ベトナム戦争が終わ って半世紀が過ぎた。
1975年4月30日、 サイゴンが陥落、アメリ カは完全な敗北を喫した。
米軍の侵略は195 4年に始まった。その間 南ベトナムの人々は連日 の殺戮におびえ、北は無 差別爆撃で焦土と化した。 死者は北で360万人、 南で100数十万人とさ れる。
戦勝と南北統一を記念 して、ベトナム外務省新 聞局は戦時中にベトナム を取材したジャーナリス トらをこの4月ホーチミ ン市に招待した。戦場か らの事実報道が米国と世 界を揺るがし、ベトナム の勝利に貢献したと評価 したからである。記者総 数は600名に上るとさ れる。日本からは70余 名(うち15名は戦場死) だった。戦後、鬼籍に入 ったか闘病中で、招きに 応じたのは各国から20 数名である。日本からは 私と石川文洋の二人だけ であった。新聞局は60 名を招いていたが、その 多くは戦後に取材した記 者たちであった。
私は1970年、北爆 下のハノイに入ったのが 最初だった。当時は北に 入りにくかったが、ジャ パンプレスが ベトナム 通信社と契約があったた めスムーズに実現できた。 日本電波ニュース社や赤 旗はすでにハノイに支局 を設けていた。1965 年には毎日の大森実外信 部長が、67年にはTBS の田英夫 キャスターや 古谷綱正もハノイ入りし ていた。ジョーン・バエ ズやジェーン・フォンダ も入った。これを米側は 睨んだ。大森、田、古谷 らは職を変え、後に次々 と他界してゆく。ピュー リッツァ賞の沢田教一や 作家の開高健も鬼籍に入 った。朝日で解放区潜入 をスクープした本多勝一 氏は闘病中である。ベト ナムはこうした人たちを 招きたかったに違いない が間に合わなかった。
アメリカからはAPや UPI等の特派員たちが 招かれていた。その一人、 70年からNYタイムズ などに寄稿していたT・ フォックス氏が注目され た。戦時に覚えたベトナ ム語で「私たちは戦争が 無数の悲しみを引き起こ したことを知っています。 良心あるアメリカ人を代 表して、米国が貴国に行 なったことをお詫びしま す。」と挨拶したからだ。 こうした率直さがベトナ ム人の心を掴む。本来な ら米大統領がやるべき謝 罪なのだ。
戦争中に米メディア が果たした役割は秀逸だ った。特筆すべきは「国 防総省秘密報告」の暴露 だ。1971年、NYタ イムズのニール・シーハ ン記者がエルズバーグ博 士から入手して連載。米 側がトンキン湾事件ので っち上げをやった事実も そこには記されていた。
政府はNYタイムズ を訴えたがその頃には W・ポストにコピーが渡 っていた。そこも訴えら れると次はボストン・グ ローブがというように連 携しての抵抗だった。連 邦最高裁がメディア側勝 訴の判決を下したのはい うまでもない。教訓はそ こにある。
翻って日本。戦争へとつき進む政 権をメディアの結束で糾 弾できているだろうか。
JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2025年6月25日号
2025年07月10日
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