流した、という私たちの日ごろの取材行為そのものを取り締まることができるという信じられないものでした。

 さらに逮捕された元生活安全部長は、その動機を「本部長が警察職員の犯罪行為を隠ぺいしようとしたことを許せなかった」と組織のトップを名指しで糾弾しました。本当に驚きました。
 今日ここに参加できなかったプロデューサーの四元良隆からのコメントを代読します。
 今回の一連の問題は警察の組織の問題だけでなく、私たちメディアの在り方が問われた問題になりました。実は今回の事件、鹿児島のメディアではなく、ほかの県のジャーナリストたちに寄せられた情報で発覚したものでした。

 私たちメディアは、地域の人たちに信頼される存在なのか、そんな重い問いかけを突きつけられました。何のために、誰のために私たちは報道しているのか―。ダメな自分たちを認め、地域のメディアの存在意義と向き合いながら、この問題と対峙することになりました。プロデューサー、ディレクター、記者、全員で現場に向かい、一つひとつ悩みながら取材し、繰り返し放送しました。

 ある警察官のインタビューに4カ月もかかりました。鹿児島の人たちに信頼される報道をする、そんな思いで60本を超えるニュースや企画を放送し、ドキュメンタリー番組へと繋げてきました。
 今回、私たちのような小さな報道がこの賞を頂けた意味は、「故郷のためにモノ言うテレビでありなさい」、今回の受賞は、小さな地方局でもジャーナリズムを忘れずに、弱者視点に立って伝えることが大切だと激励を受けたような気がします。これからも南の鹿児島から地域の人々のために頑張りたいと思います]

 元生活安全部長が逮捕されて1年3カ月以上経ちますが、裁判の日程すら出ていない状況です。同部長が行った行為が公益通報なのか否か、元本部長が隠ぺい行為に携わったのかどうか、これからも取材を一つひとつしていきます。
       JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2025年10月25日号
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2025年11月28日

【25年受賞者スピーチ】核の人間破壊に抗う 記録写真や手記を生かす=水川 恭輔さん(中国新聞)

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 「ヒロシマドキュンメント」は被爆80年に向けて昨年8月から始めました。79年前の同じ日、同じ時期に広島はどんな状況だったかを1945年については12月31日まで毎日報じました。今年は46年以降の状況をたどり、合計で350本以上の記事を掲載しました。

 米軍が投下した原爆のきのこ雲の下、人間たちや広島の街に何が起きたかに記録と証言で迫りました。中国新聞も社員の3分の1にあたる114人が被爆死し、本社は全焼しています。
 企画では45年8月6日に中国新聞のカメラマン、松重美人さんが撮影した写真を起点に朝日、毎日など報道機関が撮った記録写真を活用しました。原爆の写真というと、米軍が核兵器の効果を調べるため、上空から撮ったきのこ雲が教科書などに使われますが、今回は被爆者本人や報道機関などが撮った写真を重点的に取り上げています。

 背景にあるのは危機感です。ロシアのウクライナ侵攻に伴う核の脅しがあり「核のタブーが崩壊しかねない」状況です。被爆者の平均年齢が86歳を超え、証言だけに頼って当時を把握することは困難になっています。

 伝えたかったのは、核の力を誇る国家の視点とは正反対の人間、市民から見た核兵器の実態です。涙に目をくもらせながらシャッターを切った松重カメラマンの写真も含め、未曽有の惨禍を撮影した日本側の写真は3000枚近くになります。旧日本軍の焼却命令、占領軍の提出命令に抗って残されたものも少なくありません。報道制限の中で残された手記や日記、文学もあります。
 韓国をはじめ海外の被爆者や、マーシャル諸島などの核実験被曝者に対する救援、連帯活動も取り上げ、核の人間破壊に抗ってきた市民の歴史に光を当てました。

 壊滅した爆心地一帯の代表的なパノラマ写真を撮った林重男さんは「私たちの写真が永遠に最後にあるように」という言葉を残しています。次の世代が惨禍の実態と人間の営み、格闘を知り、継承していく一助になればと思っています。
       JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2025年10月25日号 
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2025年11月27日

【25年JCJ賞受賞者スピーチ】=南京と沖縄つなげる 新しい戦前≠ノはしない 中村 万里子さん(琉球新報社)

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 「新しい戦前≠ノしない」キャンペーンは昨年3月22日、沖縄戦を指揮した第32軍の創設の日に始めました。連載「戦世ぬ沖縄」では日本のアジア侵略と植民地支配の最終局面にあった沖縄戦までを体験者の証言で伝えました。沖縄は加害者にも被害者にもさせられたという内省を踏まえた取り組みです。

 沖縄戦は1945年3月下旬から3か月にわたる激しい地上戦でしたが、日中戦争が沖縄戦にどうつながったのかは、これまで取り上げられなかったテーマです。
 沖縄では「南京・沖縄を結ぶ会」が、中国と市民交流をしようと23年に初めて南京に行きました。沖縄戦を日中戦争から書き起こそうと思い私も、23、24年と同行取材しました。訪中団の参加者は日本兵の子や孫の世代。南京事件があった当時、父親は南京にいたことが軍隊手帳からわかったが、父は何も話さず、ただ中国残留孤児の番組を見ながら「日本軍はひどかったよ」とつぶやいた。そんな背中を見ながら育った方々でした。

 「南京陥落(1937年12月)の時、沖縄でもものすごく祝った」「神社になった首里城で提灯行列があり、日の丸を振って喜んだ」と話した首里の新元貞子さんは、「なんてばかだったのだろう」と振り返りました。
 日中戦争から引き返せなくなり、沖縄の人がどう動員されたか、その構造が見えてきました。
 沖縄戦に備えて1944年、大勢の兵士が中国から転戦して沖縄にきます。そこで彼らが目にしたのは中国と似た沖縄の習慣でした。
 豚を便所で飼い人糞も餌になる。それが重なり、沖縄の人への酷い暴力、差別につながったとの証言もあります。

 米軍の上陸時、第32軍は「沖縄語」をしゃべる人は殺害せよと命令しました。貫かれていたのは差別のまなざしです。
 沖縄戦の最中、3紙統合でできた「沖縄新報」は留魂壕に輪転機を持ち込み、特攻精神を高揚する新聞を発行し、学徒隊や壕内の住民に配りました。先輩たちは「あの時、何で軍の言いなりだったのか」と話しました。
 後悔を2度と繰り返してはいけない。武力によらない平和を願う心を伝え続けたいと思います。
       JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2025年10月25日号
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2025年11月16日

【25年JCJ賞受賞者スピーチ】大賞 地域・社会も壊す虐殺 一貫して排外・差別の日本 ノンフィクションライター 安田浩一さん

 
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 きょう、ここにお並びの受賞者の方々と私に共通しているのは「畜生、やりやがったな」という感覚だと思います。
世の中の理不尽を目の当たりにしたとき、やられっぱなしでいられるか。なめられてたまるかと怒る。これはメディアにとり一番大切な感覚です。それを失ったら権力の広報機関か、ただ大衆に媚びるだけの存在になる。

 私はそのどちらにもなりたくない。そうした姿勢を評価していただいたことを嬉しく思います。
 JCJ賞は2度目の受賞です。2012年、『ネットと愛国』という本を書きました。当時は在日コリアンに対する差別が露骨になってきた時期で、在特会(在日特権を許さない会=後の日本第一党)とかが特定の民族をやり玉にあげ、「殺せ」「叩き出せ」と町を練り歩いていました。
 これが私には許せませんでした。むかついた。だから彼らが何を考えているのか。社会はどう向き合うべきなのか。きっちりと取材しようと思った。

 本は評価されたようでしたが、気になることもありました。ある在日コリアンのおばあちゃんに言われたのです。「安田さん、全然新しくないんです。『死ね』とか『殺せ』とか『出ていけ』とか、そうした言葉が在日コリアンに向けられるのは何も新しくない」って。
 ドキッとしました。その通りです。思えばこの国が排外主義とか差別と無縁だったことが、一度でもあっただろうかと。102年前には「殺せ」と叫ぶだけでなく実際に殺している。関東大震災のときの朝鮮人虐殺です。これを取材しようと考えた。しかし、なかなか手がつきませんでした。
 102年前の事件で、証言者がいるわけではない。どうやってノンフィクションとして成立させるか。10年悩みました。そして10年目。やはり現場しかないと足を運んだのが、荒川の河川敷でした。

 1923年秋にここで多くの朝鮮人が刀や槍や鳶口で殺された。昭和の喜劇人・伴淳三郎は目撃した虐殺の様子を自伝に書いています。「日本人は朝鮮人をめちゃくちゃに壊している」と。プロレタリア作家の佐多稲子は「私は鳶口を抱えて一晩中、家の中に閉じこもった」と書きました。

 私は鳶口を見たことがなく、四谷の消防博物館まで見に行きました。鳶口は昔の破壊消防の道具でした。そう、虐殺は、人を殺す、傷つけるだけでなく、壊すんですね。人間を、地域を、社会を壊すんです。
 差別の標的は変わり、今はクルド人です。彼らがなぜ急に差別の対象となり始めたのか。理由は目立ってきたからです。難民申請をしても認められず抗議した。その姿が報じられて“発見”されたのです。日本社会の中で物を言う社会的弱者は叩かれる。私はそうした風潮がたまらなく嫌です。
 これ以上、社会を壊されてたまるか。そういう気持ちで、取材活動を続けていきます。
         JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2025年10月25日号  
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